俺の腕の中で震えながらたかが猫一匹のために滂沱の涙を流している彼は、あまりにも滑稽だ。
自分が飼っていたではなく、ましてやそれまでに何かの関係があったわけでもない。ただ、帰り道の途中で既に死んでいる所を見つけただけの猫のために、ここまで泣けるというのはある種の才能ではないかと、そう思う。きっと、それは俺には無い貴重な才能だ。
そんなことを考えている間も彼は俺の腕の中で泣き続け、その温かい手で永い眠りについた猫を撫でていた。その小さな体には、もう何の魂も入っておらず、その猫を猫たらしめているものはない。
その姿は死の象徴だ。死んでしまえば誰もがああやって、記憶も想いも経験も全て消え去ってしまう。
それを悲しいと思っても、止められないのだから思い悩むだけ無駄だ。終わる時は総じて呆気なく終わってしまうものだし、その先に何があるのかは誰にも分からない。
その事実が分からないほど馬鹿ではないだろうに、それでも彼は猫を撫で続け、まるでその魂を呼び戻そうとするかのように泣いていた。


「精市」
「な、に…?」
「もう泣くな」


そうやって、たかが猫一匹のために泣ける彼を、心底愛しいと思う。
時折、殺してしまいたいほど、俺は彼が愛しい。


「もう、戻っては来ないから」
「だっ…て……」


だってだってと、子供のように頭を振って、彼は猫をきつく抱き締めた。
猫だったものはぐにゃりと体を投げ出し、その毛並みが彼の涙をきらきらと弾いている。
それを見るともなく眺め、手を伸ばして猫の体を撫でた。思った以上に冷たくて、とても硬い体だった。


「もう泣くな。お前がいくら泣いても、その猫は戻っては来ないんだ」
「う、ん」


素直にこくりと頷いて、それでも彼は猫を手放そうとはしなかった。引き止めてしまおうとするかのように、手に力をこめて抱き締めている。


「お前が泣くと、俺も悲しい。だから………」


だから泣くなと、俺を悲しませるなと、そう願ってしまうのはあまりにも傲慢すぎるだろうか。
彼は驚いたように俺の顔を見上げた。その頬を流れる涙が光を反射してきらりと光り、それを舐めとるとくすぐったそうに身を捩らせた。


「蓮二、俺……」
「どうした」
「死んだら、どこにいくのかな」


気持ちが落ち着いたのかそれ以上涙を流すことはなく、手の中の猫の亡骸を虚ろに見つめて、彼は茫然と呟いた。
その瞳が映しているのは猫か、それとももっと違う何かなのだろうか。


「それは俺にも分からない。人も、犬も、猫も、俺もお前も、生きていればいつかは死に、この猫のように全てを失ってしまう。全部、消えてしまうんだ。けれど、その先がどこなのか、そこに終わりがあるのか、それはまだ誰も知らない」
「蓮二でも知らないことってあるんだね」
「当たり前だ。俺にだって、知らないことくらいあるさ」


ふふ…と微かに笑って、彼は猫を床に下ろした。
もう二度と温かみを取り戻すことはないだろうその体は、きっとこれからもっと硬くなっていく。まるで石でできた置き物のようになり、そして少しずつ腐敗していくのだろう。
その先に待つのは、自然への還元だ。生き物の魂の還る場所は分からない。けれど、肉体は常に自然に還り、そしてまた新しく生まれてくる。それが、生命の循環。


「死んだら、天国へ行けるかな」
「どうだろうな。もっとも、俺は天国というものが存在するのかどうかが疑問だ」
「夢がないね。あると思えば、死ぬことも怖くないじゃないか。死んだ猫だって、天国に行ったのだと思えば安心できるだろ?」
「こんな大男が夢見るロマンチストだったら気持ちが悪いだろう」
「それもそうだね」


腕の中で暖かく脈動している彼を、そっと抱き締めた。どこかへ行ってしまわないように、逃げてしまわないように。
彼は大人しく体を丸めて、俺を見上げてゆっくりと瞬いた。
その眼はあまりにも綺麗で、純粋だ。きっと、この世の誰よりも穢れを知らない眼をしている。


「お前は天国へ行きそうだな」


もしあるとすればだが、と注釈を付けて呟く。
見ず知らずの猫のために泣けて、そんなにも綺麗な目をしている彼は、きっと暖かい天国へと昇る事が許されるに違いない。
けれど、その泣きじゃくる姿を滑稽だと感じ、傲慢にも自分のために泣き止めなどと願う俺は、きっと地獄に引きずり落とされるだろう。


「俺は、きっと地獄に落ちるだろうな」
「どうして?」
「俺は冷たい。お前とは、違う」


違う。違いすぎる。相容れないし、むしろ反発してしまう。
けれど、俺は愛してしまった。そんな彼を、俺は愛してしまったのだ。
それが、俺の最も重い罪。


「蓮二は地獄へ行くの?」
「ああ、多分な」
「なら、俺も一緒に地獄に行く」
「お前は馬鹿か。わざわざ地獄に来てどうする」
「だって、蓮二のいない天国に行ったって、俺はきっと嬉しくない。なら、俺も地獄に行く。俺はね、蓮二がいればどこだっていいよ。天国に行くのでも、地獄に落ちるのでも、そこが全ての終わりなんだとしても、蓮二がいればそれでいい」
「ふっ……」


俺には彼の言動を予測することができない。それがどうしてなのか、いくら傍で観察しても分からないのだけれど、その事実はいつも俺に付きまとう。
彼は読めない。だから、傍にいると楽しいと思う。


「ならば、一緒に死んでみるか?」
「うん、それもいいね。こうして抱き合って、手を握って眠れたら、二人で一緒に逝けるかもしれないよ」


恐れるでもなく、俺を軽蔑するでもなく、彼は笑った。それにつられて俺も笑い、彼の細い首に手を当てる。
まだ、彼は暖かかった。さっきの猫とは違って、柔らかいし、まだ動いている。
────生きている。
薄っぺらい皮膚一枚を通して規則的に感じられる鼓動が、あまりにも嘘くさいものであるように感じられて仕方がなかった。


「どうしたの?」


目の前にある深い青を帯びた瞳、俺は死んできっとそこに落ちていく。
罪深く彼を愛して、彼にも罪を負わせてしまった俺は、彼の中で咎を背負い、罰を受けるのだ。
どんどんその深みに溺れて、俺はきっと彼に殺されてしまう。


俺が殺すのではなく、俺が殺されるのだ。


「蓮二?」
「精市、俺はお前を愛している」
「うん」
「だから────俺を殺してくれ」
「───うん」


彼はにっこりと笑って、その手を伸ばしてきた。その笑顔に浮かぶのは、無邪気な好奇心。
その両腕に包まれて、彼の中で死んでいける俺はとても幸せなのだろう。
たとえ、その終わりが悲しい別離なのだとしても。





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