恵は一人でいることになれている。自分と他人は違うもので、アレが見えないのが普通。見える恵が少数派の人間。
いつもなら目を合わせなければ何事もないが、目を合わせてしまえばアレに認識される。攻撃性がましたアレに遭遇すると厄介だ。だから誰も巻き込まないように恵はいつだって一人でいる。
アレに目をつけられた時も、誰にも助けを求められないので、一人で逃げて逃げて。

「っ!来るなよ!!!」

恵は息を切らして悪態を吐いた。到底会話が成立しているとは思っていないが、口にせずにはいられない。全速力で走って、膝はガクガクするし、片腹は酸欠で痛いし、呼吸も苦しい。それでも捕まったらヤバイと、恵の直感が叫ぶ。逃げろ、と。

全速力で走る恵を、見えない人間は迷惑そうに、時にはしゃいでると勘違いして微笑ましそうに見送る。何も知らないくせに、何もしてくれないくせに。

人が閑散とした入り組んだ工場地帯に入り込み、恵は漸く足を止めた。これ以上は限界で走れそうにない。積み上げられたコンテナの陰に隠れる。息を殺して、アレが過ぎるのを待つしかない。恵はシャツの胸元を握って、呼吸を落ち着かせようと深呼吸を試みた。ドクドクと鼓動を打つ、はち切れんばかりの心臓。

いつだって死んでも構わないと思っている。誰にも必要とされていないのだから。その気持ちはずっとかわらないのに。

『ァアアア!!ど、ゴォおおおお!??!!!』
「っ」

恵は声を発しないように口元を手で覆った。じわりと視界が滲む。我慢しようと唇を噛んだ。
いつだって死んでも構わない、けど、ーーー死にたくない。

夕陽が差し込み、コンテナの影が伸びる。アレには影がないので居場所が分からないが、嫌な気配が遠ざからないので近くにいる。今にも見つかるのではないかと、気が気でなかった。

『恵、影絵は分かるね?』
「かげえ…、そうだ、影絵」

自分の影がコンテナの影からはみ出ないようにと下がったところで、櫟の言葉を思い出す。影絵をしている場合ではないのだが、息を殺す他に恵ができる事はない。半ばヤケクソに、恵は手を伸ばして、両手をくっつける。

「犬!守れるなら、……守ってくれよ!!!」

くっきりと地面に浮かび上がっていた犬の影絵が、恵の叫びに呼応したように、ぐにゃりと揺らいだ。
驚いて目を見張る恵の前で、影から、四足の生き物が飛び出してくる。白いそれは、恵の前にスタリと着地した。

「い、犬がでた!?」
「ワン!」

まさか本当に犬が出るとは思わなかった。恵が街中で見かける愛玩犬とは違い、精悍さのある顔付きで毛並みも長い。三角模様を額につけていた。お座りのポーズをとっている犬へ、恐る恐る手を伸ばした。ふわりと柔らかい触り心地。生きている温もり。影から生まれた犬が、実在している。
常ならば信じられないような怪奇現象だが、今の心細さに震える恵には充分な存在だった。
恵が犬を抱きしめると、犬が応えるように、恵に頬ずりをする。

『どこォオオオオオ!!!!????』
「っ!」

恵の心細さが解消されても根本的問題は解決出来ていない。間近に迫った声に、恵の体が強張る。ここからどうすればいいのかが分からない。
そんな恵を、犬は口で咥えて器用に背に投げた。ドスンと犬に跨ったことに驚く間も無く、犬が走り出す。悲鳴は風に吸い込まれた。
犬はコンテナの間を抜けて、スイスイと迷いなく進む。目的地があるかのような動きに、恵は振り落とされないようにしがみ付くしか出来ない。

「あぶないっ!」

目の前に急にコンテナが降ってきて、犬が間一髪足を止める。轟音を立てて地面に落下したコンテナにゾッとした。あの下敷きになっていたら絶対に死んでいた。

『い、たイタイ、いた!!!!!』

アレに見つかった。犬が姿勢を低くして唸り声を上げ威嚇する。
アレは、黒い糸の塊のように見えた。画用紙に黒の鉛筆でグルグルと円を描き続けたような、歪の塊。何者でもなく、何物でもない。口と思わしき中央の裂け目から、時折舌が現れて、その奥に、人の脚のようなものが見え隠れした。直視したくないが目をそらす事も許されない。
犬を出していなければ先の場所で見つかって殺されていただろう。しかし犬がいたところでどうだ。何ができる。死ぬまでの時間が伸びたに過ぎない。

「櫟さん、櫟さん!櫟さん!!!!」

恵はもはやがむしゃらに叫ぶしかなかった。犬を呼べといったのは櫟なのだから。少なくとも櫟はこうなることを予想していたのだ。
アレの手と思わしき黒くて長い、棒のようなものが振りかぶられて、そして恵へと振り下ろされる。
衝撃に、目を瞑った。

ーーーせっけつそうじゅつ

そう聞こえた。恐る恐る目を開けると、アレが空中で静止している。じっと目を凝らすと、赤い色をした糸がアレをコンテナと繋いで拘束していた。
じゃりっと地面を踏みしめる足音に、恵は勢いよく振り返る。

「おや、もう玉犬が出せたの?優秀ゆうしゅう」
「櫟さん!」
「怪我はないね?」

恵は犬から飛び降りて櫟へ駆け寄った。そして勢いのままにその足に抱き着く。助けを呼んで、本当にきてくれた人は初めてだった
いつだって恵は一人で、誰も助けてくれない。誰もなにもしてくれない。
安堵から再び涙腺が緩みそうになり、恵は唇を噛みしめる。
滲む視界の中で、櫟を見上げた。

「もう大丈夫だよ、恵」

そういって安心させるように笑う櫟は、片方の手に銀色のバタフライナイフを持ち、そして反対の掌から血を流していた。





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