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「……まだ居る」


明かりが点されている自宅、どうやら母はまだ居るみたいだ。

懐から取り出した鍵でアパートの玄関を開けて、ここまで臭ってくる化粧の臭い。
いつまで経っても慣れることのないどぎつい臭気。
これを撒き散らしながら互いの身を擦り合わせて、これだから大人は分からない。
真っ直ぐ自室に籠ろうとして洗面所から顔を出した半化けの母と対面する。


「あら、おかえり」
「……ただいま」
「何? 私の顔に何か付いてる?」
「目と鼻と口」


小馬鹿にしたような返答にてっきり不快な顔をされるかと思ったのだが。
意外や意外。からからと笑い飛ばされた。
「あんたも冗談言うようになったのねぇ」なんて感慨深げに言われ洗面所に戻った母に少し苛つく。

だけれどこの不快感を覚られるのだけは何故だか避けたく思い、足早に居間を通過しようとした。
しかし、その足は歩みを止め目線はある一点に釘付け。
脳内にあの人が発した言葉が蘇る。


「なまえー、テーブルの上に夕飯作っておいたから。ちゃんと食べるのよー?」
「……どうせまた、いつものなんだろ」
「別に良いじゃない。あんたには必要ないんだから」
「……」


さも当然と言わんばかりの口調に苛々は増長するばかり。
あんたの所為でこうなったにも関わらず素知らぬ態度を貫いて。

なんだ、不可抗力だとでも言いたいのか。

当たり散らしたくなる衝動を必死に堪えようと、きつく拳を握りしめる。
そして、厚い粉の仮面を完成させたこの人は露出が激しい派手な服に身を包み高いヒールを履いて。


「それじゃあ多分今日は帰らないから、明日遅刻するんじゃないわよ」


母親面して出て行った。
この空間に残ったのは規則正しく時を刻む秒針の音と化粧の臭いと料理の香りが調和せずに混ざった気持ち悪い臭気だけ。
喉と食道がムカムカして胃と腸が掻き混ぜられる感覚に無性に吐き気を催す。
動悸が早くなれば浅くなる呼気。



「美味そ」と綻ぶ頬。
「何、これ……?」と見開く眼。
「関係ねぇけど!」と眉間に寄った眉。



脳裏を過ったあの人の姿に耐えきれず、遂に流しに嘔吐いた。
焦った風に震える指で蛇口を捻れば、勢いよく流れてくれた流水。
ついでにコップにも冷水を注ぎ口をすすぐ。

自身の喘鳴が耳障り。
鼻を刺す酸っぱいような不快臭に盛れた舌打ち。
ああ、気持ち悪い。
全ての元凶であるあの料理を、捨ててしまおうか……でも。



――――ピンポーン



不意に部屋に響いたインターホン。
口腔内の気持ち悪さに再度水を呷り口元にタオルを押し当てて玄関ドアを解錠して。
立っていたのは意外な人物だった。


「やあ、なまえ」
「せ、精くん……何で居んの?」
「ん? まだお見舞いのお礼、してなかったなと思ってね」
「……そんなの、いいのに」


俺が勝手にしたいんだ、と柔和に微笑む精くんこと幸村精市くん。
彼とは昔ながらのお向かいさんで所謂幼馴染みというやつ。
だからこそ主語の乏しい赤也の話についていけるし、それこそレギュラーなら初対面でも数回のやり取りで大体掴める。
まさか赤髪のあの人があんなに執念深いとは思わなかったけど。


「君にこれをあげるのはどうかと思ったんだけど……他に思い付かなくて。悪いね」


そう言って差し出された袋の中身は唯一俺が好んで食べているゼリー状栄養補助食品。
……覚えてくれてたんだ。
これが好きだなんて明確に提言したことはなかったし、言ったとしてもそれは本当に軽く。
下手をすれば聞き流されてしまうようなタイミングで言っていたはずだ。

彼なら、精くんなら、我儘を聞いてくれる気がする。


「あの、さ……一つ頼まれてくれる?」
「ああ、良いよ。何かな」
「……取り敢えず入って」


居間まで精くんを通して、眼前に調理済みの野菜が乗った皿を突き出した。
調味料なしの野菜の臭いが鼻腔を掠める。




「これを……味付きに、調理し直して欲しいんだ」




意外そうな表情の精くんは目を瞬いて、けれどそれも数秒のこと。
にこやかに皿を受け取った彼は快く了承の旨を示してくれた。



***





「、ご馳走様でした」
「うん、お粗末様でした」
「……精くん」
「何だい?」


組んだ手に顎を乗せた状態の彼は柔らかく微笑を浮かべたまま先を促す。
実際言葉にしようと思うと…少し気恥ずかしい。


「……ありがと」
「! ……どういたしまして、ふふ」
「……? 何」
「いや? 珍しいなって」


何が、なんて分かりきったこと聞く気にはならなかったけど。
まるで我が子を見るような精くんの視線に居心地の悪さを感じた。
そして。いつの間にか嘔気はなくなっていた。




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