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  踏み込んだその先は



「では、次に…この公式はーーー」
 ああ、退屈な授業だ。もうとっくに理解しているからこのハナシを長々とされても時間の無駄にしかならない。授業を受けながらうんざりと気分は萎えていた。
 黒板に当たるたびかつかつと鳴るチョークの音と、眠気を誘う声色の教師の声をなんとはなしに聞きながら、俺はふと、座っている窓際の席から窓を通してグラウンドに目をやる。先生を先頭にぴっ、ぴっ、という笛の音を合図としてコースを走る生徒たち。その中に、きらきらと太陽の光に照らされ一段と輝く金髪をなびかせながら走る姿が目に飛び込んでくる。瞬間ーーどき、と心臓が高鳴った。俺はそのだるそうな背中を見つめて、ふ、と小さく息を吐く。
 ーーージャン、だ…。
 俺の下の階のクラスには、親しい兄弟の様な存在である男ーージャンカルロがいる教室がある。昔から、俺とアイツの家が隣同士、さらにはお互いの親が親友だったせいもあり俺たちはよく話したり遊んだりする間柄だ。俺たちが出会ったのは、俺がまだ高校に上がって間もない頃。そして、ジャンが中学2年の頃だった。
 えーっと…ヨロシク〜。ベルナルド…だっけ?なんて作り笑いで手を差し伸べてきたのを思い出す。ああ、懐かしい。ジャンは昔からとても明るく悪戯好きな性格で、人の懐にすんなり入ってくる気さくな奴だ。その癖、抜け目なく人をちゃんと見ている。ジャンは凄いやつだ。こんな俺でも、一瞬にして救ってしまうなにかの才能を持っているのだ。
 ジャンが足を止めて、後ろを走ってくるもう一人の男を振り向き、からかうような笑顔を見せている。その笑顔に、俺の心臓はどく、とまた脈打った。あぁ、可愛い…ジャン、ジャンカルロ。彼の笑顔を見ただけで俺の心臓は潰れそうに高鳴り、頭には蝶々が待っているような花畑が浮かび上がる。ああ、そうさ、俺はジャンの顔を見ただけで元気になれる幸せな男だ。だって当たり前だろう?
 ーー俺は、始めてあったあの時から、ジャンが好きなんだから。
「ーーじゃあ、今日はここまでだ。問いの6からしっかりやってくるように」
 その声にハッとして教師に向き直るのと同時に、授業終了のチャイムが鳴り響いた。時計を見ると、正午を少し過ぎた時間帯で、昼飯時だと気づく。
 あ、しまった。そこではた、となる。俺としたことが、朝鞄にお弁当を入れるのをうっかり忘れてしまった。鞄を隅まで探って見るが、奴がいる気配はない。俺は小さくため息をついた。先生が教室を出て行き、ざわざわとクラスの奴らが話し始める中、昼飯をどうするかしばし思案する。
「おい、ベルナルド。さっきからどうした?」
 そこへ話しかけてくる男がひとり。ちらりと視線だけそちらにやると、不思議そうに俺を見下げるルキーノがいた。ガタイのよい体に真っ赤な薔薇のような赤毛を後ろで半分程纏め、男らしい口元に笑みを灯したこの男は、俺の同期だ。更にはクラスまで同じ、昔からの腐れ縁。どうせならジャンと同期が良かったと嘆かざるを得ないね。
「ああ、昼飯をどうしようか、とね」
 ふう、とため息をついて苦笑いが溢れた。

「なんだ、忘れたのか?だったら早く購買へ行った方が良い。今日は、月一度のアレだからな」
「分かってるさ。今行こうとしてた」
 苦笑いのまま席を立つと、しょうがないやつだとばかりに肩を竦めたルキーノは俺の席から離れて行った。
 教室を出ると、早く早くと口にしながら廊下を走るやつがたくさん見かける。今更走っても間に合わないだろうに。俺はゆっくりと廊下を歩きながら小さく笑みを零した。
 なんせ今日は’’月一度のアレ”と称される”おばちゃん特製プレミアムクリームパン”の発売日。その名の通り購買のおばちゃんお手製で月一回限定20個しか販売されないレア物だ。なんでも出来立てふわふわのパンに表面は軽く焼かれパリっとしている…一口食べれば、柔らかいパンの食感と共に中からじゅわっと甘すぎない贅沢なクリームが口いっぱいに広がるーーそれはもう外から人が押しかけリピーター続出の逸品らしい。俺は甘いものがあまり好きではないから興味無いが。
 階段を降りて食堂へ着き中に入ると、案の定の光景が広がっていた。レジを中心に溢れかえる人だかりの山。とても通れそうにない。さて、俺はここからどうやって昼飯をゲットするかな。
 なんて思案していたら、忙しない足音と共に、息を乱して食堂に入ってくる姿があった。ーージャンだ。
 またどき、と俺の心臓が跳ね上がる。汗を拭ったジャンが俺と同じように購買の人だかりを見て、がっかりしたように肩を落とした。
「ーーあークソ…」
 ジャンもアレ狙いできたのだろうか?ま、こんなに急いでくるんだろうしそうだろうが。
「ン?…アレ、ベルナルド?」
 じっと視線を送っていたせいか、此方を見たジャンの視線とばっちり会う。すぐにジャンは俺のいるところまで歩いてきた。
「こんなとこいるなんてめずらしーな!なんだよう、アンタもアレ狙いか?」
 面白いものを見つけたとばかりにからかい口調で笑うジャンはやっぱり可愛い。きらきらした笑顔が俺には眩し過ぎて思わず視線を逸らした。
「いや、昼飯を家に忘れてしまってね。仕方ないから買いに来たらこの有様さ」
「ハハ、アンタって時々どっか抜けてるよなあ」
「それより、ジャンはアレ目的だったんじゃないのかい?早くしないと売り切れるよ」
 ずらずらと並んでいる列を指し示すと、ジャンは気まずそうに苦笑いした後緩く首を振った。
「ンーそのつもりだったんだけどネ。もー体力残ってねえかんな」
「フハハ、授業であれだけ走り回って更にはグラウンドから此処まで走ってきた癖に、何を仰る青少年」
 まだまだいけるだろとばかりにレジ前を指し示すと、ジャンがびっくりした顔をした後恥ずかしそうに俯き俺を見た。
「う、いつの間に見てたんだよ〜つかアンタも青少年ダロ…歳2つしか変わらねえし」
「ハハハ…ま、とりあえず行くだけ行ってごらん。ほら早く」
 ジャンならなんとなくこの状況でもアレを手にしてしまう、そんな予感が俺を掻き立てて、俺は忙しなくジャンを急かした。
「うえ?…あ、ウン…」
 微妙に頭に疑問符を浮かべたジャンが急かされるまま人混みに向かって行ったのを見届けてから、俺も自分の飯を買うべく別のパンが売っている通常カウンターへ向かう。袋に入ったパンを数個手にとってから、さっさと会計を済ませてさっきの場所に戻った。クリームパン販売専用のカウンターからジャンが帰って来るのを待っていると、どんどん人がまばらになってくる。暫くして人混みからジャンの姿が現れ、よろよろとおぼつかない足取りでこっちへ歩いてきた。その手には、小さいパン用の袋に入ったパンが握られている。俺は心の中でニヤリと笑みを浮かべた。
「おかえり、ジャン」
「うう、ベルナルド……。見ろよこれ…!奇跡だぜ…俺…、念願の…!今まで一回もゲットできたことねーのに…!うわ、どーしよすっげえ嬉しい…!」
「良かったな、行った甲斐があったじゃないか」
 へへ、と手の内にあるプレミアムクリームパンをじっと見つめながら、凄く嬉しそうにはにかむジャン。ああ写真に残したい程かわいい笑顔だ…。それを見れただけで今日お弁当を忘れたことでさえも幸運に思えてくる。
「ベルナルドは?もうパン買ったのか?」
「ああ、なんとかね。あっちのカウンターはあんまり人が居なかったから助かったよ」
「そうけ、……なあ、アンタこの後って暇か?」
 俺の言葉に、ジャンは何故か考えているような素振りを見せたかと思えば、そう切り出した。
「え、あ…ああ」
 まあな、と頷いてみせると途端にジャンの顔が綻ぶ。
 …なんだい、その企み顔は…。
「じゃ、ちょっと付き合えよ。こっち」
「え、ッ、おい!?」
 すると、がし、と腕を掴まれて強引に歩かされた。細い指の感触が布越しに伝わってきて一瞬怯む。ジャンは俺の腕を引いてずかずかと歩いて、食堂を出た。俺は戸惑いが隠せないまま仕方なくジャンについて歩くと、ジャンは階段を登り、普段滅多に人のこない屋上の踊り場まできた。すぐに外へ続く扉に手をかけたが、案の定がっちり鍵がかかっていて外に出ることは難しそうだった。すると、何をいうでもなく、ジャンは自分の右ポケットを探りなにかを取り出す。…なんだ?針金…、か…?
「ほーら、いい子にしてな…」
 おもむろにそれらを鍵穴に差し込んだかと思うと、くるりと弄り始めた。何処か得意げに笑うジャンを見て、ははあと俺も笑う。このドアをピッキングするのか…そういえば、ジャンはピッキングの名人だって昔からよく俺に鍵開け芸を披露していたな。上達する前は、家の鍵をよく壊したりして怒られた事もあったか。…懐かしい、な。
 俺が昔の出来事に思考を巡らせていると、その間にジャンはカチリと小気味良い音と共に扉の鍵を攻略した。ハハ、どうやら腕は少しも訛っちゃいないらしい。
「うっし。こっちだ、ベルナルド!」
 またジャンは手を弾いて、俺を扉の奥へと誘う。手を引かれるまま屋上へ行くと、ひゅう、と頬を撫でる生暖かい風と共にビルが敷き詰められた高みからの光景が目に入ってきた。思わずおお、という声がでてしまいそうになる。
「凄いダロ?誰も来ない俺だけの特等席だぜ?」
 爛々と差し込む春の陽射しが、俺たちと地面を満遍なく温めてくれて、時々吹き抜ける風が堪らなく気持ちいい。まるで春の野原がそこにあるようでーーなるほど、独り占めしたい気持ちも分かるってもんだ。
 ほう、と息を吐いて、暖かい地面に腰を下ろすと、ジャンも俺に続いて隣に腰を下ろした。 そよそよと俺の髪を撫でる暖かい風、ふわりと漂う太陽の匂い、全身を包む暖かさ。
「あぁ、これは最高だな…」
 これ以上ない位心地がいい場所だった。
「はは、だよな!アンタに見せたかったんだ。ーー今日のさ、パンのお礼」
 そうか、それで俺をここに…。ジャンを見ると、どこか照れたような嬉しそうな顔をしていて、思わず息が詰まった。
「っ、ジャンーー…」
 無邪気に笑うその顔が、表情が、仕草が、なにもかもが堪らなく可愛くて、今にも手を伸ばして抱きしめてしまいそうな衝動をぐっ、と堪える。なんてことだ、俺は単純だからその言葉一つで、勘違いしてしまいそうになるじゃないか。2つも年下の男に翻弄されっぱなしなんてーーああ、俺としたことがなんて情けない。でも、それほどにこのジャンカルロという男は可愛くて、格好良くて、言い表せないくらい魅力的な人物だった。…こんなに純粋で愛しい彼を今すぐ自分のものに出来たらいい。好きだ、愛してる、とキスをして、押し倒してーー…そして、俺の側で、いつもみたいに笑って、いつもみたいに軽口叩きあうジャンがいたらいいのに。
「ありがとう、ここにこられてよかったよ。ハハ、パンさまさまだな」
 でも、俺は男。ーーそして、ジャンも男だ。男女みたいにすんなり行くはずがない。例え告白したところで、男の俺が普通に女が好きなジャンに拒絶されるのは火を見るより明らかだった。それが堪らなく怖い。気持ちわりぃ、アンタってそっちだったのけ?なんて言われた挙句避けられた日には、きっと生きていけなくなると思う。だったらその後の関係が気まずくなるよりは、今のままの関係でいた方が遥かに良いじゃないか。
  あんまりジャンに深追いしないようにするべき、…だと分かってはいるんだがね…。
「アンタが喜んでくれて良かった。最近なんか元気ねえみたいだったから…さ、心配してたんだぜ?」
 そう言ってはにかむジャン。
 急に、心臓が押しつぶされそうな程の苦しさが俺を襲ってくる。俺は深くーー数秒目を瞑る。そして何時ものように笑った。
「…そうか、すまない」
 頼むからそんなことを言わないで欲しい。…今すぐこの両腕でお前を抱きしめたくなるじゃないかーー
「なんで謝るんだよう、俺謝られるよーなことされてねーケド?」
「ん、そうだな…ありがとう、ジャン」
「へへ、…おう!」
 満面の笑みを俺に向けるジャン。途端に、またもやぎゅ、と潰れるような心臓の痛みが身体を支配した。身体の中にどろどろとした感情が渦巻いて、俺を取り込もうとしているのが解る。それは、きっとジャンを傷つける結果になるものばかりだった。ヤバイな、どんどん思考が暗くなっていく。
「ーーーっ」
 辛い。板挟みになっているこの状況が酷く痛い。自分がどうしたらいいのかいよいよ分からなくなってきた。どうすることも出来ずに、なにもせずただこの痛みを耐え痛みが鎮まるのを待つ?ジャンに告白して、玉砕し、口も聞かないまま時が経ち卒業する?
 ーーわからない。どちらにしても苦しい結果になるのは目に見えていた。
「ははは」
 その日、俺は楽しそうに笑いながらクリームパンを頬張るジャンの横で、ただ嘘くさい笑いを零していた。

 次の日。
「ベルナルドー!」
 高らかになったお昼休憩を知らせるチャイムが鳴ったと思ったら、ジャンが俺の教室の扉を勢い良く開けて、俺を呼んだ。突然のことにびく、と肩が跳ねる。
 ーーーえ、ジャン…?…いつも俺の教室に来ることなんてないのに。珍しいこともあるもんだ、と不思議に思いながら手招きするジャンの元まで歩いていった。
「どうした?何か用かい?」
「うん、あのな…頼みがあって」
 少し照れたような笑みを浮かべながらそう切り出すジャン。その後ろにかくされた手にはビニール袋が握られていた。
 頼み…?
 ジャンのことだから、辞書かなんか借りにきたのか?いや、それなら、同じクラスのジュリオにでも頼るだろうし…。なんにしても、ジャンに会えるなんてラッキーだ。と、俺の心は単純にも嬉しさで弾む。
「頼みってなんだい?」
「あのな……」 
 俺の返答にホッと笑みを零したジャンは、ぐい、と俺の腕を掴むと身体を屈ませ、顔を俺の耳に寄せた。
「ーーッ」
 急激にその顔が近づいて、自分でも驚くほど心臓が飛び跳ねたのが分かった。ふわりと甘い香りが漂ってきて、突然の出来事に動揺するあまり身体が硬直してしまう。
 ーーッ、ヤバい。…ジャンが…こんなに近く。
「……月一度の、アレ…あるだろ?」
「え?アレ?ーーあぁ、アレか」
 ジャンに意識が向くあまりなんの事か一瞬分からなかった。
「ソレがなあ!…昨日食べたのすっげえ美味くてさあ!流石人気No.1ってカンジでサイコーだったんだよ!…でもよう、アンタも知っての通り俺のクラスってアレが販売される日、昼休み前の授業が体育なんだよな…」
「ああーー確かに…。昨日お前、グラウンドから走って来てたもんな」
 あの日のジャンの様子にくすり、と笑みが漏れる。まだ昨日の事だ。
「で、販売開始時間には間に合わなかっただろ?でも、アンタはもう食堂にいた。しかも、アンタの教室は食堂と同じ階だ!……アンタにこんな事頼むのも悪いと思ったんだけど……」
 一度言葉を区切った後、ジャンは言いづらそうにうつむいてからゆっくりと口を開いた。
「俺の代わりにゲットしてきて欲しいんだ…!月一度のアレ!他に頼もうにも、同じクラスのジュリオやイヴァンはまずムリだし…アンタしかいないんだよ!」
 顔が離れぐっ、と両手を握られる。真剣なジャンの表情に気圧され、俺は思わず頷いていた。
「う、わ、分かった…!分かったから、落ち着け、ジャン」
「マジで…!?…あ、わりぃ…」
 ハッとしたジャンが慌てて、手を離した。それを確認しホッ、と息を吐いてバクバクと煩い心臓をなんとか鎮める。
「はあ……、…手に入れられるか、分からないぞ」
 頭が痛くなってきて、小さくため息をつく。大体、俺がコイツの頼みを断れる訳が無いのだ。ああ、全く…惚れた弱みってやつは厄介だ。
「ああ!サンキュー、ベルナルド!お礼に、俺もアンタの要望聞くからさ!」
「え?」
 びっくりしてつい聞き返す。
 要望?俺が何か言えば、ジャンがしてくれるってことか…?
「あ、もちろん…出来る範囲で。…だけどな」
 これは、驚きだ。ジャンがこんな事を言うなんて。いや、それよりも問題なのはーー、今何か頼めば、ジャンは俺に従うっていうこの天国か地獄か分からない状況だ。今なら、ジャンにパシリを頼んだとして喜んでやるんだろう。…そんなことさせないが。
「あ、あ…それはあ、りがたい…な」
 クソ、そんな事を言われたら、頭の中で考えている下心モリモリの考えが口から出そうになるじゃないか!
「ホント、サンキューな、ベルナルド!じゃ、頼んだかんなー!」
 言いたいことを全て言って、気が済んだジャンは、俺にそう言い残してパタパタと廊下を走って行った。
「あぁ…」
 なんだかこんがらがってきたぞ。まぁ、ジャンの強引さなんて、今に始まったことじゃないしな…フハハ。
「あッ!ちょ、待って!ベルナルド〜」
「…ん?」
 廊下から教室へ戻ろうとすれば、また忙しないジャンの声と共に、去ろうとした足音が近づいてきた。
「ごめんごめん。アンタにコレ、渡そうと思って持ってきたのに、すっかり忘れてたよーーーハイ」
 ジャンが俺に渡したのは、さっき後ろに隠してたビニール袋…に入ったパンだった。
「これは?」
「見りゃ分かるだろ?パンだよ。この前のお礼の続き」
 にかっと笑ってそう言うジャン。俺は思わず渡されたビニール袋の持ち手をぐしゃりと潰してしまった。
「美味しく食べろよ。じゃ、またな!ベルナルド」
「ーーー…あ、ああ……また……」
 クソ、やられた…。…お礼、か…まったく、良いことはしておくもんだな。
 俺は隠せない程に、赤らんだ顔をしながら教室にも戻れずに、走っていくジャンの背中を見送っていた。


 さて、そんなことを頼まれれば、実行しないと男が廃るというものだろう。
 今日は今月分のプレミアムクリームパンの発売日。頼まれたからにはなんとしてでも、今日は手に入れなければならない。なんせ、ジャンの笑顔がかかっているからな。いや、決して、ジャンのお礼が目当てとかではないぞ……。
 時刻は現在、午後12時。昼休みという戦争が始まるまで後、10分だ。周りをチラリと見ると、クラスメイト達はなんだかそわそわと身体を揺らしたり、動かしたりして、実に落ち着きがなかった。分かっている、このクラスにもアレを狙う奴らがうじゃうじゃいることを。他のクラスも例外じゃないがな。
「フッ……」
 だが、俺はこの学校一の情報屋と知られる男。
 ーーーもう、手は打ってある。後は、指示通りにこなしてくれれば、万事上手くいくさ。
 キーン…コーン…カーン…コーン……。
「じゃあ今日はここまーーー」
 チャイムが鳴り、先生が終了を言い終える前にーーー
「急げ!」
「早く行くぞ!」
 教室から数十人が一斉に飛び出した。
「おーい…転ぶなよ……。全く、忙しない奴らだな…」
 ほっぽり出された先生が、教壇に立ち一人ごちる。それに笑みを浮かべつつ、俺も自分の鞄からお弁当が入っている袋を取り出し手に持つと、椅子から立ち上がり教室を出た。
「ーーーさて」
 ちら、と時計を見ると、丁度秒針が12時を指したところだった。じゃあ、俺も行くとするか。あの時のように、急いで廊下を走る奴らを見ながら俺はゆっくりとした足取りで食堂に向かったのだった。
「やったぜ!最後の一個、いただきィッ」
「ええ〜っ、嘘でしょう?もう売り切れ?」
「残念だね…今月もダメかぁ」
 道の途中でそんな声が耳にパン入ってくる。…おや、もしかして?
 食堂に着くと、クリームパン専用カウンターが相変わらずの人だかりで人々が声を上げていた。いつもながら、凄いな。
 チリンチリン!
 程なくしてベルの音が響き渡った。
「ハイハーイ!今日のクリームパンは売り切れだよ〜さぁ散った散った!」
 喧騒の中でも一際声が通る食堂の女性がそう告げると、残念そうな顔や嬉しそうな顔、悔しそうな顔をした学生達は言葉を交わしながら散り散りに食堂を去っていく。
 ああ、これは…。販売から数分も経っていないのに、もう売り切れとは…流石だな…。俺もあのまま何も考えず競争に赴いていたら、どうなっていたことか。クリームパンが手に入らなかった奴らの何人かは代わりのパンを手に入れる為に通常カウンターへの列に向かって行く。俺もすぐにその列に並んだ。
「ハイ、ありがとねー」
 カウンターで接客をしているのは、一人で、ふくよかな身体付きに朗らかな笑顔を浮かべた、まさに食堂にぴったりの女性。俺はその人の存在に内心にやりとほくそ笑みながら順番をゆっくりと待つ。
「どうもありがとう。…ハイ、いらっしゃいませー」
 俺の前に並んでいた男が去ると、俺の番が来た。彼女は俺にも同様に明るく笑いかける。俺は幾つかカウンターにあるパンの名前を指差しで答えながら、もう片方の手でさりげなく女性の手の前に白い紙切れを滑らせた。かつり、と当たった指先に、無意識に彼女の目線が行く。
「まぁ………。ふふ…」
 それを見た彼女は優しく笑みを浮かべると、紙をポケットにしまい、白い袋に、俺が注文したパンと、カウンターの下からさりげなく出してきたパンをサッと入れた。代金をキャッシュトレーに出すと、彼女は手際よくお釣りと袋を俺に差し出す。
「どうもありがとうね〜」
 さっきとなんら変わらない明るい声に見送られながら、俺はお釣りと袋を受け取り、食堂を離れた。
 ーーー計画、成功だ。
 これで、ジャンの笑顔も守られる。俺はこれをジャンに渡す為、早速ジャンがいるだろう教室へ向かった。
 ジャンの教室は俺の教室の脇にある階段を降りて一階下、丁度、俺の教室がある場所の真下にある。食堂からそれなりに離れた場所だ。教室の前まで行くと、お昼時という事もあって、ざわざわと騒がしい声が扉越しに聞こえる。俺は扉についている窓から、イヴァンとジュリオと机を囲みながら談笑しているジャンの姿を確認してから、扉を開けた。
 ガラリと扉が開く音に、教室にいる男女がふっとこちらを見やる。俺はジャンを呼ぼうとするが、その前に教室にいた女生徒の嬌声に阻まれた。
「きゃあ!オルトラーニ先輩よ!」
「どうしてこのクラスに?」
「ハァ、いつ見ても素敵だわ……!」
 きゃあきゃあとこっちを見て、囁き合う女生徒達。
「こんにちは!誰か探してるんですか?」
「良ければその……」
 すると、騒いでいた女生徒の数人が凄い早さでこっちに来て、矢継ぎ早に俺に話しかけてくる。困ったな…用が有るのはジャンなんだが…。
 どうにもあしらい難く、どうするか思案しているとふと、俺にかかる声があった。
「ベルナルドー!」
 ジャン……!?バッとそっちを見ると、こっちに歩いてくるジャンの姿。
 お目当がジャンだと知ると、女生徒達は話す機会を逃し残念そうに離れていく。
「ジャン。良かった」
「ん。とりあえず場所変えようぜ」
 ひとまずホッとしていると、ジャンは俺の手を引いて教室を出る。一瞥した教室には、興味なさそうに昼飯食べるイヴァンと、こっちを睨むジュリオの姿が窓辺に見えた。
 ジャンが連れてきたのは外 ーーーこの前一緒に昼飯を食べたその屋上だった。
「教室まで押しかけて悪かったね。後にすれば良かったかな」
「んにゃ、別に。気にすんなよ。……ってか、今日来たってことはーーー」
 屋上につくなりそう言うと、ジャンは期待の眼差しで俺を見た。その視線は俺の右手にある購買のビニール袋に。
「ああ、約束だからね。ーーーでは、こちらをどうぞ?閣下」
「うむ、苦しゅうない…って、うおおおお……クリームパン…!やべぇ、また手に入るなんて…!」
 いつものようにふざけあいながら、袋ごと渡すと、早速中身を覗いたジャンは歓喜の声を上げた。
 念願のクリームパンを手にしながらキラキラと瞳を輝かせるジャンは…そのままだがご馳走を目の前にした犬のようで。嬉しそうな笑顔がそれはまた可愛い。これだけでも、話に乗った甲斐があったよ。
「アレ…でも、違うパンも入ってんだけど?」
 ジャンは俺がさっきいくつか買ったパンを手に取り不思議そうに声をあげた。
「ああ、それはちょっとしたオマケさ。ジャンにあげるよ」
 どうせ、そのパン達はクリームパンを手に入れるためのカムフラージュだったからね。俺自身は弁当もあるし必要ない。
「マジで!?サンキューベルナルド!やっぱアンタに頼んで良かったわ!」
 ジャンは本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、袋からクリームパンを取り出すと包みを破き始めた。
「ふふ、喜んで頂けて光栄です」
 クリームパンひとつでジャンの笑顔が見られるなら、こんなに安いことはないね。こうなると、毎月でも手に入れたくなる。
「さ、食べようぜ!」
 俺とジャンは早速屋上の古びたベンチに腰掛け、お昼を楽しむことにした。俺も行くときに持ってきていたお弁当箱を袋から取り出す。
「にしても、良く手に入れられたなー。今日は一際人だかりが凄かったみてーだし、大変だっただろ?」
「そうでもないさ。俺はあの列には並ばなかったしね」
 ジャンは囓ろうとパンに向けて開いていたら口をピタリと止め、驚いて俺を見た。
「は?…え?…じゃ、じゃあどうやって手に入れたんだよ?」
「んー?フハハ、購買の女性店員に情報を、少しね。その代わりとしてちょっと横流しを頼んだだけだよ」
 弁当箱から漂う美味しそうな香りに誘われて、箸で唐揚げを摘みながら答える。ジャンは俺を見ながら、ぽかんとした顔をした後笑いを零した。
「っ……ふ、ハハッ、さっすがベルナルドだなァ。情報屋の名は伊達じゃないってカンジ?…って一体どんな情報を渡したんだよー?」
 面白いことでも見つけたかのように、にやにやと聞き出してくるジャンの口にさっき摘んだ唐揚げを押し込む。
「ッんぐ……!」
「それは企業秘密。彼女のプライバシーに関わることだからね」
 そう言って笑うと、ジャンはもぐもぐと唐揚げを咀嚼しながらあからさまに不服ですという顔をした。それに苦笑いを返しつつ、ご飯を自分の口に放る。
 まぁ、彼女には好きな男性がいるということで、赤毛の男に関する情報だったりするんだがな。良い情報に踊らされている今が花だろう。その男が本当はどういう奴かなんてことは知らぬが仏だ。
「ちっ、ケチ……」
「なんとでも」
 にこりと笑ってやると、癪だったのかジャンの手が俺のお弁当からもう一つ唐揚げを掻っ攫っていく。
「もーらいっ、……ン〜ホントこの唐揚げ美味えな〜」
 食べながら幸せそうな顔をされれば、もっと甘やかしてしまいたくて仕方なくなる。
「それは良かった。だが、俺としてはせっかく手に入れたクリームパンを味わって欲しいけどね」
「食べるってぇ……ケド、滅多に手に入らねえから直ぐ食べちまったら勿体ねーだろ?」
 愛おしそうにパンを見つめるジャンが可愛い。そんなものお前が望むなら毎月でも食べさせてやるのに。そんなちっぽけなパン一つでも大切にするジャンは本当に。
 毎月ジャンに買ってやることになればこっちも毎月ジャンに会うことができる。よし、ジャンにそれを提案しよう。
「……あ!そうだ!」
 俺が口を開く前にジャンは何かを思い出したように俺を見てそう言った。
「な、なんだ…?」
「すっかり忘れてたよ。コレのお礼さ、アンタなにがいい?」
 ジャンはクリームパンを指差して、はにかむ。お礼、という言葉にどきり、と俺の心臓が高鳴る。あぁ、そうか…。ジャンの嬉しそうな笑顔を見て、俺もすっかり忘れていた。
「なんでもいーぜ?」
 そんな事言われたら、また下心が顔を出す。いや、ジャンの笑顔が見られたから満足では…あるが。もっと、と思わない訳じゃない。
「ーーー……。……じゃあ…一日。俺にくれないか?」
 気がついたら、そんな言葉が口を突いて出ていた。言ってからハッとする。
 しまった。ジャンに深追いするといけない事は分かっていた筈なのに。衝動に任せてジャンに何かしてしまうかと思うとぞっとする。慌てて言い直そうとするが、ジャンの返答の方が早かった。
「あ、いやそのーーー」
「いいぜ?」
 ニヤリとジャンが笑った。俺は驚いてお弁当箱を落としそうになる。
「え……?」
「一日くらい何処だって付き合ってやるよ。優しいおじちゃんの為ならな!」
 さんさんと降り注ぐ太陽の光に照らされた金髪がキラリと輝き、なびく。俺に向けられる柔らかい笑顔が眩しくて、思わず目を細めた。




 To be continued...


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