ざわり、と風が騒いだ。
彼女の髪を揺らして、どこかへ流れていく。
たくさんの木々がそれになびき、欝蒼と生える葉を打ち鳴らした。



「疲れたね。少し休もうか」
「そうですね」



故郷であるあの国から逃げ出して、もう一週間以上経った。
一番恐れていた追手は思ったよりも少なくて、今のところ一度も見つかっていない。
戦後という事もあって、脱走兵一人と遊女一人に構う暇がないのかもしれない。
それでも油断することはできなくて、昼間は身体を休め、闇が辺りを包み込む夜に移動する日々を繰り返していた。
今思い出すだけでも懐かしいあの国から、一体どれだけ離れたのだろう。
安心して昼間でも歩けるようになるには、どこまで逃げればいいのだろうか。

昨夜突入したこの森は思っていたよりも深く、自分の位置を見失ってしまいそうになる。
太陽の位置や葉の生え方で方角を定めて、後はひたすら歩くだけ。
この森を超えた先に、安息の地はあるだろうか。

そんな事をぼんやりと思い、先の見えない不安定さにため息をつきそうになる。思い切り息を吐きだそうとした瞬間、先を越されてそのため息は消えてしまった。



「……大きなため息だね」
「あ…すいません」
「謝らなくていいよ。どうしたの?疲れちゃった?」
「いえ、そうじゃなくて……随分遠くまで来たなぁって思って」
「あぁ、確かにね。名前も知らない土地に来ちゃったから、そう思うのも仕方ないか」
「それもあるんですけど……私、物心ついてからあの国から出た事がないんです」
「遊女、だから?」



そう問いながら隣に座っている彼女の顔を見つめる。
暗闇に慣れてしまった目は、どこか面白がるような表情の彼女をはっきりと映し出していた。



「そうですね。人も安くはないですから、ここまで育てた遊女を失うのが嫌だったんでしょうね。ずっとあの館に閉じ込められて、仕事をして。時折、花を育てるために外に出して貰って。町に行ったことさえありません。望めば、大体の物は与えてくれましたから」
「満足してたの?」
「いいえ。ずっと外に憧れていました。外に出たくて、自由に生きたくて。でも、ずっと閉じ込められていたら外がどんなものが忘れてしまうんですよ。どんな空気だったのか、どんな音があるのか、どんな景色が見えるのか、全部。失って、消えていくんです」



終わった過去を話しているからだろうか、彼女の声に悲嘆は無かった。
事実を淡々と、むしろどこか楽しむように気軽に話している。
今なら聞ける気がした。
ずっと聞きたかった、聞けなかったこと。
聞いてしまったら、彼女が傷つくんじゃないかと恐れていたこと。



「ねぇ、君の家族は?」
「死にました」



間髪の入れない、静かな声。
その声に悲しみが無い事に安堵して、その声の平たさに恐怖した。



「お父さんとお母さんと、妹がいました。小さな小さな妹でした。まだ一人で歩くこともできないような、とても小さい妹だったんです」



彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
俺はただ、それを心に刻むように聞き続ける。



「お父さんは戦争の兵役を課せられて、戦場で戦死しました。私もまだ幼かったから、お父さんがどこかに行ったことは分かっても、もう二度と会えない事は分からなかった。お母さんは私と妹を養うためにずっと働いて、そして過労で倒れてしまいました。私は何もできなかった。看病もろくにできなくて、そのまま体を弱らせたお母さんは私の手を握って死にました。最後の言葉がなんだったのかすら、私は覚えていません」



少しだけ声が震えているような気がした。
横目で彼女を見てみると、その白い手がきつく握りしめられていた。
微かに震えるその手が、彼女の悲しみをはっきりと表わしていた。



「お母さんが死んで、私と小さな妹が残されました。自分の事も出来ない私に、妹の世話ができるはずもありません。誰も……誰にも助けを求めることもできず、妹は私の腕の中で息を引き取りました。冷たくなっていく身体を温めようと、私はずっと亡骸を抱き締めていました。孤児を拾って遊女に育てる人間が私を連れ去るまで、私はずっと妹を抱いていたんです。結局、あの子が私に笑いかけてくれることはなかったんですけどね」
「……辛かったね」
「私の辛さなんて、死んでいった皆に比べたら些細なものですよ。自由は奪われたけれど、私は生きていくことができましたから」
「でも、君は頑張った。よく、頑張ったよ」
「私に…私に少しでも力があったなら、妹は死ななくて良かったんです。あの子にも未来があったのに、それを私が奪ってしまった……!」
「違うよ」



その温かい身体は、思っていたよりも小さかった。小刻みに震えるその身体をきつく抱き締めると、彼女は引き攣るように身をすくめた。
微かに吹いている風に揺れる黒髪が、目の前で揺れる。



「君は悪くない。君は、何一つ悪くないから。そんなに自分を責める必要はない」
「でもっ……私のせいなんです!私がっ……!」
「君がいつまでもそのことを悔やみ、泣き続けることを誰が望んでいるのかな。君の両親も妹も、それを望んでないと思うよ」
「そんなの、分からないじゃないですかっ!」
「うん、分からないね。でも、俺はそうだと思うよ」



彼女は何も言わなかった。
ただ、身体を震わせながら涙をこぼしていた。
その温かい身体を抱き締めて空を見上げると、吸い込まれそうな暗闇ときらきらと輝く星が見えていた。



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