月が、美しい。
下弦に欠けた朧月は人々の心を魅了し、恍惚の淵に責め立てる。これが満月となればその効果は嫌でも増し、誰でも月の虜になるだろう。
その満月まであと一週間。きっと、彼の命はそこまで持たない。




あゝ、もっと上手く愛せたなら




彼の眠る北の対屋に向かうため、しんしんと静けさだけが沁み入る渡殿を歩む。きぃきぃと微かに簀子が軋み、ひどく哀しい音を立てた。
ふと夜空に目をやれば、美しい朧月が夜空を泳いでいた。それを一瞥し、満月に至るまでの日数を考える。

目測であと七日。多少のずれがあったとしても、六日。……やはり、持たない。

何もできない歯がゆさに苛立ち、自然と足音が荒くなる。寝室に至る最後の角を曲がった瞬間、涼やかな声が空気を揺らした。


「何を怒っているの」


予想外すぎた。思わず止まった足を可笑しむように、彼はふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
単衣を被いているとはいえ、今は春に入ったばかりだ。狩衣と狩袴を着ている自分でさえ少し肌寒さを感じる。
室内で眠る事にさえ命を削る彼が、こんな所にいていいはずがなかった。


「何故こんな所に………」
「月が綺麗だったから。大丈夫、単衣を着ているから寒くないよ」
「嘘を言うな。早く中に戻るんだ」
「蓮二、」


何か言いたそうに名を呼ばう彼に近づき、その白く細い手を掴む。
流麗な字を書き、筆舌しがたいほどの短歌を詠んだこの手は、最早二度とそれらの事はできない。既に筆を握ることもできず、後はただ朽ち落ちるのを待つばかりだ。
彼は微笑を浮かべたまま俺を見上げ、ゆるゆると首を振る。その動きにつられて、細くしなやかな御髪がゆらりとたなびいた。


「冷え切っている。自分でも分かっているのだろう?」
「だって、ほら。あんなに月が綺麗なんだよ。少しくらい見ていても良いだろう?」
「部屋からでも見られる。わざわざここまで来る必要は………待て、精市。お前、ここまで歩いてきたのか?」
「そんな事出来るはずがないだろう?俺の脚はもう、俺を運んではくれないよ。ここまでずるずると這って来たんだ。単衣が邪魔で仕方がなかった」
「馬鹿者!お前は……今の状況を分かっているのか!?」


しん、とした静けさを声が切り裂き、夜空の朧月さえもゆらりと揺れた様な気がした。
単衣を被かせたまま彼を無理矢理抱きあげ、否の声を無視して部屋の中に連れ戻す。御簾や屏風が辺りに散乱し、几帳でさえも乱雑に引き裂かれて床に落ちていた。
たくさんの屏風が重なり合ったその向こうに、彼が眠っているはずの寝床がある。そこから這い出た過程で、この惨状が生まれたのだろう。

うまく動かない身体を引き攣らせるように抵抗する彼を寝床に下ろし、箪笥の中から単衣やら衣さらを引っ張りだして身体にかける。
そこまでしてやっと彼は大人しくなり、諦めたように枕元に円座を置き、腰を下ろした俺を見つめた。


「朧月、綺麗だったろう?」
「あぁ。帰り路、俺もそう思っていた。お前に見せてやりたいと」
「十分見られたよ。だから大丈夫」
「そうではない……あの朧月の満月を。欠けていない姿を見せてやりたかった」
「でも、俺はそこまで持たないよ」
「何を言っている。諦めてどうするんだ」
「俺の身体の事や、この病の事はよく分かってるよ。元服前……童の頃からだからね」


正確にはそうでもないのだけれど、さしたる違いはない。俺は無言で頷いて、彼の青白い顔にそっと触れた。

彼の身体が病魔に蝕まれたのは元服前の夏季だった。
いつものように庭でまろぶように遊んでいた彼が、ぐらりと崩れるように倒れた瞬間を今でも覚えている。
何度も夢に見た。悪夢としてそれは甦り、俺を何度も苦しめた。

村はずれの翁の見立てではたちの悪い風邪。
けれど、彼はそれを真っ向から否定し、これは治らないと己で言い切った。
その言霊のせいかそれは真実となり、一度治ったかに見えた病魔が再び彼を苦しめ始めたのは元服も終わり、内裏に出仕し初めて数年経った頃だった。
今度は病魔が緩む事は無く、彼はその日から寝て起きて、動くこともままならずに生きている。


「そんなに……そんなに悪いのか」
「ふふ、聞きたい?」
「精市、ふざけるな」
「……もってあと三日だよ」
「そう、か」


あと三日。それだけしか彼は生きられない。それだけしか彼といられない。
強く握りしめた拳が低い音を立て、俺はその痛みと心の痛みをぶつけて心が壊れてしまうのを防ぐ。


「蓮二、俺が死んだら屋敷の人間の事を頼むよ。当主が死んでしまったら、一族は路頭に迷うからね」
「分かっている。だが……そんな事は言わないでくれ!」
「でも、約束だっただろ?俺とお前の、この関係が始まった時から」
「そうだ。だが……」
「もう一つの約束、覚えてるかい?」
「………ああっ!」


抑えきれない悲しみが声に滲み、みっともなく跳ね上がった声に彼が微笑む。
ひどく儚く、ひどく脆い笑み。今にも透けて、消えて、どこかに去ってしまいそうな、そんな笑みだった。


「俺が死んだら────・・・」


聞きたくない、と耳を塞いで目を閉じる。そこに浮かぶのは過去の情景。
病魔に倒れ、己の死を確信した彼が言った、あの約束。そして俺たちが誰にも言えない関係を築いた、あの日。
あの日から俺は悲しみと戦い、彼との未来に待つ結末を恐れて生きてきた。


「…────俺を忘れて」


彼の声が耳を塞いだ手の平をすり抜け、俺の鼓膜を確かに揺らした。俺は無言で項垂れ、詫びるように頭を差し出す。
守れない。きっと、俺はその約束をたがえてしまう。彼の事を忘れてしまうなんて、どうしてそんな事が出来ようか。
そんな俺の思いを読み取ったかのように、彼が言葉を重ねた。


「ねぇ、蓮二。俺を愛しているなら、愛していたなら、どうか……どうか俺の事を忘れて。俺の代わりに幸せになって。それが、俺の願いだ」


項垂れたまま、俺は僅かに頭を上下させる。彼の顔さえ見られない。見るときっと、涙が溢れ出してしまう。


「良かった。蓮二、ありがとう。それと……ごめんね」


空気を揺らした言葉が消えて、入り込んできた風で屏風が渇いた音を立てた。
彼の言葉の余韻はもうどこにもなく、俺はただ彼の前に頭を垂れて涙をこらえていた。




それが、彼の最後の言葉となった




朝目を開くと彼は既に冷たくなっていて、青白い顔は僅かに微笑んでいた。
その冷たい頬に手を伸ばし、触れる前に拳をつくる。

ひどく空しかった。悲しかった。胸が、痛かった。


「忘れる、だとっ……!?」


できるはずがない。そんなこと、絶対に出来ない。
これほどまでに胸を埋め、心を乱し、俺を壊しかけているお前の事を忘れることなんてできるはずがないのだ。
愛しているからこそ。愛していたからこそ。俺は忘れられない。

いつの間にか拳から血が落ちて、それが彼の頬を濡らしていた。
赤い雫は、まるで彼が泣いているかのようだった。





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