小説 | ナノ

  ステラとアストロフェル



「もうアンタにはうんざりよ!さようなら!」
そう言うなり振り向きもせず、一路家路を急ぐ彼女の後ろ姿を、俺は妙に冷め切った目で見つめていた。
ーーああ、また終わったか。
彼女を作ったと思えばこの繰り返し。もう慣れきってどこか行事のようだ。良い加減うんざりして、はあ、と一つ溜息を着くと、俺はのそのそと店仕舞いを始める。
俺はある街でひそひそと薬屋の店主を営んでいる。この街一番の品揃えの上、客のどんな要求にも二つ返事で引き受けてくれると街中では評判を呼んでいるらしい。といっても、店を開いたのは数ヶ月前で、そう儲かっている訳じゃないが。
「まあた、破局かあ?」
店に並ぶ薬剤の数々を片付けていると、ふ、と裏から野次馬の如く呆れた、という苦笑が聞こえる。
「ルキーノか。…なんだ、盗み聞きとは趣味が悪いな」
振り向くと、店の裏へと続く扉に持たれかかった状態でいたのはルキーノだった。ルキーノは店が開いた時から、俺の店の看板として働いてくれている一従業員だ。燃えるようなその赤毛とガタイの良さ、紳士さで客から色男としてただならぬ支持を受けている。聞くところによると、ファンがついていて常連客があるとかないとか。
「たまたまだ。…で、駄目だったのか?」
慣れきって半分俺を弄って楽しんでいる様子のルキーノの態度に、俺ははあ、と項垂れた。もうルキーノにとってすっかり恒例行事だな。恒例行事とは、そう、俺が女に愛想尽かされて関係が終わるというものだ。ちなみに、付き合っては終わるを繰り返しているせいで、月一回ペースになりつつある。
「…別にあの子に何か問題がある訳じゃないんだけどな…、ただいつもこうなる」
結局こうなるんだ、という諦めが混じった視線をルキーノに向けると、憐憫の目で返された。ルキーノにされると腹が立つのは俺だけか?女を常に転がしているお前の考えが分かるぞ。
「じゃあ、お前に問題があるんだろうさ。…この機会に、女遊びなんて良い加減辞めたらどうだ?」
ばからしい、ルキーノの言葉の語尾にそう続いたように聞こえた。
「ああ…そうだな…」
図星を刺され、俺は肩を竦める。確かにそろそろ潮時かもな。薬剤師で俺の師匠でもある、カヴァッリさんに、お前もそろそろ安定した家庭を持つべきだ、とそそのかされてこんな事を始めたは良いが、俺には財や身体目当てで近づいてくる女達を選んでどうにかしようなんて気は毛頭起きなかった。とっかえひっかえして、ようやく俺には合ってないと分かった今が、丁度辞め時なのかもしれない。
「それにしてもさっきのはそれなりの上玉だったろ?惜しいことしたな、今なら間に合うぞ、ベルナルド」
辞めようか、と思案している俺に、ルキーノは勿体無いとばかりに未練を着せようとする。さっきと言ってること違うぞ、本当に食えない奴だ。
たった今去っていったのは尽くすタイプで、俺がなにを言わずともそれを察してくれる、良い女だった。勿論、問題なんてあるわけ無い。俺に対し女としてそれは素晴らしい働きをしたと思う。器量が良くて、家事も上手く、スタイルも申し分ない。何もかも言うこと無しで、俺じゃなかったらさっさと彼女に結婚を申し込んでいたんだろう。結婚なんて、契りを交わすだけの簡単なものだ。やろうと思えば簡単に出来たんだろう。それでもなぜしなかったかと聞かれれば、さほどあの女に興味が湧かなかったのもある。まあ、しいていえば、俺にはあの女より興味の湧くものがあったからだ。
俺は星が好きだ。昔から、何か物事を突き詰めて調査するのが好きな子供だった。知る、という行為そのものにずっと夢中だったように思う。気がつくと、財政、金融、地域、目に付く興味が湧いた物全てを調べ尽くしていた。そんな俺が天体と出会ったのは数年前。これも、根っからの探究心のおかげで研究に没頭するようになった。天体ーー未知の宇宙を探るのは、本当に楽しくて。知れば知るほど俺は天文学に嵌っていき、気がつけば天体以外のものに興味が湧かなくなっていた。だが、俺は星があればそれでいいと思った。付き合った女が次々に去っていくのも、そのせいなのかも知れないな。
「…まあ、そう落ち込むな。慰めに、今夜はヤケ酒にでも付き合ってやるさ」
何も言い返さない俺を見て落ち込んでいると勘違いしたのか、ルキーノは陽気な笑みを浮かべて見せる。
「それは有難い。が…それよりも、さっさと店仕舞いをしてくれると助かるんだがな」
さくさくと仕舞い支度を始めていた俺とは裏腹に、俺の話を聞きながらどことなくくつろいでいたルキーノにニコリと笑顔を向けた。
「おっと、はいはい」
俺の腹黒い笑顔にルキーノは肩を竦めると片付けるべく、店の奥の方へすっこんでいった。
「…ふう」
ルキーノが居なくなって一人になるとまた溜息が口から出る。さっきからどうにも憂鬱な気持ちが拭えない。
大切な薬剤を一式片付け終えると、カラカラと店の扉を閉めてから表の電気を消す。そうして店仕舞いを終えると、丁度片付けを終えて帰り支度をし終わったルキーノはじゃあな、と帰っていった。途端に店内がしん、と静まり返る。
「今日は冷えるな…」
気晴らしに、研究でもするか…。
暗い中、店から2階に続く階段を探っていると、冷たい空気が俺のところにも流れ混んできた。はあ、と小さく息を吐くと白くなって溶ける。手先や足元も寒さのせいでじん、と冷たくなっていた。ふ、と窓の外を見ると、はらはらと細かい雪が空から舞い降りて地面に白いカーペットを敷いていた。どうりで、冷えるわけだ。
小さい建物ながらも、しっかりした作りの2階を抜けて、俺は更に上の天井裏へ登る。ギシギシと軋む階段を登り終え辺りを見回すと、天井裏天窓から差し込む月明かりが薄暗い部屋を照らしていた。部屋の中は、ソファーや小型の机、望遠鏡などがポツリと置いてあるだけの、質素な部屋だが、俺にとってはそれなりに気に入るものだったりする。
俺は早速冷たい床に座りこむと、望遠鏡から天窓越しに空の世界を覗き込んだ。今日は空気が淀んでいないおかげで、星が一段と綺麗に見える。天窓越しに見る星の数々はいつ見ても、その輝きを失わず、ただ人々を魅了していた。俺の住んでいるこの星の遥か彼方で幾万の星が輝いている。もしかしたら地球と似た惑星もあるかもしれないーーーそう考えただけで、初めて告白された子供のように胸が高鳴った。俺はうっとりと見惚れつつ、ペンを手に取り机に置いてあったノートに筆を走らせる。
ーー*月*日、21:26、快晴。西南西の方角にーーー
詳しくその日に現れた星の状況、動きなどを記す。こうして毎日星を観測するようになってから、俺はノートにその状況を記すようになっていた。それらを記録に残しておくことで、正確な位置や見える時間帯などを明確にすることが出来るわけだ。そうして時々望遠鏡を見てはノートに書き込むが、天窓から見え隠れしている星がどうにも見づらくて、俺は顔を顰める。
「見づらいな…寒いがちょっと出るか…」
比較的この屋根裏の天窓は大きい方だったが、やはり全体を見れないのでは観察のしがいがない。俺は立ち上がると、隅にあった脚立を天窓の丁度真下に持ってくる。そして、望遠鏡を先に上げ、ペンを挟んだノートを小脇に抱えると、俺も天窓から屋根の上へ上がった。途端にびゅう、と冷たい風が俺を貫き、外の気温を俺に伝えてきた。
「ーー…寒いな」
肌を撫でる空気の感触にぶるり、と身震いを一つ。今更ながら薄着のまま外に出たことを後悔した。もう手先も真っ赤だな…。
俺は手をこすり合わせてから、望遠鏡を屋根の丁度真ん中辺りに置いて、その前に座り吹き付ける風の中、観測を始めた。やはり天窓よりかなり見やすい。早速さっき見つけたあの星を捜す。
何度か動かしていると、北側の方向に、他の星に比べて一段と輝いている星を見つけた。太陽のように強い輝きを放つそれを監察して、さっきのそれだと確信する。微妙にちら、と見ただけだか、あれに間違いない。
しかし、俺はその星を改めて観測して不思議に思う。
「ーー…おや…?」
ノートを見返してみるが、どこにも、あの星がなんなのか示すものがない。あれが何という星なのか推測できなかった。
「見ない星だな…、もしかして…」
予感がして、ノートの裏表紙を開いて食い入るように見た。
「ーーない…。…まさかーーー」
その裏表紙には、今迄発見されてきた全ての星の情報がこと細かに記してあった。そこに無いーー…、と。
いうことは、どう考えても未発見の星、ということになる。何度もノートと星を行ったり来たりして確かめるが、 それしか考えられなかった。
「間違い無い…!…これは―――!」
仰々しく天を仰いだその瞬間。身体に電流が走ったように、ぞわり、と鳥肌が立った。
「――!!?」
いまだ未発見の星を俺が発見したことの感動からではない。仰いだ天から――今まさに、明らかに“何か”が、俺目掛けて接近してきていたからだ。轟音とともに近づいてくるそれは空気の膜を覆っていてなにか明確にすることもできなかった。
気が付けば、自分まで後数センチという距離。俺は何かすることも、言うこともできず、ただ目を見開きそれを凝視していた。
BOM!!ガランガラン!
ひゅ、という突風が横を掠めて行ったかと思うと、次の瞬間には大きな衝突音と共に、それ、が俺の屋根を破壊し中まで突き破っていた。
「なっ…!?な、んだ…!?」
空から何かが――…
半ばパニックになり起こった状況が理解できないまま、振り向いた俺は立ち上がり屋根にぽっかり開いた穴に近づいて下を覗き見た。家具もなにもかもめちゃくちゃになった部屋でしゅうしゅうと煙を纏っていた何かが次第にはっきり形づくられて――
「ッ……!」
何故かは分からない。気がつくと、身体が反射的に動いていた。
本能がなにかを急かすように、はしごを下りて部屋に降り立った。まだ煙がまいている中、俺の目の前で何かが立ち上がるのが見えて、目を見張る。
ゆらりと立ち上がったのは、明らかに人間の形をした――男、だった。透き通るように白いシャツとパンツを身に纏ったその男は、さっき見たばかりの星のように輝く…一目見てハッとするような金髪をしていて、スラリと細身の体格をしていた。こっちを見つめ俺を一瞥するとまるで蕩けてしまいそうな蜂蜜色の瞳を細め、青年のようなあどけない仕草で、形の良い口元を開いた。
「――やっと、会えたな。久しぶり…ベルナルド」
「……え?」
まるで、旧友と会った時のようなその言葉に、俺は混乱する。やっと、会えた…?俺は、この男と会ったことがあるのか…?…いや、確か記憶には無いし…そんな筈は…。
いや、それ以前にこいつ…空から落ちて来たのか…!?落ちてくるときはまるで人間には見えなかったが…。屋根まで突っ切って無傷で笑っているところを見ればやっぱりこいつは…人間じゃない、のか…?
「………」
ぐるぐると様々な疑問が俺の頭の中でダンスをする。全てはこの摩訶不思議な男のせいだ。一体、なんなんだこの男は…!
「…アレ?もしかして…覚えてねえ?……うーん、ま…当然といえば当然、か」
困惑顔の俺を見て、その男は少し淋しそうにした後、困ったような笑いを浮かべた。
「…お前、なんなんだ…?」
そこでようやく、喉につっかえていた言葉を吐き出すことが出来た。
「ん…俺はジャンカルロ。ジャンで良いぜ?ヨロシクな、ベルナルド」
俺の問いにその男はーージャンカルロ、とか言う男はけろっとそう言い…悪戯っ子のようににや、とした笑みを向けた。まるで俺の反応を楽しんでいるみたいに。
「え、ああ……?」
いや、そうじゃない。俺は名前を聞きたいんじゃなくてーー
「俺が何者か知りたいんだろ?」
どう言おうか迷っていると、彼…ジャンは変わらずふは、と楽しそうな笑みで話しかけてくる。なんだか掴めない奴だ。
「ああ…」
頷くとよろしいとばかりにジャンは空に輝く満天の星を指差す。
「うーん、一から説明すると長えんだケド……俺たちはステラっていうーー様はあの星なんだ」
「は…??」
突拍子もない言葉を吐かれて、思わず呆気に取られた。
訳が分からない。
自慢気に空に輝く幾千、幾万の星を指指してそう説明されているのに、全く思考が置いてけぼりだった。そもそもこの姿形は明らかに人間ーー青年のそれが、星…?あの星、だと…?俺は夢でも見ているかこの男に騙されて、馬鹿にされている、のか。
「本当に覚えてねーんだな…、って…オイ!その、なに言ってるんだこいつ、みてーな反応ヤメろ!言ってるこっちが恥ずかしいわ!」
ジャンは淋しそうに眉を下げて俺を見ると、ばしり、と俺の肩を叩いて仰々しく咳払いした。
「ンンっ…、しゃーない、何も知らねーアンタに、一から教えてやるよ」
唐突に得体の知れない奴が屋根を突き破ってきて、正体を説明されるって…なんなんだ、この状況…?というか、女には愛想尽かされるわ、ルキーノには慰められるわ、変な輩が空から降ってくるわ…、今日は厄日か…?
と、思いつつとりあえず頷くしかない俺なのだった。
「…あのな…俺たちはあの星そのものなんだよ。なんつーか…上手く言えねーケド、星一つ一つに意志があって…それがこんな風に具現化したのが俺たちってワケ。アンダースタン?」
「はあ…つまり、なんだ…、形が人間だが惑星、ってことか?」
「ン、ピンポーン大正解」
ジャンはにやり、と得意気にウインクしながら俺の長い髪をする、と梳いた。
「まさか…あり得ない…。そんな、非科学的な事が起きてたまるか…!」
星に意志があって具現化するなんてそんな事が!狐につままれた、とはこのことか。いや、これが現実である筈がない。絶対に、そうに違いない。必死に腕や頬をつねってみるが、この世界は無情にも俺に、ここが現実だと知らせていた。
「もう実際起きてるぜ?ま、つっても、全ての星に意志があるわけじゃねーし、俺みてーな奴が見える人間だって、滅多にいやしねえけどな」
少し残念そうなその言葉に、なにか聞かずにはいられなかった。どうやら俺は、どんな状況だろうと探究心だけは筋金入りらしい。
「な、なっ…?どういうことだ…?」
「ーーこうやって姿を形作れる特殊な星達ーー俺みたいな奴のコトを、俺たちの間では、ステラ、っていうんだ。ステラは、生まれつき特殊な能力や意志を持ってる輝い星で、まあなんていうか…その中でも位の高い星がこうして人間と話せたりするワケ。…で、それがないのがインフィルムって呼ばれる小規模の星。そいつらは能力も無いし、意志もない。アンタ達の世界でいうお人形サンだ」
「……なるほどね。つまり、お前は特別な能力をもってる宇宙人な訳か……、まるでSFか何かの物語を読んでるみたいだよ。まるで現実味が無い。それが俺に見えるってことは、いよいよ俺も可笑しくなったかな」
ハハハ、とヤケ糞な乾いた笑いを漏らせば宇宙人ことステラに頭を小突かれた。
「宇宙人じゃねー!ステラだっつの。だからな俺たちが…見えるあんたら人間はな、俺たちの間ではアストロフェルって言われてんだよ。まだ、詳しいことは解明されてねーから分かんねえケド、アストロフェルには俺たちがーーステラが見えるんだ」
その言葉に俺の頭の上にクエスチョンマークがいくつも浮かび上がる。
「は…俺がアストロフェル…??…というか、人間は皆お前が見えるんじゃないのか?」
「イヤ?俺たちは一部の人間にしか見えない。アストロフェルにしか。それが何故なのかはまだ解明されてねえが…まあ、噂では俺たちに近づき過ぎるとアストロフェルになる可能性があるらしいヨ。ーーアンタも、こっちに近づいた…ダロ?」
その言葉に、俺は緩く首を傾げた。こっち、に近づいたと言われても、俺は思い当たる節がこれといってなかったからだ。今日だって俺はいつものように、星を観測していただけだ。
「…もっと分かる様に説明してくれ。近づいたってどういうことだ?」
困惑して、疑問が口から飛び出た。その俺の様子をみたジャンは又も呆れたように小さくため息をつく。
「だから、さ…、アンタ俺たちの…――星のこと、かなり調べてたじゃん。つーか、毎日時間があれば観測して、さ…。そうやって、星のことを深くまで観察し続けると、自然と近づいて…俺たちと接する部分が大きくなっちまうんだよ」
なんで俺が毎日観測してることをこの男は知ってるんだ。実はストーカーか?
「…じゃあ…俺みたいなーーーアストロフェル…とかいう奴らは皆お前が見えるのか?」
「うん、見えるぜ。…でも、さっきも言ったケド、アンタみたいな奴は滅多に居ないんだ。どんなに俺たちのことを研究してる学者でも素質がなきゃ俺たちは見えないし、例え見えたとしても、眼が良くない奴はハッキリと視界に捉える事ができねえしな」
「素質…?眼…?」
「ああ。だから俺たちが人間に認知される事は全然ないってワケ」
まるで先生気取りで得意げに、俺に説明したこの男を見て、俺の疑問は膨れあがるばかりだった。話の筋は通っているし、理屈はよく分かった。だが、いまいち掴めないこの男の存在に俺は明らかに戸惑っていた。ーーなんなんだ、この男は…。
「ふえっくし!…っうう…」
訝しげに見つめていると、ジャンは思い切りくしゃみをかました。それにハッとする。
そういえば、さっきの衝撃で屋根が破壊されてしまっていた。その穴から部屋に流れ込む雪の冷たさと刺すような風が、感覚が鈍っていた俺に冬の寒さを自覚させる。部屋はもう外とは変わらない気温だった。改めてみると、ジャンは半袖短パンの格好でいるのに気づく。今はどんなに身体を鍛えている男でさえ厚着する真冬だ。俺は慣れているから平気だが、普通の人間ならば風邪を引く格好だろう。
ーー…なんで、こいつこんな格好なんだ…。
「ぶえっくし!」
またも口からくしゃみが漏れたのを見て、俺は堪らず咄嗟にジャンの手を掴んでいた。
ひやり、と氷に触れたときのような冷たさが俺の手に伝わってくる。
ーーーこいつ、…!
かじかんで居るだろう手が暖かさを求めて握り返してきて、俺の中で何かがカッと熱くなった。勢いに任せて俺は手を握り、扉を開けて風邪通しが良すぎるその部屋から出る。手を握られたジャンも俺に大人しく続いた。
階段をゆっくり降り、薬剤店の裏にある俺たちがよく使う休憩スペースに向かう。そして、そこにある椅子に座らせるとその上に備え付けのブランケットを被せた。きょとん、として俺を見つめるジャンを他所に俺はやかんに水を入れ、火にかける。
「ふ、優しいのな、アンタ」
「……」
ジャンはブランケットに包まりながら嬉しそうに笑った。ため息をつきたい気持ちになりつつも、今度は火が消えて冷たくなっている暖炉に木を追加し、マッチを擦りそれを放り投げる。暖炉にじわじわと火が燃え渡った。
すぐに暖かさを灯す室内。パチパチと蒔が弾ける音と、お湯の沸騰する音だけが俺たちの間を満たしている。
暫くして、ふとお湯が沸騰したタイミングを見計らってジャンに声をかけた。
「…ーーなあ、お前はなんで俺の元に来たんだ…?さっき言ってただろ、やっと会えたってなんだ?」
さっきから気になっていた。なぜこいつは俺の前に現れた?どうしても、その答えを知りたくて素直に疑問をぶつける。
ジャンはまたにやりと笑いーーー
「俺はずっとずっと前からアンタを知ってる。覚えてないみたいだけど、俺たちは昔よく喋ってたんだぜ…?」
「…は?…なんだそれ、俺は…しらないぞ…」
「そりゃそうだろうな。アンタは失っちまったんだから」
ふう、とさみしそうなため息をジャンはつく。どくん、どくん、と俺の心臓は不吉な鼓動を打ち付けていた。俺は意を決して口を開く。
「失った…、なにを…?」
「……俺たちの……、記憶。それとーー…。…なんでもねえ…。とにかく、アンタは昔の俺たちとの記憶がすっぱりないんだ」
「は…、…いや…」
俺はなんだか呆れた笑いが口から出てきて緩く首を振った。記憶がないなんて言われてそう納得できる訳が無い。今確認しようの無いことを言って俺を納得させようとしているのか…?だが、俺もそうやすやすと騙される程馬鹿じゃないからな。
「なら、俺の何を知ってるっていうんだい?」
教えてくれよと挑戦的な言葉を投げつけると共に、小馬鹿にした笑いが口から漏れる。しかしジャンはそんな俺の態度に特に動じることなく、さっきのようにふわ、と笑って見せた。どうしてもその笑いにとても裏があるように見えなくて、俺は内心動揺が隠せない。
「なんでも。アンタの事は俺が側でずっと見てきた。それに……前から知ってるって言っただろ。だから、アンタが女遊びを辞めない理由も、この店を畳もうと考えてることも、アンタの望みも俺は全て知ってる」
その言葉があまりにも衝撃的で、俺は眼を見開き彼を見たまま、何も発する事が出来なかった。瞬間、不吉な予感が当たった事を察してしまう。
「……」
ああ、なんてことだ!
「あ、それと、もう一つの質問の方、なんで俺が此処にきたのかってのには答えられねー。悪りいな」
「………」
「…なあ、俺のこと信じてくれた?」
呆然として何も言えない俺を見て、不安に感じたのか、ジャンがそっと聞いてくる。俺はその声にハッとした。
「……」
答えられない。というより、どう言ったものかわからなかった。
ジャンが例に挙げた「俺の事」は全て見事な迄に当てはまっていて、そのどれも俺は誰かに話した事などなかった。無論、紙になど起こした記憶はないし、独り言を呟くこともしていない筈だ。それをーーこいつは知っていた。それは何故か。
いくら考えたところで、ジャン自身が言っていた「見ていた」というヒントぐらいしか見つけることができない。謎が深まっていくばかりで、俺の目の前で純粋に笑っているこの笑顔が酷く不気味に思えた。
「…まあ、いいや。すぐに信じてくれとは言わねえから!だからさ、暫く俺をここに居させてくれよ」
「………はあ?お前をか?」
突拍子もないことを言い出したこの男に俺の頭はまたも混乱する。さっきからこの男に振り回されっぱなしじゃないか、クソ。
「冗談じゃない。俺に何の得がある?面倒事を引き受けるのは御免だ」
そう言葉を吐き捨て、突っぱねたつもりだったがジャンはそれで跳ね除けるには手強い相手だった。
「何もただでとは言ってないだろ〜こう見えても、料理とか家事なんかも得意なんだぜ。俺をここに置げばアンタも色々と助かると思うケド?」
にやりと向けられた笑いに、まるで自分が何にも出来ない男だと言われたようで気分が更に急降下した。段々と苛々してきて、思わず強い口調で言葉を発してしまう。
「言ってくれるね。あいにくと、料理も家事も自分でやれるだけの腕はあるし、やって貰う人も困ってないから結構だよ。分かったら、とっとと星にでもなんでも帰ってくれ」
しっし、と手で追い払う仕草をすると、今度はジャンの沸点に触れたのか、ムッとして立ち上がり俺に言い返してきた。
「此処に来た理由があるから、それ達成するまで帰れねえんだっつの!…てか、知ってるんだからな!アンタが本当は料理も家事も出来ねえの!それに、オンナだって今日フラれたばっかだろ、意地張るなよ!研究に没頭しすぎて店開くの忘れたぐらいの天体の虫のクセに!」
「なっ、なんで知ってる!ストーカーめ!大体お前にそんなこと言われる筋合いないぞ」
「あるんだよ!いいから俺を此処に置けよ!でないと、アンタが今までしてきた悪行の数々を色んな奴に暴露すんぞ」
そんな脅しの手を使ってきたこの男にいよいよ俺はストレスが溜まってきて眉間にシワを寄せた。ジャンの目を見るとまるで怒った犬みたいな表情でどうやら一度噛み付いたからには離さなそうな面持ちだ。
「はあ……。………。…分かった、そこまで言うほど此処に居たいなら居ればいい。だが、俺の邪魔と面倒事を起こさない事は約束しろ」
俺も折れないつもりだったが、こいつの本気の表情を見て、なんとなくこいつには負けるなと察した。だからこれは仕方ない事だ。
「おう!これから宜しくな、ベルナルド!」
約束を取り付けたが、俺が認めたのに気づいたジャンはぱあ、と花が咲いたように笑う。本当に犬みたいな奴だな…。面倒事を嫌ってはいるが、もうこいつを引き受けた事で面倒事を背負い込んでいるのではと思わなくもないのだった。
「はあ……」
果たして、これからやっていけるのだろうか。先のことを考えると頭が痛い。ベルナルドははあ、と重い溜息をもう一つ吐いたのだった。


つづく

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