声が、聞こえた気がした。
名を、呼ばれた気がした。

薄暗い牢獄の鉄格子を越えた向こう側が騒がしい。
人の怒鳴る声と、走る音。
それに混じって聞こえる、彼の声。
喉が枯れんばかりに呼ばれる、私の名前。
ふらり、と無意識のうちに立ちあがって、鉄格子に手をかける。
冷たい鉄の感触が、私の皮膚を鋭く刺した。
暗くて見えない。でも、感じる。
彼がすぐ傍にいる。



「……ここです!私は、ここ!」



名前を聞いていなかったことを後悔した。
応えるために名を呼びたくても、分からなければ呼べない。
腕を振り上げて、鉄格子に叩きつける。
がつん、と鈍い音がして、それが地下牢の壁に反響した。



「瑠璃!」



声はいつの間にかすぐ傍まで近づいて来ていて、思わず闇を見透かせないかと目を凝らす。
そうしていると、ふいに暗闇の向こうから彼が現れた。
青い髪と青い瞳を持った、彼がいた。

あぁ、と思った。
彼はもう帰ってこないのだ。
もう私に笑ってはくれないのだ。

嘘つき。
会いに来るって、言ったくせに。



「ここにいたんだね。今出してあげるから、ちょっと待って」
「何故、何故ここに……」
「一緒に逃げようって、言っただろ」



彼はそう笑って、その手に持った剣を振り上げた。
咄嗟に鉄格子から離れ、耳をふさいで目を閉じる。
それでも指の隙間から入り込んできた鋭い音が、私の鼓膜を揺らした。

いとも簡単に壊れた鍵が床に落ちて激しい音を立てる。
彼は勢いよく扉を開いて、私の手を掴んだ。



「行こう」
「あの人は……あの人はどうなったんですか?」
「今は話せない。とにかく、ここから逃げよう。外に出たら隠れて、そこで話をするから」



言うが早いか彼は駆け出し、引きずられるように私を走りだす。
何故か地下牢の奥に進もうとする彼に抗ったけれど、彼は止まってくれなかった。
呑まれそうなほど深い闇に足がすくみ、うまく動かない。
彼の暖かい手が私を繋ぎとめて、先に進めと促していた。



「あの、この先は……っ!」
「行き止まりなの?」
「いえ、扉はあるんですけど……鍵が!」
「壊すから、大丈夫」



そう言えばそうだ。
さっき牢の鍵を壊したように、そこも壊してしまえばいい。
そんな単純な事に気づかないほど、私は混乱しているのだろうか。

彼が剣を振り上げる気配がした。
そしてその直後、先ほどと同じ接触音が響き、がらんと何かが床に落ちる。
その扉を抜ければ階段があって、さらにその先には────…。

ふわり、と風が吹いた。
まだ昇りはじめたばかりなのだろう太陽が、目の前に広がっていた。



「もう少し逃げよう。俺の国へ行って、そこから遠くへ行こう」
「……あの人は…死んだ、んですか?」



ぽつりと呟いた疑問に彼は答えず、無言で荒地を進み始める。
それに慌ててついて行きながら、そっと顔色を伺った。



「生きてるよ」
「……うそ」
「嘘じゃない、本当だよ。俺が勝った。傷を負わせて、これ以上戦えないようにした。でも、殺してはいない。彼は、生きてる」
「………あぁ……」



良かった、とは言えなかった。
だって、だって。
良かったなんて言ったら、私があの人を待っていたみたいだから。
目の前に居る彼よりも、あの人を選んでいたみたいだから。



「彼はこう言った。もう会いに行けん。幸せになりんしゃい。愛しとった、って」
「……はい」
「俺は、君が好きなんだ。あの時、初めて花を受け取った時から、君の事が好きになった。……もしかしたら、彼も会いに来るかもしれない。また君の所へ来るかもしれない。待ち続ければ、これまでと同じ生活ができるかもしれない。それでも────…」



彼がゆっくりと振り返る。
綺麗な、透き通った目をしていた。



「それでも、俺と来てくれるかな?」



来る、かもしれない。
また私に会いに来てくれるかもしれない。
ぽろぽろと涙が零れて、荒地に吸い込まれていく。
あの人も好き。この人も好き。
決められない想いの挟間で、私はゆらゆらと揺れている。

あの人の事を月のようだと思っていた。
孤独を背負って私たちを照らす、哀れな月のようだと感じていた。

言ったことはなかった。
言えなかった。
最後まで伝えられなかった。
───告げられ、なかったんだ。



「……行きます。あなたと一緒に、行きます」



小さな声で呟いて、それでも彼は聞き取ってくれていた。



「本当にそれでいいの?もうここには帰って来られないよ」
「いいんです。残したものは、何もないから……。父も母も妹も、もうどこにもいません。あの人は……きっともう、私には会いに来ないから」



あの人が来たのは戦で勝った日の夜だけ。
他の日に来たのは、大切なことを告げに来たあの日だけ。
だからもう、あの人は私の所には来ない。


ずっとずっと前から気づいていた。
あの人が私を愛してくれていること。

ずっとずっと気づかないふりをしていた。
その後に待ちうけるものを恐れて。

でももう、そんな些細なお芝居は終わり。
あの人との物語はここで終わってしまったんだ。
ここから先は────彼と物語を紡いでいく。


大きな手をそっと掴み、ゆっくりと微笑む。
彼は躊躇うように首をかしげて、私の手をそっと掴んだ。



「行きましょう。もう大丈夫です。私は、あなたと一緒に逃げます。連れて行って、くれるんですよね?」
「……勿論だよ。じゃあ、行こうか」
「ええ」



歩き出した彼の隣に並んで、ゆっくりと歩いていく。
ゆらゆらと揺れていた心が、波から上がって陸に進むように。
たくさんの人々が、どこか遠くへ歩いて行ったように。
私も彼と歩いていく。紡いでいく。


一度だけ後ろを振り返ると、地平線ぎりぎりの所で月が輝いていた。
役目を終えてどこかへ帰っていくように、眠りについてしまうように。
さよなら、と口の中で呟く。
返事は勿論帰って来なかったけれど、どこかで彼が聞いてくれていたような、そんな気がした。



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