3 櫟の家、つまり恵が住むことになったこの家は、見た目と同じく年季が入っていて歩いたり戸を開け閉めすると音がなる。 キッチンや風呂場の水回りはリノベーションされており綺麗で、各部屋も古さを感じさせないが、それでも手を加えているのは最低限のようだった。 恵は音が鳴らないように最新の注意を払いながら玄関の扉を開けた。誰にも気が付かれませんように、いや誰もいませんように、とすら願った。しかし恵の願いは実らず。 「あらら、男前度が上がった?」 「……」 「おかえり」 「…ただいま」 玄関の三和土の段差に、櫟が座っていた。居なければいいのにと願ったが、いるだろうなと思っていた。五条が、櫟は働いていない、つまりニートだと言っていた。付き合いのまだ浅い恵ですら、出かける用事なく一日中部屋で本の虫をしている櫟しか知らない。 その櫟がいつもの奥にある和室ではなく玄関で本を読んでた。恵を、待ち構えていたのだろう。 櫟は腰を上げて、恵を手招きする。 「手当をしようか。おいで」 「………」 恵はランドセルを背負ったまま、トボトボと後ろをついて行く。五条のせいとはいえ、家に転がり込んで、衣食住全ての面倒を見てもらっている。その上面倒ごとを負わせるようなことはしたくなかったが、見付かってしまった。 気落ちした恵に気がついているのかいないのか、櫟は部屋に入り救急箱を持ってきた。 恵もランドセルを傍らに置いてその場に座る。 櫟は恵の怪我を確認し頷くと丁寧に傷に消毒をはじめる。 「大したことはなさそうだね……残穢があるけど、まぁ平気かな」 「なぁ、あんたは」 櫟は恵に何も聞かないが、玄関で待ち構えているのだがら恵に何があったのか理解している。何よりもあの五条の知り合いだ。何も知らないはずがない。 「アレを知ってるのか?アレが、見えるの、か?」 恵の問いかけに、櫟は目を細める。無言の肯定。 櫟は手当を終えると、悩むように口元に手を当ててブツブツと呟いた。 「恵はトウジの子だよな……だとすると相伝は十種影法術、だったっけ。影か……」 「とくさ?」 「とくさ、十種類という意味だよ。影を操るのが恵の能力だけど、そうだな簡単なのはやはり式神使役かな…」 「?」 何を言っているかなにひとつ分からなかった。首を傾げる恵に、櫟は手を伸ばして抱き留めた。 背中から抱き締められぬくもりに戸惑い振り向こうとするが、その前に櫟が口を開いた。 恵の前で両手を使って手遊びをはじめる。 「恵、影絵は分かるね?蟹、狐、犬」 恵もよく知る遊びだ。日も暮れ出している室内では、その影が濃く浮かぶ。恵も櫟の真似をして、蟹や狐を作って見せた。 上手、と櫟が恵を褒めて、頭を撫でた。子供扱いによる不満もあったが、それより気恥ずかしくて、そして何より凄く嬉しくて。 恵は唇を噛んだ。正面から抱き締められていなくてよかった。きっと情けない顔をしている。 「十種は……犬、そう、犬がいいかな。怖いことがあったら、影絵で犬を作るといい」 「いぬ…?」 「そう、犬を呼んでみて」 「呼ぶ……」 「大丈夫。恵を守ってくれる」 どういう意味かその時は理解ができなかった。それよりもぎゅっと抱き締められて、ふわりとお日様の匂いがして、胸がいっぱいになった。 櫟は他人だ。出会って数日の人間なのに、何故こんなにも優しく大切にしてくれるのだろう。分からない、恵にはなにひとつ分からないが、与えられる温もりに溶けたいと思った。幸せなど分からない、だったら今が幸せで、失う前にそのまま溶けてしまえたらと。 「恵ー、櫟さーん」 「ーーー此処だよ津美紀」 玄関が開く音がしてハッと恵は揺蕩っていた思考から戻ってくる。櫟が恵を抱え上げて玄関へと向かう。櫟は見た目に反して力があるようで、恵を抱いて立ち上がってもよろけたりしない。ニートなのに鍛えているのだろうか。 「おかえり」 「ただいま」 津美紀が抱き上げられた恵に目をパチクリとさせて、そして恵の手当の跡に気がつくと心配そうに櫟を見上げた。恵はその視線を向けられたくなかった。津美紀も血が繋がっていない他人だ。迷惑も心配もかけたくなかった。 「恵、どうかした?」 「……」 「庭で転んだみたい。雑草がボウボウだから足元をすくわれたんだろうね。大丈夫、大した傷じゃないよ」 「ほんとう?」 「うん。津美紀今度庭の手入れを手伝ってよ。恵がもう転ばないようにしないとね」 「!うん!」 櫟のついた嘘が、『見えない』津美紀のためへの優しだと、『見える』恵への気遣いだと、直ぐに悟った。恵は櫟の首に腕を回してぎゅっと抱きつく。櫟が返事の代わりにとんとんと優しく背中を叩いてくれた。 「それじゃあ二人とも帰ってきたし、晩御飯にしようか」 「今日は何?」 「さーて何だろうなぁ。津美紀は何がいい?」 なんでも櫟さんの料理は好き!、そう津美紀が元気よく答える。津美紀の言う通り、櫟の料理は何でも美味しくて、後に作る津美紀の料理は、櫟の味を真似たものが多かった。 |