この世界はとても汚い。
まるで、神様にも見捨てられてしまった終末の地のように、ただどろどろとした掴めない汚さがそこに充満している。
何もかもを汚染して、全てを引きずりこもうとしている。

その中で暮らす私も、とても汚い。
どこが、という言葉で表現できないほど全身が真っ黒く染まっていて、それはまるでこびりついた泥のように私の動きを抑制する。
早く死んでしまえ、と私に告げるみたいに。
動けなくすれば死の海に沈むのだと、そう信じている子供のように。



「お花は、いりませんか?」



誰も振り向きはしない。
そんなことは分かっている。
戦時中に花を必要とする人なんていない。いるわけがない。
何の益にもならないこの仕事を続ける理由はただ一つ。
私が私であり続けるためだ。
この世を覆う泥のような汚濁に、呑まれないためだ。
気を抜くと覆い被さってこようとするそれを、昼間外に立つことで退けようとしている。
本当にくだらない、気休めのような効果しか、ないのだけれども。



「綺麗なお花、いりませんか?」


掠れた、小さな声を汚れた空気に融かす。
ゆらりと陽炎が昇るように、私の言葉が空気中で乖離する。
誰の耳にも届かない、無力で哀れな声。

そのはず、だったのに。



「お花、もらえるかな」



私の声はあの人に届いた。
私の言葉が、心に響いた。
あの人の声が耳に届いた。
振り向くと、はっとするほど綺麗な顔が、私を見つめていた。



「こんにちは」
「こんにちは。今日は何のお花?」
「金盞花、です。綺麗でしょう?昨日、咲いたんですよ」
「へぇ、確かに綺麗だ」
「はい、どうぞ」



私の手から彼の手へと渡った瞬間、その花が輝きを増したような気がした。
本来あるべき姿に戻ったような、そんな感じ。

声は、届かないと思っていた。
あんまりにも彼が見つめているから、駄目元で呟いただけだった。
どれだけ私を見ていても、私の声を聞いてくれる人はいない。
皆、私が口を開くたびに目を逸らして去っていく。
その先に何があるのか分からない道を、遠くへと。
振り返ることすらせずに、私の事を忘れたまま。
それが当たり前だったのに。

彼は、私の傍に留まった。
花を受け取って、笑った。



「良い匂いだ。花を育てるのがうまいんだね」
「いいえ。ただお水を上げて、栄養をあげているだけです。誰にだって育てられますよ」
「ふふ、それは謙遜だよ」



事実、本当にそれだけだ。
遊女の仕事に合間に、普通の水を上げて、時々肥料を与える。
昼日中暇な人間なら、いくらでもできる行為。
ただ、今はそれをする人がいないだけ。



「今日も戦ですか」
「うん、そうだよ。よく分かったね」
「戦の日は、人通りが少ないんです」
「あぁ……兵士が帰ってくるからだね。血まみれだし、汚れてるから、みんな会いたくないんだよ」
「あなたは……」



汚れてませんね、と言おうとした。
けれども、その前に彼が首を振った。
悲しそうな顔をして、ゆっくりと首を振った。



「俺は、汚いよ。戦場で血に濡れる事も少なくない。それに……同族殺しの咎を背負っているんだ」



同族殺し。
人殺し。
けれども彼は綺麗だ。
何物にも侵されていない、どこまでも真っ直ぐな白。

それに比べて私はどうだろう。
身を売って、体を汚して、そして得た物は何?
何一つ、得られてはいない。
全てを失ったというのに、得られた物は何もない。



「あなたはとても綺麗です。私の方が汚い」
「何を……」



彼だけに届くような声で呟き、そして踵を返す。
それ以上、眩しい彼を見つめていられなかった。
彼の紡いだ言葉は最後まで聞こえなかった。

路地裏の闇に逃れた私が最後に見たもの。
それは、どこまでも真っ赤な夕日。

夜の始まりを告げる、黄昏。



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