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「失礼なんかじゃない。――俺はまた、おまえに薺って呼んでもらいたいんだけど」
「へっ」
なんだか先程から、まぬけな声ばかり上げてしまっているような気がする。やけに鼓動が煩くて仕方がなかった。
薺が返答に困るようなことばかり言うからだろうか。それとも薺が発する空気が――視線や声音や微笑みが。酷くあまやかに感じられる所為――?
「ほら、薺って呼べよ」
「………っ、」
無意識の行動だった。
「……なずな」
促されるまま、自分がなにを呟いたのかもわからぬまま自然と口にしてしまったそれは、驚くほど滑らかに紡がれた。それが逆に、鳩の脳内に混乱を齎す。
『薺』と呼ぶこと。慣れていない筈なのに、不思議なほど違和感を感じなかったのだ。
「……俺、薺って、呼んでた……?」
記憶にはない。だがしかし呼べば呼ぶほど、最初からそれが正しかったかのような呼び易さを感じてしまう自分に戸惑う。
まるで自分の知らない自分がいるかのような――
今ある記憶が酷く不確かなものに感じられて、言いようのない不安に駆られた鳩は助けを求めるように薺を見た。
「やっと呼んだな」
――薺は酷く嬉しそうに笑っていた。その笑顔があまりにもきれいで、感じていた不安など消し去ってしまう。
なぜなのだろう。彼が喜ぶ理由も、不安の所在も、懐かしさの原因も。訊きたいことはたくさんあるのに上手く言葉が浮かばない。
「……あ、あのっ」
「――これから堅苦しい言い方したら全部無視するからな。忘れんなよ」
そしてそれから。
楽しげに――おもしろがるように困惑する鳩の頭をくしゃりと撫で、満ち足りた表情で「時間とらせて悪かったな」と席を立つ薺に、鳩が発することができたのは言葉にならないまぬけな声だけだ。咄嗟告げる言葉が見つからず、その間に薺の背はどんどんと小さくなっていく。
去り行く薺の後ろ姿を茫然と見送ることしかできないまま、その後しばらく、一人置き去りにされた鳩はその場で動揺する心と戦い続けるしかなかった。