5 その時、背筋を怖気が走った。急に息苦しくなり、地に膝をつきそうになる。得体の知らぬものへの怖さというより、命を握られるような恐ろしさ。負の感情は散々味合わされてきたが、こんなに重たく禍々しいものは初めてだ。 「この呪力……」 新たに現れたものではない。残穢からして、この学校に保管されていた呪物だ。しかし何故、呪物だけならばこんなにも呪力が増幅する事はあり得ない。慌てて壁を駆け上がり、校舎をつなぐ渡り廊下へ降り立つ。両人をチラリと伺う、呪術師と、そして虎杖悠二、ーーーではない。 「下がれ!両面宿儺が受肉した!」 「!?」 受肉、虎杖悠二を器として両面宿儺が蘇ったのか。まさか呪術師ですらない虎杖悠二の身体が適合するとは。印を刻む呪術師は、虎杖悠二諸共両面宿儺を祓うつもりだろう。両面宿儺、二十本全てではないだろうが、一本でも特級呪霊、梛より圧倒的な格上だ。これはチャンスだ、特級呪霊相手であれば死んだって仕方がない。 「梛?!怪我は………!!!」 虎杖悠二が、梛を見て驚いた顔をし、そして心配そうに眉を下げた。それに内心驚く、虎杖悠二に自我がある。有難くないことに虎杖悠二とそこそこ一緒にいるせいで、それが両面宿儺の演技でない事に気が付いてしまった。此処で呪術師二人が手を下せば、流石に虎杖悠二は死んでしまう。違う、人殺しに躊躇っているのであって、虎杖悠二を殺す事に躊躇っているわけではない。けれど、虎杖悠二は人間で、非術者で。 「梛?どうした?」 「…………」 梛は愛刀をいつでも抜刀できるように持ち直した。御託を並べるなんてらしくない、呪術師ならば呪霊は祓う、それだけだ。目の前にいるのが誰かなんて関係ない。 「今どういう状況?」 突然顔を出した、知らない男。むしろ全身黒づくめと両目を覆うようにしてつけられたバンダナに、完全に変態だと思った。前が見えないと思うのだが、足元はしっかりしている。根暗は人の目を気にするので絶対にこいつが根暗でないことだけは分かった。そんな完全不審者なのだが、漏れ出る呪力からして並大抵のものではなかった。こんな化け物のような男は知らない、特級クラスだ。警戒する梛とは裏腹に呪術師は知り合いらしく親しげに会話をしている。端々から聞こえてくる内容から、高専の教師のようだ。そして、その苗字には嫌という程聞き覚えがある。 「五条、悟……」 無限と六眼を持つ最強の呪術師。まさかこんなど田舎で会う事になるとは思わなかった。梛は隅の方で息を潜めて成り行きを見守る。特級呪術師が出てきたのであれば梛はお役御免だろうが、完全に離脱のタイミングを逃した。そして五条悟と、虎杖悠二から所有権を奪った両面宿儺がぶつかり合う。流石、特級呪術師だけあって指一本分の両面宿儺であれば脅威にもならないようだ。恐らく六眼を隠すためにつけられている目隠しを取ることもなく両面宿儺をあしらっている。これが特級呪術師と特級呪霊か、化け物すぎて梛には別次元のことのように感じた。梛は何がどう転んでもああはなれない。 五条悟の言いつけ通り10秒で両面宿儺から身体の支配権を取り戻した虎杖悠二を、何を思ったのか五条悟は気絶させて担ぎ上げた。連れて行くつもりらしい。通常であれば上層部の査問会にでもかけられるが、両面宿儺の器だ。どうなるのか、梛には想像もつかなかった。一先ずこの場はおさまったようで、梛はもう自分は用無しだろうと、竹刀袋に愛刀を仕舞い立ち去ろうとした。しかし、五条悟は見逃してくれなかった。 「それでその子は?」 「………」 梛は何も答えなかった。沈黙する梛に呪術師が代わりに答える。 「この学校の生徒みたいです。そいつと知り合いだったんで」 「ふーむ、……その呪力、呪術師なのは確定だけど」 「お前、俺と同い年ぐらいか?呪術師なのに、高専に入学してない、みたいだな」 「………」 「黙り、か」 呪術師は通常呪術高専の東京校か京都校どちらかに入学するが、梛はそうなれなかった。出来損ないだから、地方に遠ざけられた。両手を打って大笑いしていた男の顔がチラついて、梛の気持ちをさらに沈ませた。梛は役に立てない出来損ないだ。無力で、生きている価値がない。苦しい、はやく死んでしまいたい。 「彼はキミのお友達?」 五条悟の言葉にはっと現実に戻る。湯水のように溢れる負の気持ちに呑まれそうになりながら首を横に振った。 「違います」 「へぇ……キミは私情とかないの?彼を殺すかもしれないよ?」 「………虎杖悠二、両面宿儺の事は特級呪術師殿に一任します」 梛には選択肢などない。命じられるままに、言われるままに動くだけだ。だから虎杖悠二の今後のことなど考える必要もない。 「殺すと判断されたのであれば、従うまでです」 「お前、友人じゃないのか!?」 十種の呪術師は冷静なのかと思ったら、どうやら内面は熱い人間らしい。こいつも絶対に根暗じゃないな。雰囲気は隠だが、隠のものにみせかけているだけに違いない。その呪術師がまだ何か言っているが、梛には何も言葉として認識できなかった。批難されるのはなれている、梛が全部悪いから責められる。死んでしまいたい。不快な思いをさせてしまった、悪いことをしてしまった。特級呪術師の時間を無駄にした、呪術師にいらぬ苛立ちを与えてしまった。 「………失礼します」 梛は軽く頭を下げて逃げようにその場を走り去る。なんの役にも立たなかった自分、守ることもしようとしない自分、役立たず、無能、耳元であの人が囁く。 『梛はほーんまに、ダメな子やね』 ひどい吐き気がする。この世から消えたくて消えたくて、たまらなかった。 |