長々しく続く授業がすべて終わり、いつもならすぐさま部活に向かう時間。
俺の脚は自然と病院に向いていた。
後で叱られるのは覚悟のうち。それでも、途中で見つかったら洒落にならないので、学校から逃げるようにして離れた。

走って走って、息を切らしても走って、病院に滑り込む。
幾度となく見舞いに来たおかげで通い慣れてしまった廊下を小走りで進んだ。
見慣れた病室の前まで来て、けれど一人で中に入るのは初めてで。
息を整えるためにも数回深呼吸した。


数回、ノック。

以前、ノックをせずに扉を開けて、真田副部長に怒鳴られたことがある。ノックと挨拶は礼儀の基本だから、絶対にしろと。


「失礼します」


言い慣れない言葉を呟いて、扉を開く。
返事はなかったけれど、たいして気にしなかった。
暇なのか趣味なのかは知らないが、部長はよく本を読んでいて、そういう時は中に入るまで反応しないから。
いわく、夢中になっていて音が聞こえないんだとか。
あんな字だらけの物体を読んで何が面白いのかさっぱり分からないけれど。


「部長?」


部屋に入っても、声をかけても反応はなくて、よくよく見ると、部長は目を閉じていた。
規則正しい呼吸音。あの時のような消えかけの音でも、乱れた音でもなく、ただゆっくりと眠っている時の音。
その綺麗な寝顔からは、この人が鬼のように強いなんてわからない。
見方によっては十分女の見えるその顔が、今は穏やかな表情を浮かべている。

いつも見舞いに来た時は起きているけれど、この時間は寝ているのかもしれない。
そう思うと、無理に起こしてしまうことはできなくて、音をたてないように外来用の椅子に座った。
目覚める気配を見せない部長の顔を見つめながら、今までのことを思い返す。
負けた悔しさ、屈辱、怒り、悲しみ、そしてもはや復讐心と呼んでもいいくらい激しい想い。
勝ちたいと、ただそれだけを望んでここまで突っ走ってきた。
俺が勝ちたい。俺だけが、この人に勝って、一番であると証明したい。

白い病室に入り込んでくる光に照らされながら眠っている部長は、ひどく無防備に見えて。
微かに響く寝息は、永遠に続きそうでも、今にも止まってしまいそうでもあった。
いつかこの人を、病気に奪われるんだろうか。手の届かないどこかに行ってしまうんだろうか。
今は、ここにいるのに。
確かに、ここにいるのに。

そろりとベッドに這い上がり、その細い首に手を触れた。
規則的に脈打つ感覚が、肌を通して感じられる。

この人は、生きている。
けれど、いつか死んでしまう。
筋肉が力を失って、呼吸できなくなってしまうのだと聞いた。
その息が止まってしまったら、俺はもうこの人を越せない。勝てなくなってしまう。

ならば、いっそのこと、俺がこの息を止めたら?
それは、俺がこの人に勝ったことにはならないのだろうか。
俺がこの人の息を止めることは、俺がこの人に勝ったことの証明には、ならないのだろうか?



気がつけば、手に力が入っていて、白い首を絞めそうになっていた。
それはもう、力の限り。


「そんなことをして何になるのかな、赤也」


いつの間に目を覚ましたのだろうか。
ついさっきまで閉じられていた瞼が開き、鋭い瞳が俺を射抜いていた。
あの時と寸分違わない眼差しが、俺を貫いて動きを止めさせる。
もう力が入らない。その瞳は、人を食う肉食動物のように俺を捉えている。


「赤也」


少しだけ怒りを孕んだ声で名前を呼ばれ、ゆるゆると手を離した。
殺気立つ、という言葉が相応しい位の光を放っているその瞳は、今までにないくらい冷たい。
後悔、自責、恐怖。様々な感情が相まって、何も答えられなかった。
何かを言わなければならないとわかっているのに。


「……部長」


俺は、あんたに勝ちたいんです。勝ちたくて、勝ちたくて。それだけを目標に、ここまで来たんです。
だから、だから───……。
俺以外に倒されて、いなくなったりしないでください。


「赤也」


また名前を呼ばれて、覚悟を決めてその眼を見返した。
綺麗な、今までにないくらい綺麗な瞳だった。
その瞬間、視界がぼやけて、何も見えなくなって。ふふ、という声が聞こえてきて、部長が笑っていることがわかる。
あぁ、怒ってない。そう気付いて、ひどく安心して。そのせいで、また涙があふれ出した。俺は一体何をやっているのか。部長を殺して、何になる?俺が越したかったのはテニスなのに。


「いつまで俺の上にいるつもりかな。ちょっと重いよ」
「丸井先輩より、ましっす……っ!」


嗚咽混じりに言葉を返し、のろのろとベッドを下りた。また椅子に座って、強く目元をぬぐう。
何度も瞬きを繰り返すと、視界は元に戻ってくる。涙は止まらなかったけれど、気にしないことにした。

部長はゆっくりと身を起こして、静かに俺を見つめている。
先程までの殺気立った瞳はもうなくて、いつもの穏やかな瞳に戻っていた。


「赤也は泣き虫だね」
「違います。泣き虫じゃ……」
「ぼろぼろ泣いてるくせに」
「これはっ………」
「俺を殺したら、俺を越せると思ったの?」


静かに図星をついてくる言葉は容赦がない。
弁解する余地は一切なくて、無言で頷くしかなかった。
呆れられるか、馬鹿にされるか、それとも蔑まれるか。
けれど、返ってきたのは心底面白がっている笑い声。


「馬鹿だね。俺を殺してしまったら、もう二度と勝てないのに」


あはは、と滅多に上げない笑い声をあげて部長が笑う。
その笑顔を見ていると、自然と顔が綻んで、いつの間にか涙が止まっていた。

あぁ、そうだ。今なら言えるかもしれない。


「部長。俺、いつかあんたに勝ちます。絶対に、勝って、一番になります。だから────それまで俺以外の誰にも負けないでください」


いなくならないで、と掠れた声で告げると、また笑われた。
嬉しそうな、愉しそうな笑い声。


「当たり前だろ?俺は負けない。いなくなったりもしない。全国三連覇するって、みんなで決めたんだから」
「……絶対っすよ」
「分かってるよ。─────赤也」


ちょいちょい、と手招かれて少し近づく。
もっともっと、と言いたげに手を振られて、さらに近づいた。
まるで、内緒話でもするような距離まで近づいて、目の前に部長の顔があって。
ほんの少し、薬品の匂い。

ふっと、唐突に唇に何かが触れた。

それはすぐに離れてしまったけれど、確かに部長の唇で。
一瞬、何が起きたのか分からなくて、茫然と目の前の部長の顔を見つめた。


「約束。俺と赤也の」


悪戯が成功した子供のように笑う部長は、あまりにも綺麗で、その体に抱きついていた。真田副部長とかと比べると華奢な体は、抱きつくのに丁度よくて、この人が欲しいと、そう思ってしまう。


「おっと…急に抱きついたら危ないだろ」
「部長……」
「うん?」
「治ったら、試合してください」
「うーん……赤也が英語のテストで80点以上取れたらしてもいいよ」
「一生無理っす……」
「柳にでも教えてもらえ」


笑う部長の顔を見上げると、今度は額にキスをされた。


「俺が治ったら、ね」


耳元で囁くように告げられた言葉に、腕の力を強める。


「じゃあ、そん時までにもっと強くなっておきますから!」
「うん。楽しみにしてる」


次勝てるかは分からない。負けたらまた強くなる。いつか勝てる日まで、俺は部長に挑み続ける。
いつか勝つまで。そして勝ってからも、俺は部長の傍にいたい。
そう告げると部長はまたおかしそうに笑った。


「好きなだけいればいいよ。あ、でも、寝てる間に首絞めるのは嫌だな」


もうしません、と答える声と同時に扉が開いた。


「赤也―っ!部活をさぼって何をしとるか!!
……何を抱きあっておるのだ!」
「弦一郎、ここは病院だぞ」
「幸村くん、やっほー」
「部活をさぼって、お熱いのぅ」
「あまり感心できませんよ。きちんと部活にきたまえ」
「ブン太!自分の荷物を持て!」


副部長と、先輩達。いつもと同じ光景。それを見ていると先ほどの事が嘘のように思える。
副部長に怒鳴られながら、ちらりと部長を見ると、口元に指をあてられた。
内緒、の合図。


「赤也!聞いているのか!」
「聞いてますって!」


変わらない光景が、いつまでも続けばいい。
胸を満たしていた悔しさは消えて、今あるのは───幸福感だけ。





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