那月の言葉を聞きたくなかった。それなのに砂月は眼鏡を拾って自ら掛けてしまった。 那月に戻っていく姿を見れなくて目を斜め下に向ける。すると、馴染みのある声が降ってきた。 「翔、ちゃん……?」 そして肩を掴まれて、大袈裟に震えてしまった。 ――いけない。 那月の横を早足にするりと抜けて隠れるようにベッドに潜った。頭まで、布団をかぶる。 昨日あんなことしたのもたまに様子がおかしかったのも全部俺のことが好きだったから? そんなの、全部知りたくなかった。 これから俺は那月とどうやって関わっていけばいいんだ。砂月から言われただけならまだ騙しが効く。でもあんなことをされたから、もう今まで通りに関われるわけがなかった。 もう二度と、友達として関わることができないのか。 それならどうすればいいんだ。俺は、那月の気持ちになんて答えればいいんだ。突然のことで頭が混乱してることもあるし、ずっと何年も続いてきた平行線が乱れることにどうしても平常でいられなかった。 ――那月とは、バイオリンのコンクールで出会った。それから仲良くなって、トラウマ作らされたり眼鏡外したら性格変わる奴だったりでとんでもないことばかりだったけど溢れんばかりの思い出もあった。 「翔ちゃん、翔ちゃん」 「ん……なっなつき!?」 「しーっ! 誰かに気付かれたらいけないから静かにして」 「は? ちょ、おい那月……」 それは俺がまだ十才の頃の話だった。 コンクールで遠くまで出て、出場者には宿が用意されていた。それは二人部屋で俺は那月と一緒だった。 ちらちら言葉を交わして楽譜の確認をして、眠くなってうとうとしていたところで腕を引っ張られる。 よくわからずに抵抗することもできなくて引かれるままに着いていくと部屋を出てしまった。 確かデジタル時計には一と表示されていた。こんな時間にどこに行くつもりだ。少しの不安がありながらも騒いで誰かに気付かれても困るからそのままおとなしく歩く。 「おい……那月、どこ行くんだよ」 「ちょっと冒険しようよ」 ひそひそ話しているとついに宿を出てしまった。すると、すぐ側にある駐輪場に止めてある誰のものかもわからない自転車を出していた。 自転車乗って行くほど遠くまで……? 出るとしても宿を出て少し歩くくらいだと思っていたのに。 「翔ちゃんは僕の後ろに乗ってください」 「え……それは危ないだろ。二人乗りはいけないんだぜ」 「つべこべ言わずに、ほら!」 腰を掴まれて持ち上げられて、呆気なくすとんと後ろの小さな荷台らしきところに降ろされる。すぐに那月も前に座って、ペダルに足を添えた。 「しっかり掴まっててね!」 「うわ、うわわわ!」 そして、一気に漕ぎ出す。宿を出てすぐある下り坂をブレーキもかけずに下って、ものすごい勢いで夜風を切る。俺はぎゅうと、那月に抱き着いた。 「翔ちゃーん! もっと遠くまで行くよー!」 「おい那月っ危ねえよ……あは、やべえってー!」 満月が見下ろす坂を下る。二人乗りの自転車はこのまま、どこまでもいける気がした。 先にあるのは道だけだった。 「……那月」 布団から出ると、部屋は真っ暗だった。俺に背中を向けるようにベッドに横になってる那月に歩み寄って、そっと頭を撫でた。ぴくり、反応したのが伝わる。 「……なんです、か」 「ちょっと外、行こうぜ」 ぐいっ、那月の腕を引っ張って無理矢理に起き上がらせる。那月はぼんやりと俺を見て、抵抗しなかった。 それをいいことに部屋を出てずかすか廊下を進む。会話は、一言もない。 廊下を抜ければ寮を出る。そこで、やっと那月が口を開いた。 「翔ちゃん……どこ行くんですか」 「ちょっと冒険しようぜ」 駐輪場に行くと生徒に貸出可能とされてる自転車が並べられていた。その中で少し大きめなものを取り出す。 「那月、前に乗れよ」 「え……?」 「いいから、早く」 戸惑って動かない那月をそのままに俺はさっさと後ろの荷台に座った。動きを足すように那月の目を見れば、戸惑いながらも前に座った。 「え、と……どうすれば」 「どっか適当に行こうぜ。ほら、漕げよ」 背中に、腕を回す。 昔からずっと一緒にいるのにこうしたのはあの時以来のような気がした。でもあの時とは違う。すっかりたくましくなって広い背中だ。それが少し寂しくなって額をぐりぐり擦り付けた。 「……わかりました」 キィッと錆びた音を立てて自転車が動き出した。どこに向かうのだろうか。流れていく地面を見つめる。すると、ガクンと下がる感覚がした。 「う、うおお!」 顔を上げてみると、坂道を下っていた。那月の手はブレーキを握っていなかった。 「はー、気持ちいいですね」 「危ねえだろ! うわっ」 少しよろついて、腰に回す腕に力を込めた。 風はちょっとだけ冷たかった。秋がくる。確か、あの時もこのくらいの時期だった。 空を見上げるとなんでだろう、昨日は三日月だったのにそこには満月があった。 不意に涙腺が緩む。全部全部同じなのに、あの頃とは違うのかと。そして、二度と昔に戻ることはできないのかと思うと、悲しくなった。 「那月、俺、お前のこと好きだよ」 「…………」 下り終わったところで、自転車は止まる。腰に腕を回したまま俺は言った。 「でも、あんなことされたのに許せるはずねえよ。だからさ、」 過去には戻れない。関係だって変化しないはずがない。きっと、今回のことがなくたって関係は変わっていただろう。そういうものだ。ならば、それを受け入れるしかない。初めは慣れなくて違和感もたくさんあると思う。でもきっと過去に焦がれるように、大人になれば今に焦がれるようになるだろうから。 「お前が思ってること言えよ。それから、始めようぜ」 「……僕は、翔ちゃんが好きです」 「ああ」 「翔ちゃんがいろんな人と仲良くなるのが嫌なんです。でも、それは仕方ないから。僕だって翔ちゃん以外の人と仲良くしてるのに翔ちゃんにやめろなんて言えません」 「……わかってる」 「でも、辛いんです」 きっと、これもそのうち慣れる。自分以外の人といるのが当たり前になる。 「でもその分、俺らももっともっと進展していけばいいだろ」 それからまた自転車を漕ぎ出した。 昔には、戻れないけど郷愁に浸るくらいはできる。悲しくなるなら、昔を思い出して散々悲しんで、今を見て、散々縋りつけばいい。 もう、怖がる必要はない。 きっとこれから過去よりもっと良くなるから。 1109082303 |