彼の傍にいたかった
そこにいられるのならそれでいいと思った

ただそれだけでいいと思えるくらい、私は彼を愛していた





君の海に生まれ堕ちたい





絶え間なく音を立てながら寄せては返す波を眺め、隣で同じように海を見つめている横顔を盗み見た。
月明かりに照らされて輝いているその白い肌は今にも溶けて消えてしまいそうなほど希薄な存在感を放っている。


「ごめんね、こんなところに呼び出して」
「仕事帰りだったし、別に構わないよ」


無機質な着信音とともに隣に立つ彼女から着信があったのは、いつもと変わらぬ時間に仕事を終えて帰宅しようとしていた時だった。
デスクワークで凝った肩をほぐすように動かしながら出た電話からは、同じテンポで響く波の音と彼女のひきつるような泣き声が聞こえてきた。

それを聞いた途端に頭が真っ白になって。
泣きじゃくる彼女から居場所を聞き出し、できる限りの速さでここまでやってきた。

まっ白いワンピースを着て海を眺めている彼女を見つけるのはとても簡単で、名前を呼んで振り向いた彼女はもう泣いてはいなかった。
いつもと同じように柔らかく微笑んで、それでいてどこか悲しそうな顔をしていて。
何故だか、嫌な胸騒ぎがした。


「それで、一体どうしたの?」
「……月が、綺麗でしょ」


未だ少し荒れている息の中で発した問いは、見当違いの答えを引き連れて返ってきた。
確かに月はとても綺麗だ。満月に近い、ほんの少し円には足りない歪な形。
けれども、完ぺきではないからこそ、そこには柔らかい美しさがある。

答えを返す前に大きく深呼吸して、俺は大きくうなずいた。


「そうだね。とても綺麗だと思うよ」
「でしょう?あれぐらい大きくて、綺麗な月はね、水の中からでも綺麗なの」
「水の中?」
「そう。とっても深い海の底」
「……スキューバダイビングでもしたことがあるの?」
「ううん。そうじゃなくて……」


ひどく言いにくそうに彼女は顔をしかめ、そうして俺の手にそっと触れた。弱い力で俺の手を取り、ゆっくりとよせる波に向かって歩いて行く。
惰性でそれに従いながら、俺は先を行く彼女の手が震えている事に気づいた。
冷たくて、血の気の引いたように真っ白なその手は、何かに脅えるみたいに細かく震えていた。


「海に入るの?もう冷たいよ」
「ちょっと季節はずれだもんね。でも、いいの」


波の手前で足を止め、彼女は履いていた靴を脱ぎ捨てた。
ふわりとゆるい風が吹いて、彼女の髪とワンピースの裾をなびかせる。
ぴしゃりと音を立てながら海に入った彼女の後ろ姿を見つめながら、その風で煽られた自分の髪を押さえつける。
一瞬だけ途切れた視界は、開けた瞬間に信じられないようなものを映し出した。


「………え?」


キラキラと、月光を反射して美しく光る鱗。
しなやかに揺れる、尾のようなそれ。

たぶんそれはおとぎ話などに出てくる人魚という生き物のはずで、けれどそんなものが実在するはずがなくて。
でもそれよりもなによりも、その人魚がさっきまで隣にいた彼女だということが一番の問題だった。
だって、さっきまで人間だったのに。二本の足があって、隣を歩いていたのに。


「それは、一体………?」
「私ね、人魚なの。深くて暗い海の底で暮らす人魚なの」
「でも、今まで人間だった、よね?」
「そう、人間にしてもらったの」


人間にしてもらった。いったい誰に?何のために?どうやって?
聞きたいことは山のようにあって、けれどそのどれもがうまく言葉にならない。
呆然とその尾ひれを見つめていると、彼女がゆっくりと海から上がり始める。その全身が水から上がった瞬間、銀色に輝いていた鱗が消え、二本の足がそこにあった。


「水に浸かると戻っちゃうから、厳密には人間じゃないんだけどね。これが精一杯だったみたい」
「人魚、なんだね」
「そうだよ。ずっと騙しててごめんね。私ね、人魚の時にあなたを見たことがあったの。あなたは船に乗っていて、甲板からぼんやり遠くを眺めてた。私は偶然水面の近くまで遊びに来てて、あなたを見たの。笑うかもしれないけど、その時に見たあなたはすごく綺麗で、一目惚れっていうのかな、大好きになっちゃった。でも、私は人魚であなたは人間。会いに行くことすらできない、大きな溝があった。だから私は人間になったの。不完全ですぐに人魚に戻っちゃうけど、あなたのそばにいられる人間に」
「でも、どうしてそれを俺に?」
「もう傍にいられなくなっちゃったから」


どくん、と心臓がはねた。
彼女が何を言っているのか、今まで以上にわからなくなってしまって。
何も、言葉を返せなかった。


「私が人間になる特別な魔法には制限時間があるの。それが、今日。今日で私はまた人魚に戻っちゃう。だから、さよならを言おうと思って」
「な、んで……どうして、急にそんなこと!」
「ごめんね。本当のことを言ったら、嫌われちゃうかもって思ったら、言えなくて……本当に、ごめんね」


ほろりと零れた彼女の涙はぽたぽたと落ちて、次々と砂浜に吸い込まれていく。
反射的に手をのばしてそれを拭うと、彼女は顔をゆがめて俺に抱きついてきた。その身体を両腕で抱きしめ、俺は輝く月を見上げる。
スーツの袖から覗く腕時計は、もうすぐ日付が変わるということを示していた。


「私の我儘で付き合ってもらって、なのにこんなことになっちゃってごめんね……私と出会わなければ、精市は幸せになれたのに!」
「……何言ってるの。俺は、幸せだったよ。君と一緒に過ごせて、幸せだった。君の我儘なんかじゃないよ」
「でもっ……!」
「さすがに、人魚っていうのは驚いたけど……別に人間と人魚でも、愛し合っているなら付き合ったって構わないじゃないか」
「………もう、傍にいられないの。もう会えないの。こんなに辛いなら、出会わなければ良かった……!」
「そしたら、俺はきっと不幸になってた。俺は君に出会えてよかったよ。だから――――」


もしも、の話。
人魚が実在するくらいだから、来世を期待したって構わないだろう。


「生まれ変わってまた会おう。きっと君を見つけ出すよ。だから、もう泣かないで」


震える肩を強く抱きしめて、進む秒針から目を逸らした。
このぬくもりを、この香りを覚えておこう。次の世界でも彼女を見つけられるように。
笑いながら、見つけたよ、と告げられるように。

彼女は黙ったまま俯いていたけれど、唐突に小さく囁いた。


「人間のね」
「え?」
「人間の心には海があるの」
「へぇ、俺の心にもある?」
「あるよ。誰の心にも海があって、そこにはその人の大切なものが詰まってる。だから、私はきっとそこに生まれてくるよ。だから、次の世界ではずっと一緒だよ。あなたの海で、私は泳ぎ続けるから」
「いい考えだね」
「うん。……もう時間だ」
「………またね。また、来世で」
「………さよなら」


波の音が一瞬だけ消え、彼女は踊るように俺の手の中から抜け出した。
声を上げる間もなく、その身体は海の中に消えた。
残るぬくもりを忘れないように、溢れる涙が消えてしまわないように、まだたきもせずに波間を見続ける。
どこかで水の撥ねる音と銀色の輝きが見えたような気がしたけれど、気のせいだったのかもしれない。





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