その夜、恵は与えられていた自室に戻り布団に入っても寝付けなかった。走り回って体力を消耗して、櫟が倒れて精神力を削がれていたが、目を閉じても眠気がやってこない。恵は眠る事を諦めて布団から起き上がった。夜も更け静まり返った廊下を抜けて櫟の部屋を目指す。

櫟はあの後起きてはこなかった。五条が傍についていたので何度も様子を見に行くのは憚られて、津美紀と二人でリビングで静かにテレビを見て時間を潰し、そして早めに床についた。
貧血で、大事無いと言うのは分かっているが、せめて一目見たいと、櫟の部屋を訪れる。

櫟の部屋は和室で、鍵がかかっていない。奥の書庫と同じぐらいこの部屋も本で満たされており、和室に置かれたベッドの上だけが綺麗だった。
いつもであれば外から声をかけるが、起きているかも分からぬので声をかかるのは憚られた。
そっと襖を僅かに開ける。少しだけ様子が見れれば。
五条が付きっきりだったので起きているとすれば五条だと思っていた。

ベッドに上体を起こして櫟が座っていた。いつもと変わらず本を読んでいる。
看病をしていたはずの五条が傍ですっかり寝入っているようで、恵が覗いている事に気がついた櫟が声を出さずに、口の前で人差し指を立てた。

櫟が静かにベッドを下りたので、恵もその場から下がって、櫟が部屋を出て来るのを待った。後ろ手に櫟が部屋の襖を閉めて、リビングへと歩き出すのでその背を追う。

「……五条さんはいつもアアだ」
「ああ?えーと、うーん…悟は優秀だから引っ張りだこで疲れてるのは確かかも?」
「ゆうしゅう」
「アハハ、恵にもいつか分かる日がくるよ。恵の修行は悟がつけるって言ってたし」
「おれは、櫟さんのほうが、すごいとおもいます。……できるなら、櫟さんに、教えてもらいたいです」

櫟が足を止めた。下を向いていた恵はぶつかりそうになって慌てて急ブレーキをかける。上を見れば、櫟と目があった。

「恵」

月明かりに照らされた廊下に、二人の影が伸びる。
膝を床についた櫟の目の前に立てば、櫟は身に付けていたパーカーのポケットから紐を取り出した。
黒い紐に、赤い糸が編み込まれている。赤い糸が、櫟の掌から伸びた糸に似ていて、少し怖い。

「それは?」
「御守り。出来れば、肌身離さず持っていてほしい」

差し出されたそれを受け取る事に、戸惑った。櫟が、恵を思って用意してくれたのがとても嬉しい反面、素直に手を伸ばせない。
床へ視線を落として、寝間着代わりのシャツの裾を両手でぎゅっと握る。服が伸びるからやめなければと分かっているが、手がいう事をきかなかった。

「恵?」
「………櫟さんが、来てくれる。だから、いらない」

恵は、自分の本音を口に出すのが苦手だ。今までの生活で疎まれ続けてきたことにより、口を開くより閉ざすことを覚えた。それでも櫟には沈黙を返したくなくて、言葉を絞りだした。殆ど懇願に近い言葉だった。来てくれる、違う、来てくれたら、来て欲しい。そうであって欲しいという願望。握った服の裾は力の入れすぎで千切れそうだった。
恵の振り絞った言葉に、そっか、と櫟の相槌があって。その硬く握った拳を櫟がそっと撫でた。

「でもね、恵。見たでしょ?俺は貧血を抱えてる状態で、いつでも助けてあげられるとは限らない。だから持ってて」

五条からも聞いている、櫟が日常的に貧血を起こしていると。何度も倒れれば当然命に関わるだろう、恵がどれだけ助けてと願ったところで、それで櫟の寿命を縮めるのは本意ではない。それは、分かっている。分かっているが、一人は、もう嫌だ。

唇を噛む。噛むことが癖になっていて、唇の皮が捲れて痛んで、その痛みが恵を慰めた。
櫟が恵の指をシャツからゆっくりと引き離す。そして両の手をそれぞれ一本ずつ絡めてぎゅっと握った。

「ーーー恵が、絶体絶命、どうしようもないってときは駆けつけるから。それは約束するよ」

ハッとして顔を上げると櫟がじっと恵を見つめていた。上っ面だけではなく、誠実に約束してくれていることが伝わってくる。
恵は嬉しさと同時に、もらってばかりではいけないと思った。

「俺も、……強くなって、……櫟さんが絶体絶命の時は、駆け付けるから」

握られた手を、強く握り返した。櫟の指は恵のものとは当たり前だが全然違う、大人の手をしている。子供の恵では守れないが、力をつけた暁には。
恵の決意に櫟は目を丸くして、そしてくすりと笑った。

「ありがと」

その笑顔にポカポカとした気持ちになった恵を、櫟がぎゅっと抱き寄せる。夜なのに、櫟からは相変わらずお日様の匂いがした。




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