小説 | ナノ

  ダメなカポでごめんね


例のごとく、今年もやってきた。
この俺ジャンカルロこと、CR-5カポの生誕祭。胃がもたれるほどありったけのご馳走と気持ちの悪い賛辞の嵐が飛び交う、その場所。まさにその渦中に、今俺は立っていた。
キラキラといつにも増して、華やかに光を放つシャンデリアに装飾と花束の数々。ここに居るのが、このフロアを端から端まで占めるむさくるしいペンギンどもじゃなく可憐な花の様なドレスに身を包んだレディ達だったならどんなにか良かっただろうか。ま、それはそれで困ることもありますけども。
「ええ、この度は誠にーーー」
目の前の脂ぎった中年のふとっちょが、俺の目の前でこうべを垂れて存分に祝辞を述べる。それを右から左に聞き流しながらも、パーティが始まってからまだ10分程しか経っていないというのに俺は早くも嫌気が指してきていた。
ーーーああ、帰りてえ……。今すぐ俺のベッドにダイブして夢の世界へコンニチワしたい。
何が嬉しくて、自分の誕生日にペンギンどもとパーティとかいう嬉しくもないバースデープレゼントを貰わなきゃならねえんだ。只でさえ、ここんとこ出張続きで、疲れが溜まってるってのに。アイツらと店に集まって呑んでる時とはまるで雲泥の差のそれに、ため息も吐きたくなる。
「………」
騒がしいホールの中、俺はアイツら、と形容したその人物らの存在に目を配った。ホールのあちこちに散らばり、様々にお偉方のご機嫌取りを行っている可愛い俺の部下ども。幹部であるその四人は、皆目が回る程忙しいだろうに、そんな中わざわざこのチンケな誕生日パーティに参加してくれていた。ーーーお前をそう何度も狼の巣へ放り投げる程、俺達も馬鹿じゃないからね、そうベルナルドが言っていたのが思い出される。俺の部下達は、いつもながらに頼りになり過ぎだ。何処か誇らしい様なそんな思いになりながら部下一人一人に目を向けて居ると、丁度長ったらしい祝辞を述べ終わった男が怪訝そうに身体ごと俺に顔を近づけて来た。
ーーーうわ、近えよ……。息がかかる。
「んん、先程から上の空ですぞ。如何されましたかな、カポ?何処か、具合でも?」
やべ、顔に出ちまってたかな。なんて目敏い奴だ。俺は慌てて、目の前の現実に意識を集中させる。あまりにも退屈だったもんで、自然と脳みそがブレイクタイム入っちゃってたぜ。
男は心底心配だという顔を繕って、俺の具合を伺うべく俺の身体をジロジロとした視線で舐め回す。ねっちょりとした絡みつく様なその視線に思わず鳥肌が立った。こいつ確か、役員会に最近入ってきてたばかりで医療の専門家だと自称してるドミッツィとかいう奴だよな。実際に医者を携えている訳ではないが、トップ医療の研究者として様々な貢献が讃えられておりその業界じゃ信頼が厚いらしい。今朝の新聞では、最近医療の新しい研究に手をつけた事で波に乗ってきて、色んな界隈の奴らから注目をされているとかなんとか書かれてた気がする。なんにしても、最近入ってきて俺に近づいてくるなんて、胡散臭い奴。裏の住人の匂いがプンプンするぜ。
「いやなに、見事な話しっぷりに思わず聞き惚れてしまってね」
「ハハハ、ご冗談を」
ウン、冗談だ。アンタのどうでもいい口上なんてこれっぽっちも聞いちゃいねえ。ドミッツィが実に楽しげな笑みを浮かべるのに、俺も営業スマイル全開で返してやる。顔が離れた事に安堵していると、ホールの向かい側から波の様な人混みを掻き分けてボーイがすい、と俺の横へとやってきた。さりげなくその手にある、銀色の丸トレイの上に置かれたシャンパングラスを差し出してくる。しゅわしゅわと現れては消える泡と、宝石の様にキラキラと揺れ反射する黄金色の液体。此方を誘う様なそれに思わず喉が鳴った。
「ン、サンキュ」
お礼を言いつつ、それを右手で受け取るとごくりと一口。仄かに甘い匂いが鼻から抜け、アルコール独特の渋みと共に炭酸が一気に喉を通り抜けた。
ーーん〜〜〜ッ!誰が選んだか知らんけど、イイチョイスだ。飲みやすくて甘くて美味い。
アルコールが脳を犯して、ほわん、とちょっとばかし良い気分になる。唇を舐めると目の前にいるドミッツィが何故だか顔を赤らめた。
「ーーあ、あの……カポ…、この後ですが……宜しければ、私が所有する屋敷に食事を用意してましてね」
「え?」
右斜め上から飛んできた提案に、俺の喉から素っ頓狂な声が上がっちまう。
「ここだけの話……実は、内密に私の処が手掛ける新規開拓事業について、ご相談したい事があるのですよ」
ははあん、……成る程な。奴の言いたい事が掴めてきた。俺はシャンパンを煽りつつ、愛想笑いをしながら内心ドミッツィの言動に納得する。ーー相談、とは良く言ったモンだ。俺を自分のテリトリーに引きずり込んだ後、持て成しと称して俺に賄賂やら寄越し、その見返りにでも俺に後ろ盾に着いて貰おうとかそんなつもりだろ。
あいにくだが、俺はそんなミエミエの誘いに乗ってやる程落ちぶれちゃいないし、自分で言うのも何だが組をーーファミリーを、裏切ろうなんて気持ちはサラサラねえ。アイツらを大切に思ってるし。
ーーーつまりは、ノーサンキューだ。
「それはそれは。お誘いは光栄ですが、残念ながら今夜は予定が埋まっていましてね」
爽やかな営業スマイルでやんわりと断りの言葉を入れると、ドミッツィはあからさまに表情を硬くし焦りを表した。
「で、では、今夜でなくても構いません!どうか食事だけでも……!」
食事だけってそれ只の会食になるじゃねえか、と内心突っ込みつつ、男の必死さに異様な不気味さを肌で感じる。
「申し訳ない。忙しい時期で、他にも色々と仕事が立て込んでいまして。急を要すようであれば、此方からオルトラーニに話をつけて置きますが?」
「あ、いやーーそれは……。……私はカポに、厚い信頼を寄せる我等がCR-5の貴方様だけにご相談をしたいのです!……どうか!」
俺が折角、交渉やら相談など随所で聞き上手なベルナルドの名前を挙げたというのに、ドミッツィは尚も俺に拘り食い下がってきた。その言い様にムッとする。
「私の部下は信頼が置けないと?」
「あ、い、いや……。そんな事ではなく……!」
俺の問いに、ドミッツィはあからさまにしまった、という顔をして慌てて弁解する。取り入ってポイントを稼ごうという下心が丸見えなんだよ。
「……申し訳ないが、ご期待に添えないようです。では、私はこれで」
これ以上この事について話していても、平行線のままだろう。俺はそろそろキツくなってきた愛想笑いをキープしつつそう切り上げると、これ以上何か言われる前にさっさと逃げ出すべく身体を反転させドミッツィに背を向けた。
「そう言わず!少し聴いてくだされば良いのです……!」
「ッ、」
が、背を向けた所で腕をがし、と掴まれちまう。掴まれた腕の気持ち悪さに、ぞわりと鳥肌が立つ。と、同時に奴の図太い神経にむしろ拍手すら送りたくなった。
「お願いです……!」
ーークソ、しつこい奴だな……。
そろそろこの男に付き合うのも嫌気が指してきて、今すぐにでも俺の手からこの脂ぎった手を振りほどきたい衝動に駆られる。だが、そんな事すればさっきからさり気なく此方の様子を伺って俺に取り入る隙を狙っているペンギンどもがどんなネタにするか分かったモンじゃない。
「離して頂けませんか」
「う、頷いて下さるのなら、すぐにでも……」
ーーーンにゃろ……ッ!この、良い加減にしろ〜〜〜!
いよいよ腹が立ってきて、ドミッツィの顔を見ると、男は俺を見上げながら口元を微かに釣り上げた。確信犯めいたその表情に、俺もカポとしての威厳の為にはこのまま黙っていられなくなる。甘く見てンじゃねえ。
ーーーこの野郎、離しやがれ!
と良い加減に営業スマイルを解き勢いのままこの掴まれている手を叩き落してやろうと、口を開いたーーー瞬間。
「ーーー失礼」
落ち着き払っていながらも冷淡な声が俺の鼓膜を震わせたかと思うと、突然。俺の横に質の良いコンプレートをこれでもかと着こなした二人の男が現れた。
「なッ、!?」
「ーーーえ」
俺とドミッツィは一瞬にして、意識を其方に奪われる。予想外の展開に俺の口は何を言い放とうとしていたかも忘れて、中途半端に開いたまま固まった。
パーティ用に緑色の長い髪を後ろでひと束に纏め、黒縁眼鏡の奥の瞳を細ませた細身の男と、貴公子のような紫色の髪を靡かせ上から下まできっちりとコンプレートを着こなした男ーーーいちいち認識を示さなくとも分かる、ベルナルドとジュリオだ。俺の愛すべき忠実な部下であり、最も信頼を置く幹部である。
ーーーなんて、タイミングで来てんだよ……!
「ぎぇっ!?」
「うお……ッ」
予想だにしない登場の仕方に驚いていれば、次の瞬間ジュリオがドミッツィの腕を捻り上げた。ドミッツィの手は呆気なく俺の腕から引き剥がされ、その痛みにより気持ち悪い潰れた蛙のような声が響き渡る。
「あまり勝手はなさらない方が身のためですよーーードミッツィ氏」
痛みに呻くドミッツィに今度はベルナルドが耳元に近づき、ボソリとそんなセリフを吐き捨てた。ヒッ、と小さく悲鳴を上げたドミッツィの顔に、ありありと恐怖の色が滲む。
「ぃ、ぎ……っ!も、も、申し訳ありませ……もう二度とこ、このような失礼は……!」
まさに、蛇に睨まれた蛙か。ドミッツィはさっきの態度は何処へやったのか、必死に謝罪の言葉を巻くしたてながら許しを請った。そんなドミッツィを見て、冷めた表情を浮かべたベルナルドは、ジュリオとアイコンタクトで会話をする。
「………」
それを正しく受け取ったジュリオは、少し残念そうに捻り上げていたドミッツィの腕からパッと手を離した。
「ひ、ひぃいッ!し、し、つれいします………!」
二人の男からの威圧にがくがくと震えているドミッツィは、それが行け、という合図だと瞬時に理解すると、悲鳴を上げながら脱兎の如くホールから逃げ去って行った。
しん、と凪いだ波の様なそこには、ベルナルドとジュリオと俺だけが残る。俺は、ホッと息を吐いた。
「ーー大丈夫でしたか、ジャンさん?」
「気づくのが遅れてすまない。何ともないか?」
俺の腕に心配そうな視線を向けたベルナルドとジュリオが、焦りを滲ませつつ同時にそう尋ねてくる。
「ン、イナフだ。ーーブ、ふ、ははッ…………!さっきの凄えスカッとした!ありがとな、ベルナルド、ジュリオ」
最初のドミッツィの得意げな表情とは打って変わって、冷や汗をかき怯えたネズミのような有様だったあの表情を思い出して、笑いが止まらなかった。
ーーーあのカオ…!いつ思い出しても笑えるって。もう一度見てえ。
腹を抱えて笑う俺に、ベルナルドとジュリオは何処かホッとした表情になって笑みをこぼす。
「全くーードミッツィ氏は良い度胸してるな。少し立場を分からせてやるか……」
隣で、俺達だけに聞こえるようにベルナルドがイタリア語で小さく囁いた。穏やかだったベルナルドの表情はすぐに、凍てつくマフィアの筆頭幹部のものになる。
「マア、怖い。……手加減してやれよ?」
にや、と悪戯を企む子供のような笑みを向けると、こちらを見た眼鏡の奥の瞳がすう、と細まった。
「心配しなくても、明日から外を歩くのが怖くなる程度で済むさ。ーー歩けるかどうかは、……分からないがね?」
それってどういうことですかね。
と、聞かなくてもベルナルドの表情で全てを察した俺は、これからベルナルドからのネチネチした報復を受け続けるだろう事が安易に予想できて苦笑いが漏れる。あらら、ベルナルド結構怒ってるぽいワ。普段が温厚なだけに、怒ると怖いんだよな……ドミッツィご愁傷様〜〜。冷淡に笑うベルナルドを見ながらドミッツィを少し哀れに思った。
「それより、あの男……何だってお前に迫ってたんだ?」
「……ああ。二人だけで新規事業のハナシがしたいからって家に誘われたんだよ」
「家に?」
そう言うと、途端にベルナルドの顔が曇る。
「ああ、食事だけでもとかしつこくてよ。何をそんな相談したいんだかねえ」
全く、ああいう連中が居るから、やりづらいったら。と、言えば、ベルナルドは何かを思い出したのか、信じがたいモノが目の前にある様な顔で俺を見たが、結局何も言わず俯いて何かを考え込み始めた。
ーー何だ?ベルナルドのヤツ……?
「おおい、ベルナルド?」
変な態度になったベルナルドの顔の前で緩く手を振ると、ベルナルドはハッとして慌てた様に周りと俺を一瞥した。
「あ、ッ……すまない。何だった?」
その態度に些細な違和感を感じつつも、まあいいかと俺は話を続ける。
「大丈夫かよ、連日電話の王様してた所為で疲れてるだろ?」
ここ数日は、株の変動やら予期せぬ事態がいくつもあり、ベルナルドはほぼ電話の側を離れる事が出来なかったと聞いて居る。心なしか痩せこけたようなその身体を見つめ心配していると、ベルナルドはそんな俺に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「いや?ジャンと話せば俺は、いつでも元気だよ?ーーどこかを飛び回っていた訳でもないしね」
嘘つけ。そんな事言ってても、アンタの眼の下にこびりついた酷いクマ見たらバレバレだっつの。ワーカーホリックなこの男は、今までどれだけ休んで無いのか。想像するだけで、不憫だ。
このパーティが終わったら、コイツをなんとかして休ませなきゃな。ウン。
「あんま、無理すんなよ?」
「ああ。それより、ジャン。ーーあの男には、気をつけろよ………」
「え、」
急にベルナルドが真面目な顔をしてそう言ったので、どういう意味だと聞こうとしたその時。
「ーーーあ、あの、それ……」
ジュリオが俺の横に立ち話しかけてきた。あっ、とベルナルドに視線を移すとベルナルドは小さく手を振ってまたホールの海へと戻って行ってしまった。
ーーまあ、いいか……また後で聞けば。
ベルナルドの言った言葉が少し気になりつつも、俺は気をとり直してジュリオを向き直る。
「ああ…スマン、なんだ?どした、ジュリオ?」
「あ、いえーーーその、シャンパン……どうでしたか?」
ジュリオが俺がずっと手に持っていたシャンパンを指差した。さっきボーイが持って来た、凄い美味いヤツだ。
「え、ああ……これ凄え美味くてーーーって、もしかしなくてもこれジュリオが……?」
そう問うと、ジュリオは少し恥ずかしそうに視線をさ迷わせた後静かに頷く。ちら、とグラスに視線をやると、今だにしゅわしゅわと上下する泡と花畑に落ちたような甘い香りが漂っていた。
うおお、マジか……道理で美味すぎると思った……。
「ボンドーネ家にある物で用意したんですが、少しでもジャンさんの息抜きになればと思って……。役員会が用意した酒など、得体が知れないですからーーー」
おま、ジュリオ……!なんて出来る子かしら……。あの時ボーイが来たのは、さり気なく俺の様子を気遣ってくれてたのか。ジュリオの優しさに胸が熱くなる。
「そうか……、ありがとな、ジュリオ。おかげで、表情保つの大変だったぜ」
イイ意味で。言ってから、またシャンパンを一口煽って笑う。
「い、いえーーー良ければ、あの、もっと良い物が、貯蔵庫に」
「ん。また今度頼むかも」
「あ、は、はい……」
ジュリオのとこの酒美味しな、と言えば、ジュリオは飼い主に褒められた忠犬の如く尻尾を振って嬉しそうに顔を綻ばせた。
ーーよしよし、可愛い忠犬め。
恐縮するジュリオの頭を撫でていると、パーティの奥から熱い視線がこっちに注がれているのに気づいた。俺はそこにいた人物らを見て、苦笑いを浮かべる。
「ーーっと、ジュリオ。そろそろ客の相手しに行こうぜ。……ルキーノとイヴァンが、こっち睨んでるし」
「あ……そう、ですね……」
ホールのかなり向こうの方にお偉方の相手に手一杯になりながらも、こっちを睨んでいるイヴァンと、ルキーノが見えた。うわあ、機嫌悪そうだコト……。俺達がこっちでなんやかんややってる間、ずっとホールで面倒臭いペンギン共へのフォローをやってくれてたらしい。ベルナルドとジュリオが俺のところに来た所為で、忙しくホールを動き回っている。俺達に向かう視線が、事が済んだならさっさと戻って働け、と告げていた。押し付けちまってて、正直すまん。
「ハイハイ、今行きますよーっと。ーー行こうぜ。ジュリオ」
「あーーーはい」
隣に居たジュリオに声をかけ、俺達はまた誕生日パーティという名の戦場へと乗り出した。
話を終えてジュリオが離れていくと、俺がフリーになったのを瞬時に察したペンギンオジさんどもは、待ってましたとばかりにぞろぞろと近くに寄ってくる。ワァオ、今日は長い一日になりそうだ。


パーティが始まってから、暫くして。客人は皆酒が回り始め、一通りの挨拶も受け取った中盤という頃合い。俺は目の前にいるお偉い役員の自慢話からようやく解放され、皆酒に呑まれこっちを見ていないのを良い事に少し休憩しようとしていた。
なんせ、始まってからずっと立ちっぱなしに愛想笑いの連続だ。流石に疲れたヨネ。
俺はずっと手に持っては代わる代わるボーイに変えさせられていたグラスを、近くのテーブルに置く。
「ーーー、っと」
俺はさりげなく酔った風を装って、人波を避けながらホールの端にある窓辺へ近づく。そしてそのまま、外のバルコニースペースへ繋がっているドアの前に寄っ掛かった。ガラス張りな窓で、室内からバルコニーは丸見えだったりするが、もう日が落ちて辺りが暗いしそこに出ても気づかれないだろう。
ーーー誰も見てねえよな。
そっと誰もこっちに視線を寄越していない事を確認してから、ゆっくりと背後にある扉に手をかけ静かに開閉すると、広々と男女がダンスが踊れる程の余裕があるバルコニーへと出た。
「ーーっ、ふう」
途端に流れてきた少し冷たく新鮮な空気と見つからなかっただろう事への安堵に自然と息が口から漏れる。
ーーあー、凄え清々しい。緩く頬を撫でる冷たい風が気持ちイイ。
緩いサウナのような気持ち悪い空気が漂っていた室内から出られた開放感を存分に味わいながら、数十歩先にあるバルコニーの端の手すりまで歩くと、その白石の手すりに身体ごともたれかかった。
「あ………?星、見えるなあ」
なんとなく上を向くと、雲と木々に隠れて輝く小さな光がキラリ、と見える。ギラギラと都会ならではの街の明かりが強いせいで、それらは見えにくいが弱いながらも幾つも目に捉える事が出来て、デイバンでも星なんか見えんだなあ、とぼんやり思う。
口からふう、と息を吐くと、それが白く目に見える様になっているのに今更気づいた。なんだ、いつの間にかこんな寒くなっちまってたのか。
「………、」
その白い息が、煙草を吐いた時に出る煙を連想させて、俺は無性に煙草が吸いたくなってきた。欲のままにコンプレートの裏側のポケットを探るが、そこには煙草の一本も入ってない。どっかに一本ぐらい……、と他のポケットも探るが、煙草どころかライター一つも入っていなかった。
「ありゃ」
ーーーそういや、このコンプレート……今日の為にって用意したヤツだったっけ……。そりゃ、財布も入れ忘れる俺が、律儀に入れ替えてるワケねえよなぁ……。ガックシ。
「ーーーこら、何してやがる」
肩を落としていると、不意に背後から男らしい声が掛かる。背後を振り向くと、呆れたような少し怒ったような顔をした、幹部第二位の頼れる部下ーーー今だに俺よりカポらしい佇まいをしたルキーノ・グレゴレッティが立っていた。ありり、気づかれちまったい。相変わらず目敏いな。
「ルキーノか。……煙草探してたのヨ」
「ーーーああ、そうか。って、そうじゃねえよ。勝手に抜け出すな、心配しただろうが」
言いながら、ルキーノは俺に近づいて来てコンプレートの裏側からシガレットケースを取り出すとそこから一本抜き取り、俺の口元に差し出した。それを唇で挟むと、ルキーノがポケットから取り出したライターを擦り煙草にじわ、と火をつける。
「ーーン、……スマン」
すう、と空気を吸い込むと、待ち望んでいた煙草の味が肺一杯に広がった。麻薬と似た成分が脳に刺激をもたらすと、その快楽に、欲がじわりと満たされる。ふう、と息を吐くと、さっきの白い息より鮮明な煙が現れて、ゆっくりと消えた。
「後5分で戻るからな。役員共がお前を探して…………ああクソ。美味そうに吸いやがって」
腕にハマった豪華な時計を一瞥したルキーノはそのまま説教を垂れようとして、俺の咥えている煙草からふわりと香ってきた独特の匂いに妬ましそうに顔を歪めた。
「アンタも吸えば良いだろ?」
拗ねた子供のような態度が可笑しくて笑っちまいながらそう言うと、ルキーノは堪らず手に持っていたシガレットケースから煙草をひとつまみして、咥えたそれにライターで火をつけた。
「………ふう」
俺のすぐ横で、ルキーノの満足そうな吐息と煙が吐き出されたのが分かる。
「…………」
夜空の煌めきと暫くの心地よい沈黙に、さっきまでのストレスも端から抜けて行くかのようで、自然と俺の口元に笑みが灯った。
ーーはー、ウマイ。この澄んだ空気の中、こっそり抜け出して極上の煙草でカンパイ。ーーーなんて、最高だ。
「………なぁに、ニヤニヤしてやがる」
ひしひしと充実した状況を楽しんでいると、横目でこっちを見ていたらしいルキーノが呆れた顔をして緩く俺の頭を小突く。
「ンフフ」
俺はその問いを笑ってかわしながら、やっぱり勿体無くてそうそう言えねえな、なんて思った。
「そういやジャン……お前、さっきあの男に捕まっていたようだが、何だったんだ?」
「ん?」
不意に話が変わったかと思いきや、そんな問いが降ってきて、俺は小首を傾げる。
ーーあの男って誰だっけ?俺に寄ってきていた男なんてそれこそ星の数ほど居て、いちいち覚えていられるワケが無い。捕まった回数もまた然り。
思案していると、俺の表情を目敏く読み解ったらしいルキーノが確か、と小さく呟いた。
「ドミッツィ、とかいう野郎だったか?」
ああ、アイツか。俺にしつこく縋り付いてきた肥えた男。記憶からとうの昔に葬り去った筈の人物に、さっき起きた出来事が思い出された。俺は煙とともに小さく息を吐く。軽く事のあらましを説明すると、ルキーノは何故か納得した様に小さく頷き、眉間に深くシワを刻んだ。
「……なるほどな、そういうことか。ーー確か、俺が前に会合で鉢合わせた時だったか……、あの男にお前の事を根掘り葉掘り聞かれた事があったぞ」
「え、」
思いもよらない発言に、俺は完全に不意を突かれる。思わずポカン、とそっちを見ると、難しい表情を浮かべた顔とかち合った。
「勿論、何も言っちゃいないが………お前に話したい事があるから、是非会いたいとかそりゃ熱心に言ってたのを思い出してな」
「……えええ、何だよソレ…」
じゃあまさか俺と話す為だけにアイツここまで参加してきた、なんて事だったり……?ーーーいやいや、まさか。
お粗末な考えが生まれてきて、それを振り払うかの様に頭を振る。でも、あのしつこさは確かに目に余るものだった。さっきのねっちょりとした薄気味悪い笑いが思い出されて、背筋が寒くなる。と、同時に妙な腹立たしさも感じて、俺はつい唇を尖らせた。
「……なら、そっちで上手くあしらっといてくれりゃ良かったのによう」
そしたら絡まれずに済んだのに。なんて、勝手な言い分を放つと、途端に呆れた表情になったルキーノに軽く頭を小突かれた。
「ーーー阿保抜かせ。そこまで面倒見きれるか」
ハイハイ、分かってますヨ。只でさえ、毎日東から西へと移動する勢いで下手したら俺より忙しいだろうこの男だ。まあ、こんな”ちょっとした事”に首を突っ込んでいられる程、暇じゃないですよね。
「ま、もう絡んで来ねえだろうから良いけどな」
ふう、と煙を吐き出すと、ちらりと視線がこっちを見てすぐに逸らされる。
「ーーだと、良いんだがな……」
ーーーそれって、どういう意味だよ?
意味ありげに放たれたその言葉を問いただしたかったが、ルキーノの横顔は妙に真剣で、中途半端に開いた口からは何の言葉も出て来なかった。
そんな沈黙が数秒あって。
「………、もう時間か。そろそろ戻るぞ、ジャン」
「ン、ああ」
袖を捲り腕時計の時刻を確認しそう切り出したのを合図に、俺たちは煙草を揉み消して騒がしいホール内へとーー戻るのだった。


それから暫く俺は、ホールに戻るなり目敏く俺たちを見つけ新鮮な獲物に群がるハイエナの様に寄ってくる酒臭い連中の相手に追われていた。縁談話を持ち込む輩。最近の情勢に花を咲かせる者。次から次へとゴマをすりにくる男たちーーパーティは終盤に差し掛かろうというのに、それらは一向に収まる気配は無かった。
「ーーー此方をどうぞ」
ホールに戻ってからというもの、俺に酒を持ってきてくれていたボーイが、俺のグラスが空になったのを見計らってまた酒を勧めにくる。パーティが始まった時に俺のところに来たボーイとはまた違う男だか、きっちりとホテルの制服に身を包んでいた。
「ああ、すまねえーー」
それを受け取り、また酒を一口煽ると、胃が針にでも刺されたような鋭い痛みが走る。空きっ腹に酒ばかり入れていた所為か、さっきから俺の胃はキリキリと悲鳴をあげていた。不意に来たその痛みに俺は妙な違和感を覚えーーー
すぐ傍にあるテーブルにずらりと並べられた目移りするほど豪華な料理の数々を一瞥する。俺の誕生日の為に用意されたそれを、招待された客人達は全て平らげる勢いで食していた。一口食べれば胃もたれするほど脂っこく、汁が滴るほどてろりとした熟成肉や新鮮な色合いのつやつやな野菜。普段なら目の前にそんなご馳走があればすぐにでも口に入れたところだろうが、今の俺にはそんな気分は更々無くーーーただ異様な不快感が胃から喉元まで押し寄せてきていた。
ーーなんでだ?さっきルキーノと話終わって、此処に戻ってくるまでは何ともなかったのに……。
「ーーいやあ、これは何とも素晴らしいですな」
そんな事を思っていると賞賛に満ちた台詞を吐きながら、俺と目の前で会話真っ最中の男が皿を片手に料理を口へと運ぶのが目に入ってくる。それをシャンパン片手に眺めつつ、俺は必死に眉を寄せないよう愛想笑いを取り繕った。
ーーう、うう。気持ち悪い……。
こうして目の前で食べられるのはかなり不快だ。辺りに漂う料理の濃厚な香りでさえ、嗅いだだけで吐きそうになる。胸やけにも似た気持ち悪さが現れてきていて、俺は額から汗が止まらなかった。
ーーー今日はパーティの準備やら月末のあれこれやらで、忙しかったからな……そういや、朝ちょっとサンドイッチを一切れ摘んだっきり、パーティが始まってからも何も口にしてないような……。ーーああ、オイ。ベルナルドの事言えねえぞ、俺。
何てこった、と俺は心の中で一人自己嫌悪に陥る。今から何か口に入れようにも、この気持ちの悪さの中食べるなんてとてもじゃないが無理だ。こんな事ルキーノに言おうものなら、自己管理がなって無えなとかどやされるよな……。
「カポも如何ですかな?」
そんな最中、肉を頬張っていたさっきの男が、テーブルに並べられた料理達を指差してにこにこと俺に薦めてきた。
「ッ、いえ……俺はもう、お腹一杯ですので」
言いながらもわりと漂ってくるソースの芳醇な香りに、顔を顰めそうになるのを必死に抑える。明らかにさっきより吐き気が強くなってきていた。俺は思わず、口元を手で押さえる。
「ーーー申し訳ない。ちょっと失礼」
ーーやべ、気抜いたら吐く……。
「え、カポ……!?」
いよいよ苦しくなってきてグラスも放置し目の前の男も押しのけると、俺はホールの入り口に向かって歩き出した。男は慌てたような声を出すが、構っていられる状態じゃない。今は一刻も早く、この体調をどうにかしたかった。
すると、後数歩でホールを出る扉だという時に、背後から声がかかる。
「オイ、ジャン!?何処行きやがる!」
「ッ、イヴァン………」
そこに居たのは少し怒っているような俺の可愛い部下ーーーイヴァンで、俺を見るなり不機嫌そうに顔を歪めた。勝手に抜け出すんじゃねえ、と顔で訴えているその男に、俺は顔の前に手をやり謝る。
「スマン、ちょっと後頼むわ」
「ああ?………チッ。ーーーしゃあねえな……、すぐ戻ってこいよ!?最後の締めに主役が居ねえんじゃハナシになんねえ」
怪訝な顔をしたイヴァンだったが、俺がイヴァンだけに見えるようにそっと体調の悪さを訴えると、渋々という感じだが許可してくれた。時計を見、ため息をつきながらぞんざいにさっさと行け、と手を振られる。イヴァンらしいそれに感謝しつつ、俺は扉を開けて、廊下を少し歩いたところにある化粧室に足を運んだのだった。

「ーーーッ」
化粧室への扉を開けると、俺は堪らず洗面台に手をつく。化粧室に着くころには、俺の体調は更に悪化していた。
異様な吐き気とめまい、頭痛。それに立っていられない程の脱力感が俺に襲いかかる。
ーーー気持ち悪い……なんだこれ……。ぐらぐらする。
ついに俺は洗面台から滑り落ちるように、重力の赴くまま地面にうずくまった。
「う、うッ……ぐ……」
そのまま身体を全く動かせ無くなる。
ーーーおかしい。こんなに急に体調が悪くなるなんて。クソ、なんでだ……?
たった数時間かでこうなってしまった、その不自然ななにかが妙な違和感を生み出していた。それが何なのか分からず、俺はぐるぐると思考の沼にハマる。しかしそんなことも生理的な反応には敵わず頭から追いやられた。
「は、は、う………ッ」
吐きたいのに、動けない。それにどんどん身体が熱くなってくる。
あつい、苦しい。
どうしようもなくて、俺は必死に吐き気を抑えるように荒い息を整えるしかなかった。
マズイ、こんなところをパーティに参加している連中に見られでもしたらーーー

ガチャリ。
そんな事を思考の隅で考えて入れば、俺の考えを見透かしてからかうかのように、入り口の扉がゆっくりと音を立てて開いた。
ーーーは?!
俺は思わず、身を縮こませ固くする。ギギ……と嫌な音を立てて開いた扉から現れた人物に、俺は目を見張った。
「上手くいった……のか?ーーふ、へえ」
誰に言うでもなく小さくそう呟き、ニタァ、と口の端を吊り上げ気持ち悪い笑みを浮かべた目の前の男は、見間違えるはずもないーーー
俺に食事でもどうだとしつこく迫ってきたあの男、ドミッツィだった。
「ッ……!?」
俺は驚きのあまり声も出せずにその場で硬直する。
ーーーマズイ。こんな情けねえ姿を役員会の一員でもあるコイツに見られちまった。
弱みを見られたという最悪の事態に、俺は背中に冷たい汗が流れるのを感じる。しかし、化粧室でCR-5カポがうずくまっているというこの事態に、ドミッツィはさして驚いた様子もなく当然のように入ってきた。コツコツと良い革靴の音を鳴らして、俺の目の前まで来る。ギク、と男をゆっくりと見上げると、奴は俺をじっくりと見下ろし何故か感動したように身体を震わせた。
「ああ……本当に……っーーーなんて素晴らしい!こんなに容易く、貴方が手に入るなんて………っ」
「え、な、ッ、ーーーは!?」
何言ってやがんだこいつ!
俺は訳が分からなくて、でもとりあえずコイツから離れた方が良いとどうしようもないだるさを抑えつつ後ずさりする。
「あっ……またそうやって逃げるのです?ーーーだけど、今度は逃がしませんよ」
言うなり、ドミッツィの毛深い腕が俺の腕をがっしりと掴んできた。そのままぐい、と引っ張られ、ドミッツィの顔が数センチのところまで近づく。
「わッ!?」
「ふ、ふふーー貴方はもう、カポとして終わりだ。今から、私のモノになるの
ですから」
突然の事に俺の頭はパニックに陥った。は?とか何を喋ってるんだこいつ?とか、そんな事しか頭に浮かんでこない。いや、俺の脳がその言葉を理解する事を拒んでいた。顔を近づけられると、体調のせいか、目の前で息を荒くしている男からかわからない気持ち悪さやめまいが波のように襲ってくる。この男の行動に少しも抵抗できない状態の俺は堪らず掴まれていない方の手で口を抑えた。
ーーう、う……ッ、なんで、こんな……ッ!
「ーー随分と体調が悪そうですな。まあ、私が仕込んだのだからそうでなければ困る」
「ーーえ……?、……ッぐーーな、っ……んだと……?」
サラッと衝撃的な告白をされたような気がして、ぼうっとしている頭を必死に働かせ考えようとする。
ーー今、こいつ、なんて言った?私が……仕込んだ……?何を?どこに……?
「普通に考えて、パーティが始まってから快調だった貴方が、急に体調を崩すなんておかしいでしょう?ーー私がやったのですよ」
まるで自分がやった事は素晴らしいのだと、そう言っているかのように愉しげに笑いながらその行いを誇示する。
「は、あ……?どうーーやって……」
俺は必死に呼吸をし、吐かないように努めながら男にそう問うた。男は、小さく息を吐き言葉を紡ぎ出す。
「そう……あの時。パーティから追い出された私は、部下の一人にここに来るように命じた。そして、言われるままやってきた部下にこう言ったんですよ。『ーーボーイになりすまし、カポに薬品入りの酒が入ったグラスを渡せ』とね」
「ッ、!」
俺は目の前で口の端を吊り上げて笑う男を見ながら、何か、意味のあるものがフラッシュバックするのを感じた。バルコニーから戻った時、ボーイの制服を着て俺に近づいて来た違う人物。
ーーまさ、か………
「私は職業柄色々な薬品が簡単に手に入りますからね。ボーイを脅して服を剥ぎ取った部下に、ちょっとした作用が起こる薬を渡せば、後は上手くやってくれましたよ」
俺は驚きに目を見開く。ーーそうか、そういうことか。つまり、俺がバルコニーからホールに戻った時、俺に寄ってきたボーイはドミッツィの手下。そして、あの時渡されたシャンパンには薬を混入させられていた。俺はそれを知らずに呑んでーーああ、そう。この有り様かよ。ファック……ジュリオがくれたあの時の酒が美味かったもんで、ジュリオが用意したやつだと思って完全に油断しちまってた……。あの時、ベルナルドが言っていた意味深なセリフの意味が今ようやく理解できて、その事に舌打ちをかましたくなる。
「クソ、こ、の……下衆野郎…が!」
黒い笑いを零す男を睨み、俺はそう吐き捨てる。逃げるために立ち上がろうにも、全く身体に力が入らなかった。
「その目……凄くそそりますよ……。私の手でそれを歪められたら、どんなに心地良いかーー」
ドミッツィは俺を見て、何処か興奮して気持ち悪い声でそんなことを呟く。そのあまりの気持ち悪さにぞわり、と鳥肌が立った。ただでさえ気持ち悪さで体調が悪いっていうのに、コイツのせいで更に気持ち悪くなってるぞ。
「ぐ……、ッ……アンタ、何が目的なんだ、よ……」
息を詰めて吐き、を繰り返しつつ、俺は男に問いかける。ドミッツィは俺の言葉に一瞬不意を突かれたように固まってから、あっけらかんとした口調で言い放った。
「目的ーーーそれは、貴方を手に入れる事ですよ」
俺はその言葉に呆れたため息が漏れる。
「はぁ?……なに、俺を手に入れてCR-5を利用しよう、ってか?」
「違います。そうではなく、単純な事だったのですよ」
そう言うと、ドミッツィは実に楽しそうなに何が可笑しいのかクスクスと笑った。
「……遠くから拝見してからというもの、貴方の事が頭から離れなくなりました……。いつも貴方のことばかり考えていた」
「っ、」
喋りながら、ドミッツィの指が俺の頬をゆっくりと撫で顎のラインをなぞる。俺は反射的にその不快感から逃れるように身体を反らした。ドミッツィはその行動に少し残念そうな顔をする。
「貴方と言葉を交わしたことはありませんでしたが、今日確信しました。貴方は、誰もが魅了されるなにかを持っている」
何トチ狂ったコト言ってんだ。ーーー何か、だって……?知るかよそんなの。
そんなドミッツィの発言よりも、抗えない今この状況にーー俺は、背中に流れる冷や汗が止まらなかった。誰がどう見ても、この状況は悪い。俺は小さく息を吐く。
「ッ、」
誰もこの化粧室に入ってこないのを見ると、さっき言ってたボーイになりすました
こいつの部下が人払いしてるんだろう。動かせない身体に密室空間で敵と二人。冷静に考えても、この状況から抜け出すのは容易じゃなさそうだ。監禁、拉致、殺人……と穏やかじゃないワードが俺の頭の中をぐるぐると巡って、その不明確な未来に恐怖が湧き上がってくる。
「しかし、貴方はそれを無自覚に振りまいてしまうでしょう?その所為で、華である貴方の周りには煩い蜂が飛んでいる。……貴方の蜜をひと口吸おうとしてね」
男は忌々しそうに俺から手を離すと、まるで番人のように佇んでいる重々しい扉を睨みつけた。薬の所為で意識がぼんやりしている俺は、ドミッツィが言っている意味を深く理解する気力もなく黙って息をするしかない。
「私はそれが許せないのです。貴方を味わうのは私だけで良いーー貴方を私だけのモノにしたいのです」
そう言って、ドミッツィはそういう役者かなにかのように手を胸に当てうっとりとする。
「イミ、分かんね、え……」
分かりたくもねえ……。吐き捨てるようにそう言うと、ドミッツィは見ているだけで嫌悪感が湧く顔でクククと笑った。
「ーーこれから分からせてあげますよ。私の屋敷でじっくり……ね?」
「ッ!やし、き……」
その言葉に朦朧としていた意識が、突然に戻ってくる。頭の中に屋敷まで拐われたりこの男に好き放題扱われるイメージが一気に湧き上がってきて、背筋が凍った。
ーー俺、どうなるんだ?
「……お喋りもこの辺にして。さあーー私と、行きましょうか」
まるで死の宣告のようなそれにゾクリ、とした恐怖が襲ってくると同時に俺は小さく息を吐き、衝動の赴くまま静かに目を伏せた。
「っ、はぁ……」
銃もナシ、味方は近くに居ねえし、身体は動かない。こんな状態じゃ、どうせ逃げられっこねえ。なんせ状況が悪すぎる。抵抗したところで、銃を突きつけられて脅されでもするのは目に見えてるし………ウン、諦めも肝心だよネ。
「く……は、……」
さっきまで俺と一緒にパーティに出て、言葉を交わしていた可愛い部下共の顔が浮かんできて、胸が締め付けられる。ーーーベルナルド、ルキーノ、ジュリオ、イヴァン……。俺の可愛い馬鹿野郎ども。俺にとって、どうしようもなく大切で……かけがえがない俺の部下。
……よくよく考えたら、今日アイツら俺の事気にかけてくれてたんだよな……。ベルナルドとジュリオは俺のピンチにすっとんで来てくれたし、ルキーノは俺が一人にならないようにしてくれたし、イヴァンは俺の体調を気にかけてくれてた。なのに、今気付くなんて。
本当なら俺がアイツらを気にかけてやんなきゃならなかった。なのに、俺って…情けねえ。
アイツらの上司失格だ。
あーあ、これが知れたらアイツら慌てるだろうな。組織にも迷惑かけるし。親父や、カヴアッリ爺さんにも。それから、それから………………
…………………、
「…………スマン」
出来の悪いカポでごめんな。
朦朧とした意識の中でそんな事を考えながら、俺の顔に向かって伸びてくる大きな手をぼんやりと見つめていた。手の影が顔に落ち視界を遮断するその間際で、俺は届く筈もない言葉をポツリと呟いたのだった。





「……………」
暗い暗い海の底。静寂が広がる空間。その中で、俺の身体はただ重量に従って沈んでいく。………冷たい。苦しい。身体が石のように重い。必死に目を開けても、水中だという事ぐらいしか確認できない暗闇の中ーー何かに押しつぶされそうな感覚だけが伝わってくる。それから逃げ出したいのに、俺の身体はピクリとも動かなかった。
ーーなんで海の底に……。俺、どうしたんだっけ?………。というか、俺は……誰だ?
………思い出せない。
思い出そうとすると、頭の中に黒いもやのようなものがかかっているような感じがしてそれが記憶を掘り返そうとするのを阻んでいた。
「…………」
それでも粘ってみるが、やはり上手くいかない。そうして考え込んでいるうちに、すぐに眠気が襲ってきた。
ーー眠い……。凄え眠い………。ああ、だめだ………。もう、記憶なんてどうでもいい……。今はただ眠りてえ……。
一旦うとうととし始めると、そのうちに瞼が閉じ何も考えられなくなり俺の思考はいつの間にやら完全にストップしちまう。あまりにも強烈な睡魔に勝てず、俺は欲望の赴くまま睡眠の心地よさに身を任せた。
ーーそうして正に、眠りに落ちる刹那。
「ーーーン……!」
俺の耳に微かに誰かの、人の声が届いた。必死に叫んでいるようなーー今にも泣きそうな声。ここは海の中の筈なのに。
ーーん、誰だよ……、眠い……寝かせてくれ。
「……おい……!……きろ!……なあ!」
ーーだから……眠いんだって。良く聞こえねえし……何言ってんだよ?
「……、さん……ッ!お願い、します……!眼をーー」
ーー眼?眼がなんだって……?それに……なんでこんな、泣きそうな声ーー
ぼやけた頭の中でそんなか思いながら微睡んでいれば、今度は俺の身体が宙に浮いたような感覚に襲われる。水中なのに。
異様な浮遊感を不思議に思って、思わず目を薄く開くと途端に、目が眩むほどの光が辺りを包み込んだ。暗闇に唐突に現れた光に眼がチカチカする。眼を瞬きながら顔を顰めるとただでさえ大きかった光が輝きを増して、目も開けていられないほどになった。
「ーーっ」
眩しーーーー
そう思った瞬間。俺の視界は思考と共に真っ白に染まった。



「ーーー、ン……」
意識が俺の身体へと戻り自然と瞼が上がったとき、ぼやけた視界で最初に見たのはギラギラと輝き辺りを照らす光だった。
ーーー……?……あれ、なんだっけな……。なんか俺、夢見てたような……。ーーあー、そうだ……なんか急に眩しくなって……。
「………」
覚醒していない頭でうっすらと辺りを見回すと、険しく今にも泣きそうな顔でこちらを見ている男たちの姿があった。
あれ、……これ夢け……?まだ俺、浮いてる……。つーか、なんでこいつら……。あれ、俺は一体どうしたんだ?
「あーーージャンッ!」
「ッ!ジャン、さん……っ!?」
「くッ……ジャン……ッ!この、カヴォロ!」
「なッ、ジャン!?この、ッ……ファック……!」
そんな事を考えていると、男たちの様々なな叫びが俺の耳に届く。そうして、ハッとーー唐突に、記憶の扉が開き、パーティで起こった出来事や男たちの顔の記憶が一気に蘇ってきた。
ーーッ、そうだ、俺……、ドミッツィの奴に捕まって……。あの時のドミッツィの気持ち悪い笑み。俺の頬に触れた生温い手。痛む身体。嫌な記憶が再生されて、全身がぞわりと粟立った。と同時に、ぼんやりとしていた頭が覚醒して、辺りの景色もクッキリとしてくる。ベルナルド、ルキーノ、ジュリオ、イヴァン……奴らが、雁首揃えて思い思いの表情でこちらを見ている。ばかやろーーいつもあんな頼もしい奴らが揃いも揃って、捨てられた犬みてえな酷いツラ、しやがって。あの時、俺が気を失う瞬間考えていた……俺の部下たち。ーーそっか、俺……助かったのか。途端。熱い気持ちが込み上げてじわり、と涙が滲む。感極まって俺の口からは自然と言葉が溢れ出た。
「はは……っ……なんだよ、おまえら…………んな、カオ……すんなよう……」
へら、と笑いかければ、慌てたように男たちが慌てて一斉に俺の周りに集まり守るように囲む。俺はジュリオにお姫様抱っこをさせられているというカポにあるまじき情けない格好のまま、その光景をどこか懐かしく感じていた。俺を強く抱きながら、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で俺を見下げてくるジュリオが、笑った俺の顔を見て真っ先に言葉を発する。
「ーージャンさんっ……!良かった……、俺、俺……もしこのまま目覚めなかったら、って……」
くしゃりと歪められた顔や、痛いほど強く力を込められた指先から、相当心配かけちまったんだと痛いほど伝わってきた。
……あーあ、美形が台無しだな。
「……心配かけてごめんな、ジュリオ」
細かく震えるジュリオの頭を撫でつつそう言うと、ジュリオは少しホッとした表情になった後叱られた犬のように縮こまってしゅん、となった。
「そんな、じゃ、ジャンさんは何も悪く、ありません……あの男、が、」
ん?あの男?
俺は恨めしそうに呟いたあの男、というのに首を傾げる。そして、俺の様子を伺っている幹部たちを前にずっと気になっていた疑問を口にした。
「うん?……つーかさ、色々聞きてえ事あるんだけど……、俺が寝てる間なにがあったんだ?」
俺の問いに、幹部たちは互いに数秒視線を合わせーー少し気まずそうな沈黙を落とす。そしてベルナルドが小さくため息を落とした。
「はあ、心配したよジャン……。その興味を少しは自分に向けてもらえると助かるんだがね。ーーーその疑問に関しては、こっちが聞きたいくらいだよ」
「こんの……バカ!呑気そうにしてんじゃねえええ!!俺がどんだけ……っ、あああ〜〜ッファーーック!」
「あ?なんだよう……?」
ベルナルドが胸を撫で下ろしつつ少し呆れた様子でそう言い、イヴァンが堪り兼ねて不機嫌丸出しで俺に詰め寄る。俺は二人の言ってる意味がどういうことか分からず首を傾げた。それを見兼ねたルキーノが、口を開く。
「まあ、簡単に説明するとだ。ーーお前は化粧室で麻袋に入れられててな。大方、これから何処かに運び込む予定だったんだろうが。丁度お前を袋に詰め終わろうという段階になってーーお前が化粧室に行ってる事を知ってたイヴァンが、いつまでもホールに帰って来ない事とずっと化粧室の前に立っているボーイに気づいてな。不審に思ってムリヤリボーイを押しのけて中に入ったら、あの男がお前を詰めているのを目撃してーーまあその後は……イヴァンが奴をノシて、パーティは早々にお開きになった訳だ。ーーはあ……全く、お前は無防備すぎるぞ、このカヴォロ」
「そら、マジか……」
ルキーノに叱るように軽く頭を小突かれて、俺は反省しつつ少し納得しちまった。そういう事だったのかーーホントにあのオッサン、俺を屋敷に連れ去る気だったんだなあ。イヴァンが来なかったら、と考えてゾッと背筋が凍る。あの時のヤバイ状況を思い出して渋い顔をしていると、イヴァンが口を開いた。
「俺が気づいたから良かったけどよ!……マジで、お前危なかったんだぞ!〜〜クソ、この……少しは反省しやがれ!」
そう言うイヴァンの顔は稀に見ない真剣さで痛みを我慢しているようなもので、俺はイヴァンにも心配をかけちまった事を悟る。
ーーいや、イヴァンだけじゃねえ。ベルナルドもルキーノもジュリオも、意識を失った俺を見てどんな気持ちだったか深く考えずとも分かる。只でさえ毎日精神削られてんのに、更に胃と神経を酷使させちまったよな。今回ばかりは反省しねえと、か……。俺は小さく息をついて苦苦しい顔をした。
「俺も今回ばかりはダメだと思ったわ。こんな事になっちまってーーすまね、イヴァン。みんな」
「どうせなら、謝罪より感謝の言葉が聞きたいね」
「本当だぜ!………くそ、くそ、ファック……、お前今度メシ奢れよな!」
「ハハ、ま。そこは追い追い我らがカポに態度で示してもらうとしよう」
「俺はーージャンさんのため、なら……」
幹部たちは皆どこか安堵の表情を浮かべ、それまでの不自然に硬く見えた表情をいつものに崩す。次の瞬間には、頼り甲斐のあってあまりにも大切な俺の部下のそれだった。ハハ、と俺も小さく笑う。
「ーーそれはそうと。あの後、パーティはジャンに急用が出来たって事にしてムリヤリなんとか終わらせたんだが………なあ、ジャン。化粧室で何があったか話してくれないか?」
「ああ……そりゃ勿論だけど……ドミッツィの奴は……?」
ドミッツィ、という名前を俺が出すと、場の空気が一瞬にしてしん、となりぶわり、と殺気立つ。そして、皆が人を一人殺ってきたかのような顔つきになった。ーーアレ、俺……マズイ事言った?
「フンーーあんな奴、名を出す価値もない」
ーーはあ、さいですか……。
ルキーノがイラついた口調でそう吐き捨てる。ジュリオも、冷静そうに見えるが持て余したように指先を遊ばせていた。その幹部らの様子にベルナルドがまた、はあ、と小さくため息を吐く。
「彼奴は、化粧室でイヴァンが気絶させてしまってね。聞き出す事も出来ないから、起きるまで縄を巻きつけて部下に監視させているよ」
「へ、へえ……さいですか……。……ウン、一から説明すっと長えんだけどなーー」
俺は、幹部たちに事のあらましを洗いざらい吐き出し、幹部らの表情が赤くなったり青くなったりするのを微妙な気持ちで眺めていた。そうして一通り話し終えると、四人の部下は怒ったり悔やんだりしつつも納得したのでホールから撤退し、黒塗りの外車へ乗り込み本部へと向かったのだった。



時刻は深夜に突入し、朝までまだ時間あるという頃合い。早々に本部に着いた俺たちは、後処理を各部下達に任せ、飲めなかったパーティでの飲み直しも含めて、本部の会議室で色々と今回の事を話し合っていた。……はず、だったんだが?
すう、すう。がー、ぐおー。ごごご。
会議室は現在、寝息という名のいくつもの音が合わさって煩いハーモニーを作り出していた。その部屋の中で俺は聞き苦しいそれを聴くただ一人の観客になりながら、ちびちびとグラスに注がれた酒を煽っている。
……なんというコトでしょう。俺以外の全員が酒に酔って物の見事に潰れちまった。
それにしても、いつもは寝てる姿なんてあんまり見れないジュリオや酒に強いルキーノすら寝ているとは……。
「ま、そりゃそうだよなあ……」
俺の誕生日である今日まで、こいつらは猫の手も借りたくなるほどの忙しさに襲われていた。役員会の付き合い、出張、会合、その他諸々。あげたらキリが無い。最近は部下がしっかりデキルスタイルになってきているだけあって俺がカポに就任して間もない頃に比べればまだマシな方だが、それでも皆、数日は徹夜してたよな……。それに加えて、今日のパーティでの接待三昧。+αで俺の誘拐未遂騒動。
倒れてもおかしくねえよな、コレ。良く良くみれば、ベルナルドもルキーノもジュリオもイヴァンも眼の下のクマがひどい。幾ら皆体力に自信があるつっても、そりゃ疲れた、だろう。
「……悪いことしちまった、なあ」
机に突っ伏して寝ている四人を見ながら、ぼそりとそんな言葉が口から漏れ出た。俺がカポとしてもっとしっかりしねえといけねえってのに、今だに頼りっぱなしだし。ホント、どうしようもねえ。でも、さ。
ーー俺……お前らがいるから、CR-5のカポ、で居てもいいかなって思うんだ。


END




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