→逃げ切れないハロウィン会話if/蜘蛛の巣の中心で






「言い訳は終わった?それじゃあ悪戯しないとね」

赤い瞳が私を見据えてすうっと細まる。前髪が落とす影から覗く双眸は妖しく煌めいて、仮装も何もしていないはずなのにどこか恐ろしい。目がそらせない。

「君は真面目な雰囲気になるとすぐたじろぐよね」

きっと認めた相手にしか向けられない丁寧な二人称と甘い声は普段接する彼とはまるで違っていて、どうしていいか分からなくなる。

「嫌なら嫌って言いなよ。やめてあげられるかは分からないけど」
「嫌」

不穏なものを感じて即答する。普段のふざけた会話で臆さず意見を言う癖がついたせいもあるかもしれない。
あまりに早い返答だったからか、タクミくんは目を丸くしたあとに吹き出した。

「早すぎだよ。まだ何もしてないのに」
「洒落にならない予感がした」
「たとえば?」
「……もういいでしょ、反省したよ。からかってごめんなさい」
「怒ってないよ。むしろ今はちょっと楽しいくらい」

逆にたちが悪い。

「前はさ、李依が僕をからかって、僕がそれに反発して……なんで僕に構うんだって思ってたけど、今なら分かるよ。
好きな人をからかうのってこんなに楽しいんだ。知らなかったよ」
「知らなくてよかったのに」
「もう遅いけどね」

伸ばされた指先が、触れるか触れないかの優しさで私の頬を撫でてゆく。ぞわりと全身の毛穴が開くような感覚に喉が引きつる。反射的に退がった半歩を逃亡の前兆だと受け取ったのか、二の腕を掴まれた。そのまま引っ張られて、前のめりに飛び込む形になる。

「わ、」

私のおでことタクミくんの胸元がそれなりの衝撃でぶつかる。痛くはない。けれど、硬さに驚く。矢を番えている時の凛とした、真っ直ぐなあの胸元。少年らしさばかりに目を向けていて気が付かなかった、確かに鍛え上げられた男性の身体。

「李依はあったかいね。……生きてるって感じがする」

戦場に生きているからか、それとも彼自身の感性なのか。反応に困っていると、くすくすと小さな笑いが降ってくる。

「借りてきた猫みたいだ」
「……にゃー」

ふざけて鳴いたら、タクミくんは本当に猫にでもするように頭を撫で始めた。髪に指を差し込んで、毛先に向かって下ろす。上から下へ、上から下へ。

「甘い匂いがする。焼き菓子でも作った?」
「作ってない、けど」
「じゃあ李依の匂いかな」
「シャンプー……洗髪剤の匂いじゃない」
「ふうん」
「えーっと……あんまり嗅がれると恥ずかしいし、熱いし、そろそろ放してもらえると嬉しいな?」

羞恥を訴えると、素直に腕から解放してくれた。密着状態から余裕ができる。前のめりからの抱擁でほとんど全身を預ける状態だったので、自分の脚で立てる安定感にホッとした。イタズラは終わりらしい。

「李依」
「うん、」

なに?と訊きたかった。開いた唇から漏れたのはくぐもった吐息だけ。
理解が追いつかない。見開いた目は、伏せがちな赤い瞳を捉えた。近い、と思った次の瞬間には気恥かしくなるようなリップ音と共に唇同士は離れていた。触れ合うだけの数秒間の光景が、感触が、熱が、ひどく鮮明に残る。
一体どういうつもりなのか。困惑の原因であるタクミくんの表情を窺おうと顎を上げる。それが間違いだった。

「ごめん」

謝罪と二度目は同時だった。思いきり身を引くけれど、後頭部に回っていた手のひらは先程まで髪を梳いていた柔らかい手つきとはまるで違う。

「んー!む、んん」

抗議の為の開口が侵食されて、自分以外の舌が口腔を奥深くまで暴こうと動き回る。歯列の内側をなぞり、逃げる舌を引きずりだそうと絡ませて。自分以外誰も触れないはずの場所が侵されていく。生理的に浮かんだ涙で視界がぼやけた。
混乱で酸素の吸い方も吐き方も忘れて、ぼうっとし始めた頭の隅で警告音が響く。これはだめだ。このままじゃだめだ。

「ん、む……っ、ふぁ、」

「っ……ごめん、李依」

ようやく離れた唇を酸欠の頭で見つめる。息を弾ませたタクミくんは微笑んでいた。

「……好きだよ」

「っ同意は、要ると、思うんですけど」

「口付けていい?」

「駄目」

「ごめんってば。その……李依に触れられると思ったら、我慢できなくてさ。今の李依、すごい可愛い」

タクミくんは頬を赤らめて、砂糖のような言葉を口にする。
初めてあった頃からは考えられない。自尊心を育てることができずにひねくれていた彼が誰かに対して素直になるということ、甘えるということ、それは大切なことなのだろう。……生きる世界の違う、私以外に対してだったら。

「ねえ、もうしないから……もう少しだけ、抱きしめていてもいい?」

「……本当に、ぎゅってするだけでしょうね」

「うん。李依を感じていたいんだ」

いつか、元の世界に帰る方法が見つかったとして。私はこの手を振りほどいて戻れるのだろうか。
彼の感情を見て見ぬふりをするにはとっくに遅く、離れるにはあまりに近づきすぎてしまった。