初めて授業をさぼるなどというたるんだ行為を行った。よかったな、初体験だなと蓮二にそう言われたものの、その体験が一体何の役に立つのかは教えてくれなかった。
勿論、己から望んでの行動ではなく、半ば脅迫文に近いメールを送りつけられたからだ。授業中にメールが送られてくる所で既に耐えがたいのに、その内容が他人の事を一切思いやらない命令文だったということも気に入らない。
当初は無視を決め込もうと思っていた。学生が授業をさぼるなどというのは、あって はならぬことであり、己がそのようなことをしている場面を考えただけで鳥肌が立つからだ。
けれど、そのメールを無視して五分後、またメールが来た。次のメールには、口にも出せないような恐ろしい文章が長々と並んでおり、授業中にもかかわらず、俺は教室を出る羽目になった。
呼び出された場所は屋上。静けさに支配されている廊下を、足音をたてないように努力しながら歩いていると、途中で蓮二に出会った。両手に資料を抱えており、一目で教員の手伝いをしているのだと分かった。
そこで初体験云々と意味の分からぬ助言を貰ったのだが、いくら考えても意味が分からない。学業に励むべき場所で、その学業をしないという行為が、一体何に繋がるのか。
その疑問を率直にぶつけてみると、蓮二は苦笑に近い笑みを浮かべて、命が大事ならば早く行った方が良いと、とても曖昧なアドバイスを残して立ち去った。
確かに、早く行かないと大変な事態に陥ることが目に見えている。先程送られてきたメールの内容が他人にばれたら、俺は二度と学校に来られなくなってしまうだろう。それだけは、何としても避けたい。
遅れを取り戻すべく、足早に屋上への道筋を辿る。途中、他のクラスの前を通ったが、どのクラスも真面目に授業を受けていて、俺もその中の一人であるべきであることをまざまざと思い知らされた。
即座に踵を返し、教室に戻りたい誘惑にかられるが、頭を振ってそれを振り払う。早く行かなければ。







屋上に出ると、五月晴れの空が俺を出迎えてくれた。心地よい風がふわりと広がって、また空に帰っていく。
扉をゆっくりと閉め、人の気配がない屋上を見回した。呼び出したのだから何処かに居る筈だ。けれど、いくら見回してもどこにも人影がない。
もしかすると、悪戯に引っかかったか。そんな思いが脳裏をかすめた時だった。



「真田」



噛みしめるように、ゆっくりと名が呼ばれた。
声の聞こえてきた方向────後ろを振り返ると、給水タンクなどが設置されている高い土台の上に、探し人がしどけなく寝転がっていた。
眠たげな猫のように目を細めているその姿は、まるで百獣の王が昼寝を堪能しているかのようだった。
どんな姿でも、その体から発せられる威光の光は輝きを失わない。それに呑まれて、身動きができなくなる人間もいるだろう。きっと、幸村はそんな脆弱な人間には目も向けないに違いない。



「遅かったな。ずっと待ってたんだぞ」



おそらく、その言葉は真実だ。幸村はずっと俺を待っていた。呼び出し方がどんなものであれ、幸村が俺に会いたいと思ったのは事実だ。
それは俺にとっても嬉しい事なのだが、もう少し時と場所をわきまえてくれるとありがたい。



「これでも急いできたのだ。途中、蓮二に会ってな」
「へぇ。お喋りにかまけて、俺の事忘れてたの?」
「そうではない。……今は授業中だぞ。そう簡単にここに来られるはずもないだろう」
「来てよ。どんな方法を使っても。どんな手段を用いても。俺のためだけに、ここに来てよ」



小さな子供のように言葉を並べたて、幸村は立ち上がる。土台はそんなに高くはなかったが、その上に立たれてしまうと、自然と見上げる形になる。
降りてくるのだろう、と漠然と思っていた。ただ、その降り方を予想できるほど、俺は頭の回転が良くなかった。きっと、蓮二ならばそれを完璧に予想できただろう。
幸村は何の躊躇もなく、その場から飛んだ。両手を広げて、空に飛び立っていく鳥のように。とてもとても美しい翼を持つ、華麗なる天使のように。
けれど、どんなに優雅に飛んでも、人は鳥にはなれない。必ず重力に捕まり、地上に落ちてくる。それは幸村も例外ではなく、空に舞い上がるように見えた身体が、それなりの速さで落ちてきた。



「幸村!」



咄嗟に叫んで、落ちてくる幸村に駆け寄る。落下の着地点に潜り込んで、その身体を受け止めた。男にしては軽いその身体は、しっかりと俺の両腕の中に納まった。



「ナイスキャッチ、真田」
「……何をしているのだ、お前は」



いつもの悪ふざけ、という言葉で済ますには程度が重い。一歩間違えれば打撲や骨折に陥っていたかもしれない。そう諭してみたが、幸村は懲りた様子もなく、説教を聞き流す子供のように視線を逸らした。



「幸村、聞いているのか」
「聞いてない。真田、それ以上俺に説教するなら、さっきメールに書いたこと、仁王にバラすよ」
「なっ!?」
「それでもいいなら、はいどうぞ」



発言を促すように手の平を向けられても、これ以上話を続けることは出来なかった。言葉に詰まった俺を見て、楽しそうに幸村は笑う。
その笑顔に懐柔されるように、苛々していた感情が収まった。最後に重い息を一つ吐き出して、それで完全に諦める。何を言っても無駄だ。
俺の諦めに気づいたのか、幸村はつまらなそうに笑顔を引っ込めた。未だ俺の上で倒れこんだまま、大きくため息をつく。



「なんかさ、つまんないんだよ」
「何がだ?」
「授業なんて別に聞かなくても困らないし、今日は珍しく仁王も丸井も来ないしさ。一人でつまらなかったんだ」
「そうか。それで、どうして俺を呼ぶ?」
「そんなの……」



俺の上から俺を見降ろして、幸村はまた笑った。今日はどちらかというと機嫌が良い、と思う。悪かったら、もっと辛辣な言葉を叩きつけられるし、こんなに笑ったりしない。



「真田が来たら、俺が嬉しいからに決まってるだろ?」
「それは……喜んでいいのか?」
「当たり前だろ。滅多に聞けない俺の告白だぞ」
「それはありがたいが……退いてくれるともっとありがたい」



控え目に申告してみたが、幸村は魅力的な笑みを浮かべるだけで、退こうとはしなかった。それどころか、全身の力を抜いて、もっと圧し掛かってくる。
元が軽いから重くはない。だからさして辛くはないが、この状況を誰かに見られた時はどうすればいいのだろうか。
大の男が二人、屋上でもつれ合っている所を目撃した相手の心情を想像すると、生半可な事態では済まないような気がした。



「幸村、笑い事じゃないぞ。早く退け」
「俺に命令するの?真田って、結構命知らずだね」
「誰かに見られたらどうするのだ」
「見せつけてやればいいじゃないか」「そう言う問題ではないだろう」
「じゃあ、どういう問題なの?」



一向に埒が明かない。元より、俺が口で幸村に勝てる訳がない。幸村に勝てるのは蓮二くらいだし、その蓮二もよっぽどの事がない限り、幸村と言い争いをしようとはしない。
けれど、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。いつ誰が入ってくるか分からないのだ。もしも、それがテニス部の誰かだったらと思うと、心臓を鷲掴みにされているような感覚が走る。



「幸村、すまん」
「は?」



屋上の床に寝転がったまま、手を伸ばして幸村を抱え上げた。身長差がこんなに役に立つ時が来るとは思ってもいなかった。
軽い体を床に下ろそうとすると、幸村が俺の腰にしがみついて抵抗する。それを無理矢理引きはがそうとする俺と、何としてでもしがみついておこうとする幸村の間で無言の争いが始まる。
その華奢な腕からは想像できないほどの力を発揮する幸村と力勝負をするのは初めてではない。意外と強い力を持っているものの、いつも俺が勝って終わる。
今回もその例に反することなく、幸村を屋上の床に下ろすことに成功した。
体の上に重みが退き、ほっと一息ついたものの、幸村の顔を見た瞬間そのささやかな安堵など吹っ飛んだ。



「真田……お前って、本当にいい度胸してるな」



にっこりと、先ほどまでとは全く違う笑みを浮かべて、幸村が言う。その声も、いつもよりも低くて、一瞬だけ周りに冷気が漂ったような気がした。
まずい、と思った次の瞬間には、もう飛びかかられていた。ようやく起き上がろうとしていた所を、両肩を押えられて床に押し付けられる。先ほどよりも強い力で押しつけられ、肩が外れそうになった。



「っ…。幸村、肩が外れる!」
「外れたら入れてやるから安心していいよ。むしろ、外すより痛い事してやろうか?」



命の危機、といっても過言ではない。これまで味わったことない痛みが思考を焼いて、視界が真っ白に染まる。悲鳴を上げそうになるが、それはどうにか押し止め、喉の奥で唸り声をあげる。大人しくしていると、本当に肩を外されかねない。
どうにか身を捩って手を振り払い、うまく動かない手で幸村の両手を掴んだ。暴れられたら抑える自信がないので、起き上がって体を入れ替え、幸村を床に押し付ける。
両手を塞がれているからか、それとも俺に対する制裁で気が済んだのか、案外幸村は大人しかった。



「真田、泣いてるー」
「仕方がないだろう。どれだけ痛かったと思ってるんだ!」
「お前丈夫そうだし、平気だろ」



俺に見降ろされたまま、悪びれる様子もなく幸村は笑っている。本気で肩が外れるかと思うほど痛かったのに、丈夫そうという言葉で済まされるとは思ってもみなかった。
もう一言くらい文句を言ってやろうとした瞬間、音を立てて屋上の扉が開く。
その音で、今時分がどんな状況なのか気付いた。幸村を床に押さえつけ、その上にのし掛かっているのだから───……。
まずい、と思う間もなく、悲鳴が上がった。



「さっ、真田君!何をしているのですか!」
「柳生か。違うぞ、これは……」
「珍しく授業に出席していないかと思えば、屋上で幸村君を襲っているなんて!」
「違うと言っているだろう!」
「柳生―、たーすーけーてー」



緊迫感の無い声で幸村が柳生に助けを求める。
元はといえば幸村のせいなのに、ともう間もなく駆け寄ってきた柳生に背中を蹴り飛ばされた。鈍い痛みが背中に広がって、手を振りほどいた幸村が柳生の背後に隠れたのが見えた。



「だから、誤解だと言っているだろう!」
「いくらお付き合いしているからと言って、無理矢理襲うなんて言語道断です!私が許しませんからね!」
「お前は幸村の保護者か!」
「幸村君、逃げてください!もうすぐ仁王君も来るはずですから!」
「やぎゅー、これは一体何の騒ぎじゃ?」
「仁王君、いい所に!真田君が幸村君を襲っていたのです!」
「ほー、真田もようやるのぅ。後でどんな仕返しをされるか分かったもんじゃなか」
「仁王、それどういう意味かな?」
「何でもなかよ。そうじゃな……柳生、参謀辺り呼んできて真田を預けちゃれ。参謀がこってりと説教してくれるじゃろ」



分かりました、と頷いて柳生が屋上を出ていく。それを見送って、くっくっと楽しげに笑っている仁王を睨みつけた。



「そう睨みなさんな。後は参謀と話をすりゃ良か」



楽しそうに笑う仁王を見ながら、深くため息をついた。
仁王の隣で佇んでいる幸村に目を向けると、すぐに目を逸らされた。よほど怒っている。蓮二に説教されるより、柳生の誤解を解くより、仁王の馬鹿にした笑いに堪えるより、ひどく機嫌を損ねた幸村を宥める方が大変そうだ。
今日一日を無事に過ごせるのだろうか。不安を抱きながら、もう何度もかもわからないため息をつくと、階段を駆け上ってくる足音が聞こえてきた。





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