▼  始まりへ至るため



(116×年/青海の節)





レスター同盟諸侯の東端の港町、タロム。
ゴネリル領内にあってアミッド大河の河川港であるタロム港は険しい山々に囲まれ、その規模は決して大きくない。
しかしひとたび町を歩けば活気ある挨拶が飛び交い、海を渡ってきた様々な交易品や新鮮な魚介が売買されている。
海洋を吹き渡る爽やかな東風に外を臨めば、そこにはダイヤを砕いて散りばめたように瞬く蒼い海原が広がる。
日が沈んでも夜は星が富んで明るく、一方できらびやかだった海はすべてを飲み込む真っ黒な墨へ変わる。

小さくも活気ある町を収めるのは若き町長、ルーバート=ヴァステンリユク。彼は若くして妻を亡くしている一方で、聡い一人の娘が居た。



――




白いカーテンが海風に膨らみ、手元の紙を拐わんと吹き抜ける。窓を開け放していた事を思い出しレイネは顔を上げた。
木椅子を降り、窓を閉める手は“以前よりずっと”拙い。
加えて背伸びしてようやっと窓に手の届く身長の低さにレイネは幼い容姿に似合わない含蓄あるため息を吐いた。

――レイネ=ヴァステンリユクには産まれる前の記憶がある。
胎内に居た頃の記憶ではなく、それよりも前。まるきり違う世界の、まるきり違う人生の、記憶と人格だ。

その以前までとは全く違うフォドラの未知の知識、未知の文化、未知の技術。眼前に広がる世界は全て真新しく、触れるたびに新鮮な驚きと感動をもたらした。
そうしてフォドラを知るほど――以前と比較する機会が増える。またひとつフォドラに馴染む度、かつての故郷が離れていく気がした。ふとした時に故郷を思い起こすとそれまで故郷を忘れていた事に愕然とし、記憶に縋ればその脆さに絶望する。

ゆえにレイネが羽筆を持てるようになってすぐに書き記したのは、以前までの生活についてだった。
スマートフォンのアラームで目を覚ますこと、蛇口からは水だけでなく湯も出ること、ボタン一つで洗濯を済ませる洗濯機があること、空には飛行機が飛ぶこと……。
何日も掛けて思い出せる限りを書き記し、思い出すことがあればどんな些細なことでも忘れないうちに書く。レイネの幼少期はそうして過ぎて行った。

時折、野良鳩を捕まえて文を飛ばした。
それは故郷の名を印した文であったり、時には魔道ではなく科学が発達した世界のなにげない生活を物語風に書いたものであったりした。
最後に「海辺のとある一人より」と付け加えて。
  
同じように異端な記憶を持つものを求めての行動ではあったが、レイネ自身返事が来る事は期待していなかった。どちらかと言えば薄れていく記憶を他者へ発信し、残そうとすることで不安を分散させるための行動。
実際文に返信はなく、書き手の正体を知りたがる者は――士官学校に入学するまでは、レイネの前に現れなかった。