君の声が聞こえた
誰かの名を呼んでいた





一体、どれだけ意識を失っていたのだろう。目を開くと、薄ぼんやりとした光に照らされた美しい川が見えた。どれだけの幅があるのか、向こう側が全く見えない。
まだうまく働かない頭を少しだけ振って、辺りを見回す。夜明け前、もしくは宵の口と表現するのがしっくりくるような光量と果てが見えない川岸の光景。


「ここは、どこだ……?」


思わず漏らした声は思った以上に掠れていて、自分が随分長い間意識を失っていたのだと実感した。
白い物が視界をよぎり、そこで自分が真っ白い着物のような服を着ていることに気づいた。襦袢に似てはいるものの、前合わせが左前になっている。これは────……。


「白装束……?」


どうしてこんなものを着ているのか。どうしてこんな所に居るのか。
思い出そうとするとひどい頭痛がした。靄がかかったように記憶が霞んでいて、鮮明に思い出すことができない。


「確か…部活後、幸村と……」


部室の鍵の返却と散歩を兼ねて中庭を歩いていて、突然悲鳴のような声が聞こえて頭に衝撃が走って────…?
その後に覚えているのは誰かの声が名前を呼んでいたということだけ。遠くから響くような声が、ずっと名前を呼んでいた。切羽詰った悲しそうな声だった。
それ以外の事は何も思いだせなくて、小さく舌を打つ。衝撃が走った頭に手をやっても、怪我一つ見つからなかった。
学校に居たはずなのにここは学校ではない。制服を着ていたはずなのに白装束を着ている。頭に怪我を負ったはずなのにどこにもそんなものがない。
と、いうことは。


「俺は、死んだのか…?」


白装束は死人の衣装だ。それを考えても、他の条件を考慮してもこの答えが正しいような気がする。そうすると、ここは死後の世界。ならば、この光景も納得がいく。
ここは、三途の川だ。あの世とこの世の境目に横たわる、死者の川。
吸い込まれるように視線が川に向き、自然とその向こう側を見透かそうとする。けれど、どんなに目を凝らしても向こう側は見えなかった。
どうやって向こうまで行くのだろう。泳ぐのだろうか。泳ぎは得意だが、どれだけの距離を泳ぐのだろう。下手をしたら溺れて────……。


「そういえば、もう死んでいるのか」


ぽつりと呟いた言葉はあまりにも現実味がなかった。今自分の意識は確固としてあり、その意識下で行動出来ている。だからこそ、死んでしまったという実感がない。
けれど俺は死んだのだ。もう戻れない。二度とテニスはできないだろうし、三連覇の約束も守れないだろう。
───……無様だ。
あれだけ負けは許されぬと豪語して置きながら、俺が死に負けるとは。残してきてしまった仲間に合わせる顔がない。せせら笑われても仕方がない。


「俺はどうなるのだろうな」


死んで、その後はどうなるのだろう。子供に聞かせるお伽話のように閻魔様にでも会うのだろうか。
眉を寄せてその考えを振り払おうとしたけれど、そのイメージが消えない。何度も繰り返される地獄の刑罰に思いをはせると、先に進む事が恐ろしくなった。
たった一人で未知の土地に進まなくてはならない。しかも、待っているのは絶対的な恐怖だ。


「孤独がこんなにも恐ろしいとはな」


低く笑って、けれど恐怖は消えなくて。一人でなければこんなにも恐ろしくはなかっただろうかと考えて、何故か彼の顔が浮かんできた。
たった一人で大手術に挑み、生死の境から蘇ってきた彼。病だけではなく、孤独や恐怖と闘い、打ち勝った彼がいればきっと恐ろしくはなかっただろう。
一瞬だけ、この場に彼がいればと思った。共にあの川の向こうに進んでくれたなら、どんなに良かっただろうかと考えた。そんなこと、考えてはいけないのに。
ここが死の世界だと分かった上で彼に来てほしいと願うのは、死ねと言っているようなものだ。


「…何と言うことを。たるんどるな、全く……」
「何がかな?」
「っ!?」


唐突に聞こえた声はまぎれもなく彼の声。先ほど俺が傍にいてほしいと願った、彼の声だった。
振り返ればそこには俺と同じように白装束を纏った彼の姿。着物のような白装束が妙に似合っていて、そんな彼を綺麗だと思う。


「幸村…?何故ここに……」
「何でだろうね。きっと君と同じだよ」
「同じ?」


そう尋ねると、彼は微かに笑みを浮かべて近づいてくる。彼の白い手が首に回って、そのまま唇が押し付けられた。
唐突の接吻に思ったことは、ただただ彼の体が冷たいということだけ。氷のような、氷以上に冷たいその身体が死の象徴のように感じられた。その感覚が恐ろしくて、細い肩を掴んで引き離す。
引き剥がされた事に驚いたのか、悲しげな顔をした彼を咄嗟に抱き締めていた。普段なら、その小さな体は驚くほどの温かさを宿しているはずなのに、今はそんなもの微塵も感じられない。
その冷たさは、きっと俺にも該当している。彼は今、俺と同じ感覚を味わっているだろう。


「幸村、ここは……」
「気づいているんだろう?ここは死の世界。俺も君も、死んでしまったんだ」
「やはり、そうなのか……」


抱き締めたままそう呟くと、彼は俺を見上げふいに涙を落した。透明な滴が零れて溢れて、地面に吸い込まれていく。
彼はそれを拭いもせず、潤んだ瞳で俺をじっと見上げていた。その目を見るのが辛くて、きつく彼を抱き締める。


「ゆき……」

(──────真田!!)


声が聞こえた。目の前の彼から発せられた声ではなく、遙か遠くから響く俺の名を呼ぶ声。それは確かに彼の声で、けれど彼の声にしては遠く、声を枯らさん限りの叫びだった。
慌てて辺りを見回してみたものの、やはり俺たち以外に人影は無い。手の中を見下ろすと、不思議そうな顔をした彼が俺を見つめていた。


「幸村、今俺の名を呼んだか?」
「君の名前?いや、俺は呼んでないよ。こんな所だから……幻聴かもしれない」
「そう……だな」


それは幻聴にしてははっきりと、今も耳に残るくらいの鮮明さだったのだけれど。


「それより、そろそろ逝かなくちゃ」
「……やはり、いくしかないのか」
「そうだよ。もう戻れはしない。────行こう」


冷たい彼の手が俺の手に絡んで、ゆっくりと川の方に導かれる。手を引かれるまま歩いていくと、川岸に木製の舟が浮かんでいるのが見えた。
足音が変わった事に気づいて地面を見ると、砂利のような細かい石と拳ほどもある大きな石が大量に転がっていた。それが擦れ合って、じゃりじゃりと音を立てる。


「……三連覇、成せなかったな」
「そうだね」
「まだ……生きていたかった」


生きて、仲間とともに三連覇を果たしたかった。それだけを目標に三年間練習に励み続けてきた。その為に、生きてきたのに。


「俺は君と一緒なら死んでもいいよ」

(真田、逝くな!)


彼の声が被って聞こえる。二人彼がいて、別の事を言っているかのように。


「どこでも良い。君と一緒なら、ね」

(真田────!)


足を止めた。俺の手を掴んでいる彼もつられるように立ち止まり、くるりと振り返る。いぶかしげな目が、黒く輝いていた。


「どうしたの?」
「お前……幸村じゃないだろう」
「何を言っているんだい?俺は幸村だよ」
「でたらめを言うな」


繋いでいた冷たい手を振りほどき彼───否、彼の姿をした何かを睨みつける。


「幸村は例え何があっても死んでもいいなどとは言わない。どんな手段を使っても生きて三連覇を果たそうとする。生きることを諦めるような言葉を、あいつが吐くわけがない。あいつはそういう男だ。それに────お前が幸村だと言うのなら、何故俺の名を呼ばない?」


あの声は俺の名を呼んでいるのに、目の前の何かは俺の名を呼ばない。それが一番の証拠だ。
目の前の何かは困ったように眉をよせ、悲しげな表情を作ってみせる。


「生きることを諦める?俺達はもう死んでるんだ。諦めるも何もないじゃないか」
「……やっぱり、幸村じゃないな」
「え?」
「俺の知る幸村はな、例え死んでも生き返ろうとする。閻魔大王に呪いをかけようが、誰かを生贄にしようが、必ず戻ってこようとする。お前は幸村の事を知らな過ぎたな。大方、俺を黄泉の道に連れていこうとでもしていたんだろう」


その瞬間、その口元が歪んだ。彼が浮かべるはずもない歪んだ笑みを口元に湛え、低いうなり声を発する。その手が伸びてきて、俺の手を掠めた。咄嗟に踵を返し、川から離れるように走り始める。
背後から響く足音を無視し、必至に方向を探す。先ほどまで遠くから響いていた彼の声の方向を。


(真田!)

「幸村────!!」







目が開いた瞬間に飛び込んできたのは、泣きそうに顔を歪めた彼の顔だった。


「幸村……?」
「さな、だ?」


名前を呼ばれた。彼の声で俺の名が響く。それが彼が彼である証だと、ぼんやりと思った。


「俺は……一体何が……」
「中庭を野球部が練習に使っていたらしくて…ボールが頭に直撃したんだ。脳震盪を起こしたみたいで目が覚めないし、手は冷たくなるし……死ぬんじゃないかと思って………」
「心配かけたようだな。すまない。俺はもう平気だ」
「…良かった」


安心したように顔を緩めて、そっと抱きついてくる彼を抱き締める。その身体はいつものように暖かくて、帰ってこられたのだと実感した。
もしもあの時彼が名前を呼んでくれなければ、俺はきっと死んでしまっていただろう。あそこで俺を連れていこうとしていた者は死神だったに違いない。
そう考えて、この話を彼に聞かせるかどうか迷う。けれど、とりあえずは────このまま彼を抱き締めていたかった。





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