彼女に会いたかった。
初めて俺の罪を許してくれた彼女に、尋ねてみたかった。
早く終わればいいと、そう呟いた彼女の答えを知りたかった。


俺は、一体何を失って、一体何を得たのか。


変わってしまった友人たちとの関係。
手も、声も、何もかもが届かなくなってしまったような気がした。
遠くに見えていた背中までもが、消えてしまったような感覚。
かろうじて残っていた糸が、途切れてしまった。
もう二度と、手繰り寄せることができなくなった。
そんな壊れてしまった世界の中で、俺はどうするべきなのだろう。



『お花は、いりませんか?』



彼女の声が聞こえたような気がして、誰もいない街角に目を向ける。
いつでもそこで花を配っていた彼女は、今日は何故かいなかった。
いつか現れるだろうかと待ってみたけれど、今のところその影もない。

そういえば、と今さらに気づく。
俺は彼女の事を何一つ知らないのだ。
どこに住んでいるのかも、普段何をしているのかも。
まさか、毎日花を配るだけで生きているわけではないだろう。他に何をしているのか、聞いたことすらなかった。
そして、あろうことか名前も。
彼女の名前も、俺は知らないのだ。



「仕方ない、か……」



このまま待っていて、彼女は来る保証はない。
暮れはじめた日を見つめ、小さくため息をつく。
名残惜しく彼女の居場所を見つめると、その向こう側で闇が沈殿していた。
ゆらゆら、ゆらゆら。
俺を手招くように、ゆっくりと揺れている。

あそこは確か、いつも彼女が立ち去っていく方向。
融けるように、滑るように、闇に消える場所だ。
その向こうに、彼女はいるだろうか。



『あなたはとても綺麗です。私の方が汚い』



思い出した彼女の顔は、とても悲しそうに笑っていた。
笑うというよりも、泣く寸前の歪んだ顔だった。
そんな表情で彼女は、何を思っていたんだろうか。

いてもたってもいられず飛び込んだ路地は、とても薄暗かった。
先の見えない道をひたすらに進み、ぐねぐねと曲がるままに進行方向を変えていく。
一体、どれだけ走り続けただろう?
いつの間にかたどり着いたのは、隣の国────敵国との挟間だった。
ボロボロのフェンスに区切られた土地。
その向こうに広がるのは荒れ果てた荒野。
いつも戦いが行われる場所。
そこは出陣の際、出入り口として使われる場所ではないから来た事は無かった。
だから、そこにそんなものがあるなんて、知らなかった。

ふわり、と一瞬だけ吹いた風。
舞い上がった、砂の粒と色とりどりの花びら。
それは幻想的に舞い散って、彼女を包み込んでいた。



「……どうして、ここにいるのですか?」



久しぶりに聞いた声は、少しだけ掠れているような気がした。



「君に、会いたくて。無我夢中で走ってきたんだ」
「何故、私に?」
「君に聞きたいことがあって。答えて欲しい事があって」
「そうですか」



彼女はすぐに俺から視線を逸らし、ただ舞う花びらを見つめていた。
荒野だというのに不思議なほど咲き誇っている花たちは、風が少し引っ張るたびに素直に花びらを渡していた。
彼女は水を撒いている途中のようで、手には大きな如雨露が抱えられていて、そこから透明な水が溢れ出している。
ぽた、ぽた、と水滴が地に印を刻む。



「早くした方が良いですよ。私、すぐに戻らなくちゃならないので」
「戻る?」
「ええ。今まで言えませんでしたが……私は遊女です」
「ゆう、じょ……?」
「知っているでしょう?男の相手をして生かしてもらう、玩具のような慰みものですよ」



知っている。
名前も知らない仲間側の兵士が、遊女に会いに行かないかと声をかけてきたことがある。
その時は、興味がなかったから断ったのだけれども。



「言ったでしょう?私は汚れているって。どんな理由であれ、生きるために身体を売った私はとても汚れているんです。血に濡れる以上に、それは重い罪ですよ」
「そんなこと……そんなことない!」
「私の事は良いですから……聞きたいことって、何ですか?」



彼女はやんわりと微笑み、そして俺に向きなおった。
よくよく見れば、その顔には大きな痣があって。
とても痛そうだと、ぼんやり考えた。



「ああ、これですか?叱られて、殴られたんです。だから、本当はここにも来ちゃいけなくて。しばらく謹慎で閉じ込められちゃうから、頼みこんで水やりだけこさせて貰いました」



俺の視線に気づいたのか、彼女は痣を撫でながら言った。
それを聞きながら、急すぎる展開の全てに頭がついてきていないことを自覚していた。
最初に抱えていた自分の疑問なんて、とっくに吹っ飛んでいて。
ただただ気になったのは、彼女がどうして従っているのかということ。
こうして見張りも付けられずに放置されているのだから、逃げることなんて簡単だろうに。



「逃げない、の?」
「……無理なんですよ。私を所有している館は、あなたの国と向こうの国、両方に店を開いています。つまり、両方に息のかかった人間がいるんです。だから、どちらに逃げてもきっと捕まってしまう」
「所有、って……物じゃ、ないんだよ!?」
「物ですよ。私はお金を稼ぎ、その代わりに最低限生きるだけの世話をしてもらっているものです。奴隷、みたいなものです」
「何で……どうして………」
「戦争のせいです」
「え……?」
「戦争が私から全てを奪って、そして私をあそこに縛りつけました。逃げる事も、幸せになる事も出来ない、牢獄のような場所に。だから私は戦争が嫌いです。早く終わってしまえばいいと思って、毎晩毎晩そう願いながら眠るくらい、戦争が大っ嫌いです」



心底憎々しげに、長年の恨みを吐き出すように、彼女が呟いた。
初めて聞く、苛立ちの混じった激しい口調。

感情を露わにした、彼女の心の叫びだ。
いつの間にか、彼女は俺から少しずつ離れていた。
背後を気にするように、時折後ろを振り返っている。



「そろそろ戻らなくちゃいけません。じゃないと、あなたまで撃たれる……」
「撃たれる?」
「……用件は、なんですか?」



硬い口調。強張った表情。怯えた瞳。
どれもが、彼女の焦りを表わしていた。
誰もいない時もそうして怯える彼女が、何よりも不憫だった。
ただただ、彼女をその怯えから解放してあげたかった。



「大きな、戦があるんだ。終わらない戦が。終戦の戦が、ある」
「知っています。お客様に、兵士の方がいますから」
「それに出て、指導者になるようにって言われたんだ。でも嫌だから断って、そうしたら昔の友達と喧嘩別れみたいになっちゃって。どうしたらいいんだろうって、ずっと迷ってた。戦争に出るべきかどうか、ずっとずっと迷ってたんだ」



彼女は困惑したように、俺の顔を見ていた。
その目を見返しながら、大きな声で叫ぶ。



「でも、君の話で決心がついたよ。俺はその戦で、一兵士として戦う。それでもしも────もしも、俺が勝ったら。その時は、君を迎えに来るよ」
「……な、にを」
「だから、一緒に逃げよう。俺が君を守るから。ずっと遠くまで、二人で行こう」



彼女の瞳が揺れた。
何かを迷うように、恐れるように、視線が宙を彷徨う。



「……ねぇ、銀色の髪の兵士を知っていますか?」



不意に彼女が告げたのは、先ほど俺が思い浮かべたのと同じ顔。
勝とうと決めた、無機質な金色の瞳。
どうして、彼女が彼を知っているのだろう?



「知ってるよ。でも、君はどうして……?」
「───…あなたが知らないと、そう言ってくれることを祈ってました。そうすれば、二人とも死んだりしないから。でも……やっぱり、あなただったんですね」
「ねぇ、それはどういう……!」
「どうして、あなたたちだったんですか!?私に、決められるわけがないじゃないですか!」



涙を伴った叫びと、不意に聞こえた一発の銃声。
彼女は驚いたように身を縮め、すぐに踵を返した。



「合図です。もう行かなくちゃ」
「待って!」



彼女は止まらなかった。
小さな背中が、どこまでも小さくなってゆく。
手の届かない所に消えてしまったその姿が、途切れてしまった彼らとの関係に似ているような、そんな気がした。



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