スラブ | ナノ

『なんでだっ、どうしてなんだ! つばき!!』


がしゃん、と酒瓶が乱暴に壁へと叩きつけられる。ガラスの破片が辺りに散らばり、破片がツェンダーのやつれた頬をかすめた。精悍な顔つきは消え去り、顎には手入れのされていない髭が伸ばされていた。


『なんで……どうしてボクを置いていったんだ……!』


女つばきは、自殺した。その細い腕に赤子を抱いて。
日本警察は、女の身体から数々の暴行を受けた後を認めて、強姦された事実を言いづらそうに告げた。赤子である冴も乱暴に扱われたのが原因で死亡。計り知れないそのショックにより自殺をしたと判断を下した。


『つばき……冴……。』


それからツェンダーは荒れ果てた。酒とタバコを口にするだけの日々。涙を流しながら、それでいて時に怒りを込めて酒瓶を投げつける。床は数多のガラス片に埋もれ、テーブルの上の灰皿には巨大な山が積もっていた。

兼田はただ、ただ静かに傍にいた。


『ツェンダー……これがこの口の本当の姿なんだ。変えよう、私たちでこの国を潰そう。君の最愛の人を奪った、この国の人間どもを。』


そして彼が疲弊しきったときに、そっと囁いた。

――兼田は、アジトの一番奥の部屋へ入室した。
入ってすぐ、ローテーブルを挟んで光沢のあるソファが向かい合っていた。片方の足元にはツェンダーが可愛がっていた猫の死骸が1つ。そしてもう片方には、鎖で幾重にも拘束されたツェンダー自身の姿があった。その瞳に光はない。両目とも、ナイフで切り裂いた深々しい傷があった。


「ツェンダー……。」


兼田の、穏やかな声が部屋に響く。ツェンダーの身体が微かに動くと、鎖が音を鳴らした。兼田は笑みを深めるが、その瞳は殺人者としてのそれではなく、ただ穏やかなものだった。


「これで、ようやく元に戻りましたよ。長かった、長かった……。」


向かいのソファに腰を下ろす。部屋の奥には普段ツェンダーが座しているデスクとチェアがあった。そこを愛おし気に見つめた後、視線をじっと向かいのそれに移す。腐敗には至っていないが、転がっている亡骸から独特なにおいが鼻へと運ばれてきたが、これすらも歓迎のかおりに感じていた。


「貴方を取り戻すのにこんな年月がかかるなんて思いもよりませんでした。……ツェンダー、これからは昔のように2人で生きていきましょう。」


兼田はメガネを外す。ふぅっと息を吐き出すと、レンズは白く曇り、奥の世界を隠した。


「今回の件で私は例の組織へ迎え入れられます。中々過激な組織ですが、この国は無論、世界中へ鉄槌を下せるようになるんですよ。」


外気温で白い陰りは次第に明らかにされていく。細い指でテーブルに置かれているティッシュを取り出すと、レンズを磨いた。


「今まで私たちを苦しめた世界へ復讐が出来るのです。ああ……大丈夫。貴方のことは何があっても私が守って見せます。私には、貴方だけなのですから。」


綺麗になったメガネを再びかけると、兼田は軽やかに立ち上がった。そのまま、反対側へと歩を進める。身動きの取れないツェンダーの背後まで回ると、銃弾が減り込んだ肩へ優しく手を置いた。


「ツェンダー……貴方に不要なものはすべて私が取り除きます。あの女も、子どもも……娘ぶっているあの小娘も。」
「……。」
「ほっほー……大丈夫、すべて私に任せてください。」


ツェンダーの身体はぴくりと動くだけで、厚い唇から何か言葉が発せられることはなかった。兼田は静かにほくそ笑み、その巨大な身体を優しく背後から包み込む。耳元に唇を寄せて、耳朶を甘く挟んだ。


「もう、離しません……。」


瞼を閉じてぬくもりを感じていると、部屋へと向かってくる足音に気が付いた。ドアノブが動くと同時に、兼田は名残惜しそうに身体を話して、瞼を閉じる。


「報告は不要だと、申し上げたはずですよ、篠河クン。」
「おや、報連相は大事な業務だと思いますよ。」
「ッ貴様、なぜここに……!?」


聞こえるはずのない声が耳に届き、兼田は動揺して瞼を開く。部屋の入口へと視線を素早く動かすと、そこには薄く笑みを携えた安室の姿があった。


「なぜ、とは心外ですね。任務を忠実にこなしてきただけのこと。」
「……。」
「ああ、お仲間なら皆、がれきの下ですよ。もっとも、ほとんどがすでに息絶えていますが。」
「仲間、とはなんのことでしょうか。ホッホー。」


安室は両手をズボンのポケットに入れたまま、その身を扉に預けた。余裕そうな表情が、兼田の神経を刺激する。


「最初に違和感を感じたのは、冴を取引に行かせた貴方の判断です。」
「ですから、それは彼女が適任だからのことだと……。」
「単身で行かせるリスク、相手の要求に背くリスクを、聡明な貴方が考えなかったわけではない。それでも彼女を向かわせたのにはワケがあった。」


淡々と言葉を続ける安室に、兼田は押し黙った。


「冴が捕まれば、統領の琴線に触れることを、貴方は知っていたのです。」
「……。」
「あれだけ娘を愛している彼のことだ。幹部の人間を救出へと向かわせることは容易に想像がついたでしょう。案の定、僕とスレイプ、そして貴方が任命を受けた。」


安室は片手で前髪を弄る。ビルの天井が崩壊した時に舞い散った埃が先端についていた。細い指先はそれを掴む。


「貴方がツェンダーの身を案じて渋ったときに篠河が代行を申し出たのも、作戦のうちだったんですね。彼女が協力者だったのは、正直意外でした。」
「まったく、何を突然言っているのだか。」
「貴方の思惑通り、我々は見事に分断された。」


指に摘ままれた埃は、彼の薄い唇から吐かれた吐息によって宙へと舞い踊っていく。


「動揺したツェンダーを落ち着かせようと、さしずめ痺れ薬の入った飲み物でも与えたのでしょう。いくら鍛えられた人間でも、目を潰され、身体に銃を撃たれれば反撃なんてできません。」
「……。」
「見た限り、舌も切り落としましたね。」


ガチャ、と鎖の音が響く。


「一方で僕たちは、取引先の人間共々、篠河による爆発物の崩落に巻き込まれて死ぬはずだった。生き残りは、彼女が射撃していく算段だったのでしょう。そして、更に保険もかけて別に爆弾も用意していた。」
「ホッホー、爆弾? 先ほどから話がまるで分かりませんねぇ。」
「貴方が告げたんですよ。『せいぜい、巻き添えを食らわないようにすることですね。』と。まるで僕たちに何が起こるかを知っているかのような発言だ。」


安室は身体を起こして、一歩部屋の前へと足を踏み出した、そして、すっと身をずらす。奥の暗闇から影が揺らぎ出た。眼鏡の奥で、兼田が目を大きく丸める。


「どうして、生きている……!!」


安室の後ろから、冴が姿を現した。その首に、銀色の忌まわしいチョーカーはついていない。兼田は動揺した様子で懐から取り出した拳銃を彼女へと向けた。だが冴は、そんな彼を一瞥するだけで、臆することなく部屋の中へ進んでいく。


「確信を得たのは、取引先の男と対峙した時です。彼は、冴が統領の娘であることを知っていました。……おかしいんですよ。彼女は幹部の一人として向かったんです。それなのに男は、我々組織の人間しか知らない事実を知っていた。」
「っ、」
「つまり、この組織に内通者がいたんです。」


冴は奥のデスクまで進むとようやく足を止める。そして、一番上の引き出しをゆっくりと引いた。


「私がパパと会った時、貴方は酷く反対していたわね。」
「……。」
「当然だわ。ようやく、つばきを亡き者にしたにも関わらず、次は私と出会ってしまったのだから。」
「! なぜ、つばきのことを……!」
「よく覚えている。一年前の大雪――父に捨てられ、母に病死された私は途方に暮れていた。そんなときに手を伸ばしてくれたのが、ツェンダーだった……。」


引き出しの中から取り出されたのは、木目調の写真立てだった。埃一つ被っていないそれを、冴はじっと見つめる。写真には、幾分も若いツェンダーと、美しい女性つばきの姿があった。そして、彼女の細く白い腕には、満面の笑みを浮かべた赤子の姿が。


「私の名前が『若槻冴』であったことは、あまりにも衝撃的だったのでしょうね。ツェンダーは、私を亡くした愛娘だと思って拾ってくれた。」
「……ええ、そうです。ようやくツェンダーは、昔の姿を取り戻していたのに……貴女が現れてからまたおかしくなってしまった。」


銃を構える兼田の手が震えた。


「貴女のせいで、再びツェンダーを取り戻さなくてはならなくなった! 憎い、あの女のことも毎日いやでも思い出させた、あのうるさい赤子の鳴き声も毎夜聞こえてくる始末だ!!」
「……。」
「憎い、貴様が、あの女が、すべてが憎い! 私からツェンダーを奪うものはみな、死ねばいい!!」


トリガーにかけられた指に力が入った瞬間、安室が素早く拳銃を構えた。

――ガウンッ……




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