いつも笑っているあの人が泣いていた。声を殺して、呻くみたいにして。
冷たくて薄っぺらい扉の向こうから聞こえてくる嗚咽は、いつまでもいつまでも響いていて、それを聞きながら俺が思ったのは、綺麗な人は泣き方も綺麗だなんてくだらない事。
そんなことを考えているしかなかった。だって俺じゃ、あの人を笑わせることはできないから。





暑い日差しがじりじりと照りつけて、その照り返しが容赦なく俺を襲う。まるで鉄板の上で焙り焼きされているような感覚に陥って、小さくため息を漏らした。
丸焼きになってもきっと俺は美味しくない。美味しいのは丸井先輩くらいだ。あの人の無駄な脂肪も、この太陽に焼かれれば少しは落ちるだろうか。
息を整えるためにずっと振っていたラケットを止め、けれどすぐにまた振り始める。だって、そうでもしないとあの時の部長の声を思い出してしまうから。
不規則に乱れた呼吸とラケットが風を切る鋭い音。そして規則的に響くボールと壁の接触音。他に響く音は無くて、それだけ集中していたら他の何かを考えている余裕もない。


「赤也―!休憩だぜぃ!」


遠くから響いてきた声に反応してラケットを止める。中途半端な力で打たれたボールが、壁にぶつかって情けない音を立てた。
振り返ると、落ちていく太陽のような髪をした先輩をぴょこぴょこ跳ねながら手を振っていて、それに応えるために手を振り返す。
ころころと転がったボールを拾い上げ、ゆっくりと先輩たちの所に向かった。


「練習試合が終わってずっと壁打ちしてたのかよ?」
「そうっすよ。俺、真面目なんで」
「はっ、にっあわねーの!」
「うるさいっす」


なんだかんだとケチをつけながらもドリンクを渡してくれる先輩に礼を言って、コート近くに生えている木の根元に向かった。厚く茂った葉のおかげで、そこはいつも影ができている。休憩の時間はそこで過ごすのだけれど────今日は珍しく先客がいた。


「柳先輩」
「赤也か。そういえば、お前もここを使っているんだったな」
「柳先輩もなんですか?」
「いつもではない。今日のようにデータをまとめる時はここに来ることが多い。多少狭いだろうが、我慢してくれ」
「全然大丈夫っす」


分厚いノートにつらつらと文章を連ねる先輩の隣に座り、よく冷えたドリンクを喉に流し込む。照りつけられて熱くなっていた体が、体内に取り込まれた飲料水によって冷却され、落ち着きを取り戻していく。
木にもたれかかってため息をつくと、柳先輩が顔を上げた。


「何か悩み事か?」
「いきなりっすね」
「お前がため息をつくなど珍しいからな」
「……それ、暗に脳天気だってけなしてません?」


気のせいだ、と言いつつ柳先輩はノートを閉じた。瞳が全く見えない目を向けて、口元に笑みを浮かべる。


「まぁ話してみろ。俺に解決できるなら手助けしてやらない事もない」
「えー、たぶん無理だと思うんですけど」
「試してみるのも一興だぞ」
「じゃあ……まぁ話しますね。昨日、幸村部長の見舞いに行ったんです。そしたら────……」


泣いていた。
開ける事のできなかった扉の向こうで、あの人は泣いていた。
声を殺して、でも嗚咽が漏れていて。触れてしまった取っ手がいつもよりも冷たい気がして、それから手を放すことさえできなかった。いつも柔和な笑みを浮かべて、何をしても怒らなくて。俺がどんな問題を起こして部活停止の危機に陥ってもにこにこ笑っていたあの人が、みっともないくらいあけすけに泣いていたんだ。
それは、今まで見た事のないあの人の弱さのようで、見てはいけないものをみてしまったようで。
忘れようと思うのに、あの声が耳について離れない。


「……精市だって泣くことくらいあるさ。ただでさえ、今の状況は良いとは言えないのだから」
「そうなんです。それは分かってるんですけど────……」
「肝心の奴が腑抜けだからな。精市も泣きたくなるだろう」
「ですよね」


辛い事はみんなが知っている。
だからこそ、部員は頻繁に見舞いに通ってあの人を笑わせようとしているのに────肝心の副部長は、なかなか病室に行こうとしない。
あの人の涙の理由には、それも含まれているだろう。


「最も会いたい人間が傍に来てくれない、か。こればかりは俺たちではどうしようもないな」
「柳先輩、副部長に言ってくださいよ。見舞いに行って、部長に会って来いって」
「俺が何も言わなかったと思うのか?何度も諭したさ。だが、帰ってくる返事は同じだ」


少しだけ声を潜めて、たるんどる、と柳先輩が呟く。大仰に肩をすくめる仕草は、彼が本当にお手上げ状態なのだということを明確に示していた。


「言っちゃなんですけど……馬鹿ですね」
「今頃気づいたのか。あいつは馬鹿だぞ。どうしようもないくらい、馬鹿で腑抜けで間抜けだ。つける薬もない。唯一効きそうなのが精市の言葉だが、聞きに行こうとしないのだからどうしようもないな」
「……そっすね」


いい加減、欝憤が溜まっているのだろう。間抜けな副部長を支え、不安定な部長を気遣ってきた柳先輩は、きっと俺以上に苦労している。
その苦労を分かち合いたいけれど、はたして俺にできることがあるのだろうか。


「休憩が終わったようだな。行くぞ、赤也」
「……うぃっす」


遠くで赤い髪がぴょこぴょこと揺れている。きっとまた跳ねているんだろう。その姿が簡単に想像できて、思わず笑った。


「先輩」
「何だ?」
「なんで幸村部長は、真田副部長が良かったんでしょうね」
「────そうだな。これは俺の一方的な予測だが、自分には無い強さと真っ直ぐな心を弦一郎が持っていたからじゃないか?それに惹かれたんだろう」


そう言われればそんな気もして。ああやっぱり俺ではあの人を笑わせることはできないのだと、そう思った。
俺じゃ駄目で、柳先輩でも他の誰でもきっと駄目で、ならやっぱり────。


「俺、真田副部長のトコ行ってきます」
「…そうだな。お前が言ってやるのが一番いいだろう」
「はい」


休憩後のメニュー伝達のための集合している所に向かう。柳先輩を置いてきぼりにして、副部長の所に走った。
全速力で駆けてくる俺を、他の先輩が不思議そうに見つめている。その中には副部長も含まれていて、ぼんやりと俺を見つめているその呑気さに無性に腹が立った。


「柳生先輩、はいこれ!」
「え?あ、はい……って、切原君!?」


途中でラケットとドリンクを柳生先輩に押し付けた。後ろで何か叫んでるけどそれは無視。後は一直線に副部長の前に立って、大分上背のあるその身体を見上げた。
睨むように見つめていると、まっすぐに見返された。黒い、夜の闇を切り取ったような深い漆黒の瞳。


「何をやっておるのだ、貴様は。立海のレギュラーたるもの、もう少し落ち着きを……」
「おせっきょーなら後で聞くんでちょっと黙ってください」
「なっ……そこに直れ、赤也!最近のお前はたるんどるぞ!」
「たるんでんのはどっちっすか!」


思わず大声が出ていた。後ろの方で、うへぇとかようやるのぅとかご愁傷様ですとはちらほらそんな声が聞こえたけど、それも完全に無視。制裁なら受けてやるさ。いくらでも殴ればいい。でも、それは俺の言葉を聞いた後だ。


「あんたが行けば全部解決するんです!幸村部長はちゃんと笑えるようになるし、一人で隠れて泣かなくても良くなる!声を殺しながら一人ぼっちで泣く部長の事、何にも知らないでしょ!そりゃ行かないんだから知りませんよね。どんな気持ちで部長が副部長のこと待ってるか、全然知りませんよね!」
「な……なにを………」
「赤也の言う通りだぞ、弦一郎。最近の精市はあまり笑わない。目も腫れていることが多く、口数も減ってきている。何が原因か分かっているのか?」
「俺が原因だとでも……」
「他に何があるんすか。部長はあんたに来て欲しいって思ってるんです。なのに、あんたがいつまで経っても会いに行かないから、部長はずっと泣いてるんです!」


しん、と沈黙が降り立った。誰も何も喋らない。時と場所を選ばずに大騒ぎする丸井先輩も、この時は静かだった。
叩きつけるように吠えて、その黒い瞳としっかりと見つめ合った。動揺したように揺れる目が、困ったように歪む。


「……俺は、一体どうすれば……」
「行ってください。俺達はちゃんと練習しますから」
「そうだぞ。俺が監督しておこう。とりあえず、話し合って来い」
「……分かった。────すまない」
「その言葉は精市にかけてやれ。早く行け、弦一郎」


その言葉に副部長は静かに頷いて、ラケットも何もかもを放り出したままコートから出て行った。部室に向かう様子もなかったから、着替えもせずに病院に向かうのだろう。
静まり返った空気の中、柳先輩が俺の肩に手を置く。


「御苦労だったな、赤也」
「部長のためっす。あんな部長、見てられないんで」
「そうだな」
「にしても…部長も部長ですよね。言わなきゃ、副部長だって分かんないのに」
「……もしも、の話だ」
「は?」
「もしもの話だが、精市が弦一郎ではなくお前が好きだったとしても、あいつはお前に弱みを見せるような真似はしない。あいつはそういう奴だ」
「あぁ────つまり、2人とも馬鹿なんですね」
「そういうことだ」


明日またお見舞いに行こう。副部長も一緒に、みんなで。
その時、部長は────昔のようなあの笑顔で、笑ってくれるだろうか。





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