ネットを挟んだ向こう側に居るのは、確かに仁王。
なのに、どうしてだろうか。
そのフォームも、打線も何もかもが酷似しすぎていて、軽く鳥肌が立った。
全国大会に向けて、特別練習に付き合って欲しい。そう言われたのは部活後の着替えをしている最中だった。
それを承諾し、軽い打ち合いの後に始めた試合は、部活後で仁王が疲れていたこともあって圧勝したのだけれど。
それでも、一瞬感じた恐ろしいまでの既視感は試合後になっても消えなかった。
軽く冷や汗をかいていることを隠しながらおざなりに握手を交わし、今後のためのアドバイスをしようと口を開いた、その瞬間。
「奴の打ち方は単純なんじゃ。真っ直ぐで基本で模範的。そういう奴ほど真似をしやすい」
そう言って、仁王はラケットを持ち変えた。
持ち変えたのを見て初めて、左利きの仁王がそれまで右手で打っていたことに気づく。
そんな簡単な事に気づくことができないほど、自分が動揺していたのだと分かった。
「お前さんにはこれがええかと思ったが……意外に動揺せんかったの」
「俺はテニスの練習に付き合うと言ったんだ。道化の練習はパートナーとするべきだよ」
「柳生はもう付き合ってもくれん。それに、あいつの打ち方は結構難しいんじゃ」
刺のある声にも飄々と笑みを返す詐欺師を前に、俺は震えそうになる手足を押さえるだけで精一杯だった。
動揺していない?
そんな事はないと告げてやったら、仁王は喜ぶだろうか。
無様に震えるこの手を見せれば、自分の詐欺の効果に驚嘆するだろうか。
「俺は誰であっても手加減はしないよ。真田でも仁王でも、それが蓮二であってもね」
「みたいじゃの。相手が悪すぎた」
苦笑を浮かべ、仁王は顔を俯ける。
そして一瞬後に、にぃっと笑った。
唇が吊り上がって赤い裂け目が広がる。
「流石だな、精市」
思わず肩が震えた。
辛辣な言葉一つ返すことはできなくて、ただただ黙り込んで立ち尽くすしかなかった。
その声は仁王の声であるはずだった。
その微笑みは仁王のものであるはずだった。
その抑揚も姿も何もかもが仁王のものなのに。
覚えのある柔らかい声とその言葉。
精市と自分の事を呼ぶのはただ一人だけ。
その穏やかな笑みと、頭に載せられた大きな手。
その全てが彼に酷似していて、その一瞬仁王に被って彼が見えた。
「似とるか?参謀に」
「………」
込められるだけの殺意を込め、怒りに燃やした瞳で仁王を睨みつける。
秘匿としている想いを見抜かれた事も、無様に詐欺に釣られて引っ掛かった事も、何もかもが苛立ちを生む原因になった。
「そう睨みなさんな。俺もそれを言いふらすほど馬鹿な人間じゃなか」
「……仁王」
「じゃが……もしも、参謀がこれを知ったらどんな顔をするかの?」
「やめろ!」
咄嗟に上げた声は、自分でも呆れるほど震えていた。
もしも、知ってしまったら。
彼が俺のこの罪深い想いを知ってしまったら。
その結果は想像するに容易い。
きっと、彼は俺と距離を取ろうとするだろう。
それが正しい道なのだと信じて、俺を諦めさせようとするに違いない。
それで済めば良い。けれど、きっとそれだけで終わる事は決してない。
「仁王、俺は……」
「のぅ、幸村。俺がお前さんを好きだと言ったらどうする?」
「何を言ってるんだ。俺の気持ちを知った上で、詐欺をかけてきたんだろう?」
「その通りじゃ。それでも、俺はお前さんが好きなんじゃよ。俺は参謀になれる。お前さんは参謀が好き。お前さんは参謀に気持ちがばれるのが怖い。俺はお前さんの気持ちを知っている」
仁王は聡い獣の笑みを浮かべながら、くるりとその場で回って見せた。
ついでに小首を傾げるオプション付きだ。
「この条件から引き出せる答えが何か、お前さんには分かるか?」
ぎり、と鈍い音がして、一瞬遅れて痛みが走った。噛み締めた奥歯が軋んだ音と痛みだ。
仁王は相変わらず笑みを浮かべたままこちらを見つめている。
その瞳は、俺が答えを分かっていることを見抜いているのだろう。
「俺が仁王のものになる。それがお前の望みだろ?」
「正解、じゃ。俺は自己中じゃけん、欲しい物を手に入れるためにはどんな手段もとらせてもらうきに」
仁王はそう言って、俺に手を向けた。
「この手のひらの上で踊っているんじゃよ、幸村。お前さんは、もう俺に捕まった哀れで愚かな操り人形じゃ」
「それはどうだろうね」
「悪あがきか?俺はお前さんを手に入れるまで諦めんよ」
どれだけ虚勢を張っても、俺は仁王には敵いそうもない。
仁王の詐欺にかかってしまった時点で、もう俺は逃げられない運命に捕らわれたのだろう。
けれどそれでも、俺は────……。
「……いいよ」
「?」
「いいよ、蓮二に言っても。誰に言っても構わない。それでも、俺は俺だ。俺はお前のものにはならない」
例えそれで全てが壊れてしまうのだとしても。
それでも、俺は彼以外の物になる気はない。
俺自身の勝手な望みだと分かっている。
それで全てを壊してしまうなんて愚かなのだと知っている。
それでも良かった。
それでも、彼以外の物になるなんて考えたくもなかったんだ。
仁王はほんの少し寂しそうな笑みを浮かべて、そして小さく首を振った。
「馬鹿じゃの」
「馬鹿で良いよ。こういう生き方しか、できないからね」
「愚かだな、精市」
その詐欺に先ほどまでの精彩はなかった。
仁王はそのまま背を向けて、コートを出ていく。
それを見送って、噛み締めていた奥歯をそっと解放する。
微かに歯がぐらつく感触がした。
薄暗くなり始めている空を見上げてため息をつき、静かに目を閉じる。
目の裏に浮かぶのは、真っ赤な笑みを浮かべた恐ろしい詐欺師の姿だった。