3 配属されて二ヶ月もすれば殆ど独り立ちの状況だった。七海は同期よりも優秀であったため、一人で仕事を任されるのがはやく、栂に同行するのも数回で卒業し、外回りはもう一人でこなしている。社内の作業だけはチェックも必要とするため、未だ栂が見てくれているが。 グラスがぶつかる音がして、栂の祝福が七海に降り注ぐ。 「おめでとー!!!」 「ありがとうございます」 「七海くんが契約取れて俺うれしーなぁ。奢ったげるからいっぱい食べて飲みな」 今日七海はついに一人で契約をとった。七海自身も達成感に満ちたが、それ以上に栂が喜んでくれて誇らしくなった。栂に連れられてこられた居酒屋は小洒落た半個室の創作フレンチ店だ。既に数え切れないほど栂と食事を共にしているが、栂の選んだ店は何処も七海の舌にあった。 あれこれと今後のことを相談させてもらって、そのうちに何やら栂の顔が赤くなっていることに気が付く。あれ、と思うと同時に先のドリンクを運んできた店員の様子が浮かんだ。まだ新人なのだろうたどたどしさと、同時に配膳するために乗せた複数あるグラスに迷った様子だった。栂が頼んだのはウーロン茶で、それを受け取ったはずだが、結局間違えて酒を渡されたのだろう。 栂は下戸だと言っていた。そのため栂が酒を飲んでいる姿を初めて見る。酒を飲んだら皆が酔うわけではない、具合が悪くなる人間もいることを七海は知っていたので声をかけようかと口を開いた。 「栂さ」 「七海くんは何で証券会社なんて勤めたの?あ、本心のところね。別に面接じゃないんだし、それで何か評価があるわけじゃないから」 栂の質問に興味を引かれて口を閉ざす。普段の栂はパーソナルスペースの取り方がうまく、決して踏み込むよな質問はしてこない。珍しい栂の様子に、七海は問い返した。 「…………栂さんは?」 「俺?そりゃ給料のためだよ!!!」 「潔すぎます」 余りにもきっぱりきたのでつい冷静になってしまった。栂に「世のため人のため」と言って欲しいと幻想を抱いていたわけではないが、やや期待していたところは否めない。 「働きたくないから、今のうちにたっぷり働いて、はやく働かなくていい生活になりたい。働きたくない」 「……分かります。私もそうなので」 「七海くんも!?一緒だねー!」 栂がにこにこと笑った。苦労を苦に思わないタイプかと思っていたが、この人も人間なのだなと実感する。 「でもやっぱり証券会社の実入りがいいと言っても、割に合わないよねー。優しいお客さんはいいけど、やけに損はないか気にしてくるやつがうるさいしさー」 「栂さんでもそう思うことがあるんですね。でも、どのお客様も納得されているようですけど」 「大体横文字並べとけば説得感でるから。七海くんならネイティヴな発音で言ったらもっと説得力あると思う!」 「そういうものですかね…?」 「そういうものだよ!だって本当に金(かね)が欲しいなら、価値が変わらない金(きん)を買うべきだし」 「まぁ、一理あります」 珍しい栂の言葉につい七海は酒を止めるのを忘れてしまう。この時、酒が入れば本性が出てくる人間が存在することを好奇心が上回って失念していた。 「つかうちの会社の一部マジでうんざりしない?七海くんはまだ見限ってない?大丈夫?」 普段は会社の愚痴一つ言わない栂のその言葉に、七海はじっと栂を見つめる。栂は手元の皿にある明太子を解体しはじめて凄惨な現場を作り出していた。 「鈍感な奴らは適当に仕事してればオッケーみたいなノリだけど、そういうことじゃないじゃん??仕事ぞ???金もらってんだぞ????最低限の自分の仕事しろ????定時で上がっていいのは勤務時間に仕事していたやつだけだぞ????七海くんはこんな身を粉にして仕事したらだめだぞー。聖書曰くさー、労働は罰。二次元の言葉を借りるならば、働いたら負け。つまり何が言いたいっていうと、労働はクソなんだよ。分かる?七海くん」 「はぁ」 「いかに鈍感でいられるか、愚者が勝者なんだよ。俺はさー、労働はクソだって気付きちゃってるから敗者なんだよー。はーほんと労働クソ。チーフはハゲ、課長はガングロ、部長はデブ」 「はぁ」 「労働というクソにまみれてるんだよ俺は」 この人の口からそんな言葉は聞きたくなかった。急にきたマシンガントークに七海はややショックを受けて気の抜けた相槌を打つ。普段内側に隠しているものが酔うと表に出てくるタイプらしい。 「働きたくない、労働はクソ、会社爆発しろ」 このまま管を巻かれたらどうしようかと心配になったところで、栂はそれだけ言って、ごとりという音と共に机に突っ伏した。寝たらしい。かけたままのメガネは無事だろうか。 七海は手元のワインを飲みながら、天井を見上る。好奇心が上回ってしまったが、栂のこういう一面が出てくることは想定していなかった。 理想の人間なんていないのだと再確認し、寝落ちた相手にどうしたものかとぼんやりとこの後のことを考えた。 |