真っ暗だった。ひどく冷たかった。手を伸ばしても何も掴めなくて、叫んでも木霊一つ返ってこなかった。
辺りを見ても何もない。誰もいない。この闇がどこまで続いているのかさえ分からない。
のろのろと立ち上がり、暗闇の中をさ迷い始める。闇は深く、進んでいるのか、止まっているのかさえ分からない。右なのか左なのか上なのか下なのか。そもそも、どこに立っているのか。

さ迷い続けるうちに気づいてしまった。残酷で、悲しすぎる事実に。


俺は、一人ぼっちなんか。


嘘をついて、周りをだまして、仲間をだまして、自分さえだまして。そのせいで、自分を失ってしまって。
誰かが名を呼んでくれないと、自分が誰なのかわからない。自分が今どこにいて、誰の姿で、誰になっているのかが分からない。鏡を見ても、それが自分だと気づけない。
そんな悲しすぎる事実も、それがホントウなのかウソなのか定かじゃない。
なり済まして、自分を消して、他人を演じて、自分を失って。
悲しすぎるといえば、悲しすぎるのだろうけれど、もう何も思わなくなってしまった。
一人?一人ってなんじゃ?俺は今まで、誰と一緒にいた?誰かと一緒にいたんか?
思い出が、記憶が、軌跡が消えていく。
それはまるで、指の間を通り抜ける砂のように。
ぼろぼろに崩れて、儚く壊れて。
最初から、無かったように。


────俺は、誰じゃ?


ヤギュウか?それとも、ニオウか?はたまた、他の誰かか?
この意識が、この思考が、今一体誰のものなのか。自分が今誰なのか。
考えるのも面倒で、ついでに歩くこともやめた。
考えることだけじゃない。歩くことだけじゃない。全てが面倒で、全てが煩わしい。
消えてしまえばいいのに。
手の届かないどこかに、消えてしまえばいい。
そうすれば、もう思いをはせて悩むこともない。
目を閉じれば何かが変わることも思ったけれど、何も変わらなかった。もともと、暗闇しか映していなかったのだから仕方ない。
それでも、目を閉じているという安心感があって、そのまま座り込んでしまう。


────寒い


誰もいないから、温めてもらえない。
どれだけ人とのかかわりが面倒でも、全てを断ち切らないのは、寒いから。
一人ぼっちは、寒くて、悲しくて、そんなのは嫌だから。
誰か、呼んで。名前を呼んで、俺を俺にしてくれ。俺だけじゃ、俺を俺だって言えないから。一人じゃ、自分を証明できないから。それはとても怖くて、恐ろしいことだから。

名前を呼んだ。大切な、何よりも愛しい名前。返事がなくても、名前を呼んだ。呼び返してくれることを祈って、何度も何度も。
お前なら俺を呼んでくれるじゃろ?見つけてくれるじゃろ?
なぁ、柳生。頼むから、俺の名を───……。





目を開くと、見慣れない壁が目に入った。
やっと三度目になる部屋、暖かいベッド、背後から回された優しい腕。その全てが、見慣れないように思えて、自分がどこにいるのかわからなくて。


「どこじゃ……」


思わずつぶやき、身を起こそうともがく。
どこじゃ、ここは。俺は一体どこにおる?


「仁王君?目を覚まされましたか」


耳元で声が響いて、それは柳生に声だったのだけれど、一瞬、誰かわからなくて。
咄嗟に、回されていた腕を弾き飛ばすように起き上がり、壁に背中を押しつけた。
広がった視界。目の前には柳生がいて、はじかれた腕を押えて、不安そうな顔をしていた。


「どうしたんですか?顔が真っ青ですよ」
「やぎゅ…う、じゃよな?」
「当たり前でしょう。私でなければ、誰だというのです」
「……分からん」


何も分からない。
俺は誰じゃ?柳生じゃないなら、誰じゃ?どうしてここにおる?


「柳生、俺は誰じゃ?」
「あなたは仁王君でしょう。一体、どうしたんですか?」
「に、おう……」


そうだ、俺は仁王雅治。立海テニス部、コート上の詐欺師仁王雅治。
思い出して、理解して、そしてまた戻ってきたのだと気づいて。
悪夢が終わったのだと分かって。


「仁王君、泣いているのですか?」


いつの間にか、涙が流れていた。
暖かくて、透明な滴。頬を伝って、ぽろぽろ零れて。


「夢を、見たんじゃ……」


誰もいなくて、自分が分からなくて。一人ぼっちの夢だった。


「俺は俺が分からんくて、俺じゃ俺を俺って認めれん……」


なるほど、と頷く柳生がそっと近づいてきて。


「怖い夢を見たのですね」


先ほどまで包み込んでくれていた腕がまた伸びてくる。溢れ続ける涙をそっとぬぐって、ふわりと抱きしめてくれた。
優しくて温かい腕は、俺とは違う。
俺の腕はひどく冷たい。
だから、自分を抱き締めても暖かくならない。


「もう大丈夫です。怖くないですから。私がいれば、貴方が仁王君だと証明できるでしょう?」


ぽんぽん、と背中をたたいてくれる温かい手が嬉しくて、思わず抱きついて、柄にもなく泣きじゃくる。
自分が消えてしまうということがこんなにも怖いのだと初めて知った。
今までいろんな人間になり済まし、演じてきたのに。
自分なんてもの、いつでもそばにあると思っていたのに。
失ったっていいとさえ、思ったことがあったのに。





「柳生さん」


名前を呼ぶと、きつく抱き締めていた腕の力が緩んで解放された。
すがりついていたからか、見上げる位置に綺麗な顔があって、なんとなく唇を重ねてみる。それはきっと、己を確立するための手段だ。
貪るように、噛みつくように、激しく口づけを交わすと気分が落ち着いた。
柳生は珍しくされるがままになってくれて、それに甘えてしまう俺はきっとまだ少し怯えている。
長い間泣いていたのだろうか、目が腫れているような気がして仕方がない。
その上、落ち着いた意識は顔から火が出そうなほどに熱くなっていた。
俺は一体何を言うとんじゃ。小さい子供じゃあるまいし、怖い夢を見て泣くなんて、小学生か。
自己嫌悪の嵐にまかれ、柳生の顔が見られない。
きっと顔は真っ赤になって、泣いていたから目も真っ赤だろう。我を失うと目が充血する馬鹿な後輩のように。


「もう大丈夫ですか?」
「……プリ」
「またそんな言葉で返事をする。私にその言葉は理解できませんよ」
「別によか」
「良くないです」


呆れたような口調から一気に強く激しい口調に。
これを聞けるのは俺だけ。
学校じゃ紳士で通っている柳生が本性を見せて、荒れ狂うのは俺の前でだけ。
特別という優越感。


「分からないと、私も貴方を見失いますよ。そうなったら嫌でしょう?」
「いやじゃ」
「でしたらきちんとした言葉で話をしてください」
「……分かった」


満足したように柳生は頷いて、では朝食にしましょう、と呟いた。
そういえば今日は土曜日で、だから昨日の晩に泊まりに来て。まぁ、部活はあるから学校へ行かなくてはならないのだけど。


「柳生さん」


引き留めるように名前を呼ぶと、ちゃんと振り返ってくれた。
寝起きだから眼鏡をかけていないその顔は、とても綺麗だ。鋭く尖っていて、触れれば切れてしまいそうなくらい。


「愛しとうよ」


愛の言葉を呟いて、溺れるくらいの愛を送ろう。
俺はもう、柳生に溺れて息が止まりかけているから。


「私もです。愛していますよ、仁王君」


何を今さら、という顔で笑った柳生はそのまま部屋を出て行って、また一人ぼっち。
でも、もう怖くない。耳の奥でこだまして、消えない声が俺を縛ってくれるから。



─────愛していますよ、仁王君





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