お前もう諦めろ
「ちょ!工事とかオレ聞いてない…」
「はは、そらお前あれだ、自業自得ってやつ。先々週から掲示板に貼ってあったっつの」
「ちっくしょ面白がりやがって…!」
「教授睨んでっぞ。静かにしろよ」
大学の講義の最中、何気なく呟いたオレの『おしっこしたい』発言に返ってきた辰真からの言葉は、『今日は全館工事で使えないぞ』という普通なら滅多に遭遇しない事態のお知らせだった。
幸いまだ膀胱に余裕があるため、辰真の忠告に大人しく口をつぐみ、教壇からこちらを射抜いている鋭い眼差しにヘラッと笑ってみせる。
教授が視線を向き直し講義を再開したことにホッと安堵のため息をついた。
「なぁ」
「んだよ」
「オレやばいかも」
「知らねーよ」
ことごとく冷たい友人の腕にボールペンで落書きをしたら、無言で睨まれて脇腹に鈍い痛みが走る。
「ってぇ…辰真クンひどい」
「じゃあお詫びにコレ終わったら一緒に並んでやるよ」
「?何に?」
「便所。行きてーんだろ?仮設トイレ」
友人のぶっきらぼうな優しさに、オレは目を細めてぎこちなく頷いた。
「………サンキュ」
…女々しいとか、言うな。
お前もう諦めろ
「うっわ」
「こりゃひでえ」
眼下に広がる長蛇の列に、オレ達は早速肩を落としていた。
「まぁ女子よりはマシだろ」という辰真のフォローも耳に入らないくらい、オレは絶望していた。
だって。
目の前には何十人?いやもしかしたら百いってるかもしんない位の列が出来上がっている。
しかも、仮設トイレの数が圧倒的に足りていない。発注ミスだろってレベルだ。だって二個だぜ?この大学っつー何百人もの人間が行き交う場所にたった二個。
「……あああ」
「テンパるな恭、とりあえず並ぶぞ」
もう既にオレの下半身は悲鳴を上げている。早い。
オレは基本したくなったらすぐしてーんだよ!脳が信号を出したらもうあとはGOの文字しかねえ!
「知ってるよ。もうやばいんだろ」
「ぐっ…」
オレのモジモジ具合に気付いたらしい辰真が口を引き上げる。
ちょっと楽しんでるように見えるのは、気のせいではないだろう。
でもそれにツッコミを入れる余裕すら、今のオレには残念ながらない。唇を噛んで眉を寄せるだけで精一杯だ。
「ん〜………」
少しして、なかなか進まない列に顎を手でさすりながら唸っていた辰真は、さくっとこんなことを告げてきた。
「恭、もうその辺でしてこいよ」
「ば、ばか言うなっ」
「漏らすよりいいだろう」
「お…オレそーゆーのムリって知ってんだろ!」
「んまぁ…知ってるけど」
しれっと言い悪気なく笑う辰真のケツに軽く蹴りをくらわす。
そうだ。オレは…生まれてこのかた一度も立ちションをしたことがない。というか、ムリだ。無理。恥ずかしいとかそういうレベルをとうに越えて立ちションとかするくらいなら死ねるってくらいにヤダ。男なのに意気地がない?上等だよ。人にはこれだけは譲れないってのがいっこはあるだろ。それがオレの場合立ちションってこった。
つーかそもそもオレ立ってションベンできない。家でも何処でも座って致す。シットダウンイズションベンなんだよ。なんつーこと言わせんだ!
「なんでうちの大学こんな辺境にあるんだチキショ〜…」
「はは、知ってて入学したんだろう」
握りこぶしに力がこもる。
隣で飄々とスマホをいじる辰真に八つ当たりという名の腹パンを軽くお見舞いしてから、余計な動作は膀胱に響くことに気付き次の攻撃を思いとどまった。
こっから一番近いコンビニまではバスで一時間。しかもそのバスすら一時間に一本。ものすごく交通の便が悪い辺境の地に建っているこの大学。最悪だ。なんでここにしちまったんだろ。…まぁ、安いからなんだけどさ。
「あ〜こりゃだめだ。恭、まだもつか?」
「もたん!」
背伸びをして列の動きを確認した辰真は、よし、と一人勝手に気合いを入れ覚悟を決めたような目付きでオレに一言。
「立ちションすっかペットボトルに出すか決めろ」
辰真の眼差しは恐ろしく真剣だった。
「は?!」
「とりあえず列抜けるぞ」
「おい!ふざけ…っ!」
あっという間に腕を引かれ、列の脇に放り出される。
身長は同じくらいだが、中高と剣道部だったからなのか体格の良い辰真と、今までやってきたことといえば頼まれてしぶしぶやったモデルくらいのオレでは力の差が圧倒的過ぎた。瞬殺。当たり前だ。
* * *
「ほらよ、」
「〜っ!ムリ!」
大学から少しだけ離れた、人なんて滅多に通らない雑木林の中に連れてこられたオレは、渡された空のペットボトルを突き返す。
「お前なぁ…」
そんな呆れられても、無理なもんは無理なんだって!
「つか辰真あっち行ってろよ。そしたらオレここでする」
「それは駄目だ。そんなことしたら絶交する」
「っはああ?!」
大声で反応すると、無意識に力んでしまったのか危うく漏らしそうになってしまった。やばいやばい。
「ほら早く。とりあえずちんこ出せ。な?」
本日一番の良い笑顔でとんでもないことを言う友人に、あぁこいつは言い出したら梃子でも動かない奴だった…と長年付き合ってきたからこそ知っている辰真の幼少期から一貫して変わらない頑固な性格を思い出した。
――不穏な空気が流れる。
春真っ盛りだから寒いわけでは決してないのに、吹き抜ける風がひんやりと感じるのは……きっとオレが今ちんこを出しているからだろう。
「俺が支えてやろうか?」
「自分でやるわ!つか見んな!」
楽しそうに口角を上げる辰真の手からペットボトルを取り上げて、萎え萎えなちんこを装着する。
しかもあいつ、わざわざ口の広いタイプのペットボトルまで用意しやがってこんちくしょー。どんだけオレをからかいたいんだっつの。全力で楽しむ気だろ、辰真のやつ。
『入んなかったからムリだな。やっぱそこでしてくるからあっち行ってろ!』作戦まで考えてたのに、早速出鼻をくじかれてしまった。あーもー駄目だ。こうなったら腹括ってやるしかない。それしか選択肢がないことをオレはもう知っているからな。
…つか、真面目にオレの尿意の方もそろそろ限界だし。
「……辰真、あっち向けよ」
「やだね」
くっそこいつ…!
オレは苦虫を噛みつぶすような思いで、せめてもの抵抗にと辰真に背を向けて排尿を開始することに決めた。
そうだ。別にこいつとはガキの頃からの付き合いだし、今更恥ずかしいことなんてなにもない。ちんこ見せるのだって構わないわけだし。ま、外で出すのはどうかと思うけどな!
とはいえ、小便する場面ってのはさすがにおいそれと人前で出来ないだろ。辰真はなんだか知らんが目の前でさせたがってるようだけど、普通に考えてこんなの罰ゲームよりタチが悪い。
「…よしっ」
片足を半歩下げ、その足を軸にくるっと身体を回す。
辰真の影が自分に覆いかぶさってることを確認してから、その場にしゃがみこんだ。
腹にかけていた緊張の糸を解き、ストッパーを徐々に緩めていけば、チョロ…と先端から蛇口を緩くひねったように黄金色のソレがしたたり落ちてくる。
「…っ」
ぶるる、と身体が震えた。
体内に溜まっていたものを吐き出し、体温が一時的に下がったからだ。ま、そもそもココ外だし。
「おぉ、すげー」
順調にペットボトルの質量を増やしていると、後頭部に低音がかかってビクッとする。そういや一瞬忘れてた。
「っ、辰真!見てんじゃねーよ!」
振り向くまでもなく、肩越しにオレの排尿現場を堂々と覗かれているのがわかる。
オレの声なんて耳に入っていないのか「すげー出てんな」なんてしみじみ述べてきやがった。そんな感想はいらねぇ!
「……っ」
肩に辰真の顎が置かれる。
ゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえた気がした。
おもむろに、オレが自ら両手で支えている股の間のペットボトルに横からスッと腕が伸びてくる。
…こいつ、何する気だよ。
「ちょっやめろって!今オレ身動きできねんだから!」
辰真にペットボトルを取り上げられまいと抵抗すれば、耳元でフッと鼻で笑う声が聞こえた。
「いや?地面にお前の栄養を分けてやるのも悪くないかなと思っただけだ」
「はぁ?意味わかんね…ってオイ!あ〜……」
楽しそうな声が聞こえたと思った瞬間にはペットボトルがサッと外されて、オレはしゃがんだまま地面にジョーと小便を垂れ流してしまっている。
かかった場所だけ土が鮮やかに濃い色へと染まっていく。
「あ、終わったな」
残念、とでも言わんばかりの辰真に、急いでちんこを仕舞ったオレは踵でヤツの足を思い切り踏みつける。
「っ痛」
「おっ前なー!モノには限度があるんだぞ!やっていいことと悪いことの区別くらいつけろよ!」
よろめいている辰真に血相を変えながらグングン近付くも、体勢を立て直した幼なじみの顔には反省の色がまるでない。
むしろ、黄色い液体でいっぱいになったペットボトルを笑顔で掲げてくる始末だ。
「…なに?嫌がらせ?」
わなわなと声が震える。
我慢できなかったのは自業自得とはいえ、わざわざこんな林の中で性器をペットボトルに突っ込むなんてみっともない真似までして小便させられて、よもやその容器をまざまざと見せ付けられる羽目になるなんて。
「恭、……悪い。泣くなよ」
「っ、泣いで…ね"ー…っ!」
ごしごしと乱暴に目元を拭う。
薄手の上着が水分を吸い上げて、僅かに重くなった気がした。
つーか、おもらしして幼なじみに泣かされるとか小学生かよ。
自嘲気味に心の中で笑って、辰真に背を向けて駆け出そうと一歩踏み出す。
「恭!」
「………んだよ。離せ」
力強く掴まれた腕は、いくら振りほどこうともがいても離れる気配がない。
力で辰真に勝てるはずもなく、オレは諦めて赤い目のまま「何だよ」と拗ねたように呟いた。
「恭、すまん」
辰真にしては殊勝な物言いに、黙ったまま頷く。
「つい調子に乗りすぎたんだ。悪い」
「……お前さ、そんなにオレのこと嫌いなわけ」
じと目で問えば、
「違…っ!」
すぐにそんな答えが返ってくる。
「違わないだろ。嫌いなんだろ。だからあんなことしたんだろ」
珍しく動揺してる辰真をもっと困らせてやりたくて、ぶすくれっとしながらそっぽを向いてみた。
――どんな顔してっかな、そう思って目だけでヤツの様子を窺ってみる。
「好きな子ほどからかいたくなるっていうだろ。……わかれよバカ恭」
昔から頑固で、ちょっとヘンな奴で、何事にも動じない大木のような性格の辰真。
事故で骨折した時も、盲腸で入院してた時でさえ平然と笑ってた。
なのに、今。
オレの目の前で顔を真っ赤にしながら俯いている幼なじみは、自分の知ってる人間とはたして同じ人間なのだろうか。
「辰真……」
「ちょ、見るな」
腕で隠された、その照れてるであろう顔がもっと見たい。
そう思ったオレは、もうこいつに毒されてしまったってことなんだろう。
---fin---