小説 | ナノ

  愛してるって言わせろよ


 俺は森の澄んだ空気を肺一杯に吸い込みながら、さっきまで真剣に没頭していた書物から、ふと顔をあげた。さわさわと優しい風の音と、その感触が、俺の頬を優しく撫でる。太陽から森に差し込む木漏れ日が、大地に宝石のようにきらきらと光を落としていた。
 ああ、凄ぇ心地良い。ここには人も居なくて、静かで、とても穏やかで。ここに居ると俺だけが地球上に一人でいる錯覚がして、なんだか気が休まる。――一生ここに住みてえなあ。
 木漏れ日が差し込む森の中、俺は一人本も見ずぼんやりとそんなことを考えていた。
 しがらみもなにもかも全て嫌になって、耐えきれず屋敷を飛び出したのがさっきのこと。そう、俺は家出して此処に居るワケで…。
「はあ…」
 さっきの一連の逃走劇を思い出して顔を顰めると、口からつい、ため息が出た。
 のんびり昼寝なんてしているこの俺の名は、ジャンカルロ。代々由緒ある名家の息子、一人っ子の長男として生まれた俺は…、様は生粋のお坊ちゃま。幼い頃から、何も知らないまま名家の息子に相応しいように、恥じない跡継ぎになるために、この年迄教育されてきた。それなのに、記憶に欠片も残ってない母親は、とっくの昔に愛人を作って逃避行。それを怒った父親は俺に全ての矛先を向け、更に俺の教育に熱を注ぎ、厳しい訓練指導に明け暮れた。ワオ!それなんて昼ドラ? こんな古典的で熱血丸出しのシナリオなんてドラマ監督もきっとびっくりして逃げ出すヨ。
 なーんて巫山戯てみても、やらされる事に変わりはなく。俺は、後をそんな糞みてえな家を無理矢理継がさせられるために、一晩中全ての事柄を、備え付けの家庭教師から刷り込まれて過ごさなきゃならなかった。勝手な外出は全く許されずに家に閉じこめられて、たまに出来たと思えば、あの糞みてえな親に社会の道具として利用されるだけ。けど別に暮らしに対した不自由もなければ、何か酷い扱いをされる事もなかった。
 でも、あの屋敷には全くと言って良い程自由がまるで無え。そんな状態の俺に、当然ダチやら出会いなんて飛び込んで来るわけもねえ。だから、俺はいつも、独りだった。
 …まあ、要するに俺はそれに耐え切れず嫌気が差したワケだケド。それがイヤで、使用人であり俺専属の執事であるルキーノが目を離した隙に、この森まで走って逃げてきたんだから。
 でも…失敗だったかもしれねー、と今更ながら後悔してきた。…出てきたは良いものの、これからどーすっか何にも決めずに勢いで出てきちまったし…。…でも、ルキーノに捕まっちまうとまた引きずり戻されて、振り出しに戻っちまうからヤダし。
 今までのことを悶々と考えていると、思わず転寝ねしてしまいそうになり、俺はふう、と溜めていた空気をゆっくり吐いた。本を閉じて傍に置く。もう、こんな読書なんてやってらんねー…ちょっと仮眠取るか…。ずっと睡眠取ってなかったもんなあ…どうせ煩くから言う奴も、いねーしな。
「………」
 そう決め込んで、俺は背後の木を背もたれにして、ゆっくりと目を閉じた。時折聞こえてくる鳥の囀りや、風の音が心地よく鼓膜を揺らす。はあ、こうしてゆっくり出来るのもかなり久しぶりだよなあ…。
 息を吐いて、そうして眠気に身を任せていると、風の音に紛れて、ゆっくりと此方へ向かってくる草地を踏みしめる足音が耳に届く。
「っ!」
 ―――誰か来る。
 その音に、眠気は一瞬で吹っ飛び、俺はバッと起き上がった。
「ヤベッ……バレたか……?」
 急いで近くの茂みに身を隠して、息を殺し気配を潜める。どく、どく、と騒ぎ出す心臓の音を落ち着けながら、ゆっくりと此方へ向かってくる輩を伺うため、少し顔を上げて茂みの隙間から覗いてみた。けど、そこには唯草木が揺れてるのがみえるだけで、誰の姿も確認出来ずあれ?と俺は首を傾げる。
「っかしーな…、気のせいか…?」
 確かに人の足音がしたと思ったんだけどな…。
 不思議に思って首を捻りながら、悶々と考えていると、
 ―――突然
 ガサッ、と背後から茂みを揺らす音が聞こえた。
「ッ、わ、わ!?」
 驚いて思わず後ずさりしながら、背後を振り返るとそこには―――緑髪を揺らし、黒ぶち眼鏡を掛けたすらりとした体つきの男、俺の親友であるベルナルド・オルトラーニが立っていた。
 ベルナルドとは、俺が初めて屋敷をこっそり抜け出した日に、ある骨董屋で出会った以来の付き合いだ。なんとなく立ち寄った店で、俺がぶつかって骨董を割っちまったのがきっかけで、ベルナルドが俺とたまに会うのが条件で許してくれるっつーから、それからの仲だ。最初はなんだこいつ、って感じだったけど、なんだかんだ言い合いながらも俺たちは気が合って、ベルナルドとたまに会うことがいつのまにか俺の密かな息抜きになっていたりする。しかもベルナルドは骨董屋を営んでる裏で、こっそり薬学を研究しているらしい。なんでも研究することが好きなんだとか。働きながらやりたいことやって…、偉いよなあ、こいつ。日々日常に流されてる俺とは大違いだ。
「お……や…?ジャン…ジャンかい?」
 聞き慣れたベルナルドの優しい声が聞こえてきて、俺は緊張で硬くなっていた身体の力を抜けた。
「…なっ、…んだよう…ベルナルドか…。驚かせんなよなぁ…」
 俺は現れたのが危惧していた人物ではないことに、安堵してほ、っと息を吐いた。
「ごめんごめん。って、なんだい?また屋敷から抜け出してきたのかい?」
 こそこそした俺の態度に察するものがあったのか、ベルナルドは俺を見て苦笑いする。俺はう、と図星を指されて、苦虫を噛み潰したような顔をして、顔を逸らした。
「ン…だってさ…あそこに居たくねえんだもんよ…」
「よしよし。お疲れ様、ジャン」
 もう肩が凝ってしょうがねえし、とため息をつくと、ベルナルドは俺の隣にそっと腰を降ろす。そして、そのまま俺の頭をぽん、と撫でた。向けられた優しい眼差しに、なんだかどき、と心臓が跳ね上がっちまう。うわ、ッ…なんだ俺…なんで心拍数上がってんだ…。
「ッ、んだよ…餓鬼扱いしやがって…」
 なんとなく情けなくなって膝に顔を埋める。なんか俺、いじけてるみてーじゃん…。
「そういう訳じゃないよ。只、最近のジャンは酷く疲れている様子だったから…。また、屋敷で何かあったのかい?」
「………」
 何かあった、という言葉にぎくり、と肩が揺れる。また、図星だ。
 ベルナルド、気づいてたのか…。心配そうに俺を見つめるベルナルドに、嬉しさを感じつつも、…でも、そのままその言葉を冗談で流せるような状態でもなくて―――言葉が返せずに俺はただ、俯いたまま黙って居た。すると、ベルナルドはそんな俺を見て、安心させるように笑うと、またそっと頭を撫でた。
「――ジャン、あんまり無理するなよ」
 ベルナルドは、分かってるんだと思う。俺の本当の気持ちも、屋敷のことも。個人の事だから、俺が何か言わないまでは、深く聞いて来ないようにしてくれてるんだ……でも、何処か一線を引いて、その先に踏み込もうとしない、ベルナルドの心遣いが優しすぎて、痛い―――
「……わーってるよ」
 嫌気を感じて俯いたまま頷くと、曖昧な笑いを返した。
「…つーかさ、ベルナルド…、アンタなんでここにいるんだ?」
 ベルナルドとは今日約束していなかった上に、俺とベルナルドが会うときはいつも店の中だから、ここで会うことはない筈なのに。
「ん?ああ、俺はいつも近道に、ここらを通って店に通っているんだ。もう店じまいをしたから、これから家に帰るところさ」
「え、はあ!?ベルナルドん家、ここら辺なのか?」
 つーか家また別にあったのか……。イヤ、別にそれが当たり前なんだろうケド、俺が訪ねるとベルナルドがいつもあの店にいたから、なんとなくあそこに住んでるイメージが、あったんだよなあ…。
「ああ、ここからそう遠くないよ。もう夕方だ…ジャンは、もうそろそろ屋敷へ帰るのかい?」
「え?」
 ついさっきまで考えていたことを突然突かれて、どき、とする。ふ、と空を見上げるとさっきまで爛々と輝いていた筈の太陽は、もうすっかり傾いて暗くなり始めていた。うわ、もうこんな時間経ってたのか…。さっきまで、心地よかった辺りは薄暗くなり始め、風が強くなってきたせいでざわざわと草木が音を立て、どこか不気味に感じる程だ。
うわ、…もう真っ暗だ…。でも、行くとこなんかねーしなあ。…あー、急いで出てきたから持ち物だって本一冊だけだし…。今日はここらで野宿コースかね…?
「……。…もしかして、帰れない…のか?」
「……え!?…あ、っと…」
 ベルナルドの言葉に諦めが混じった難しい顔で考え込む俺に、ベルナルドはまたもや鋭く察してきた。イキナリ核心を突いた言葉が飛んできて、思わず動揺を隠せずにたじろぐ。なんで、こんな時ばっか鋭いんだコイツ!
「いや、…えと、違う…」
「ハハハ、顔にそうです、って書いてあるよ?ジャンは嘘がつけないね」
 慌てて否定するが、ベルナルドに笑われて逆効果だった。俺ってそんなに顔に出やすいのか…?
「事情は知らないが、そういうことなら、俺の家へ来るかい?」
 わたわたしていると、ベルナルドがそんなことを提案してきた。
「ん…、っ…え!?本当かよ!ベルナルドん家行って良いのか!?」
 そんなことを言われると思っていなくて、驚いて持っていた本を落としそうになる。
「俺は、ジャンさえよければ、大歓迎だよ?」
「行く!行きてえ!」
 思わぬ誘いに頬が緩む。
 野宿かベルナルドの家かっていったら俺に選択肢は無いようなもんだ。速攻で行く宣言するとベルナルドは可笑しそうに笑った。
「じゃあ、行こうか」
 まさか、こんな形でベルナルドの家に行けるなんて思いも寄らなかった。偶然だけど、家を出て此処でベルナルドに会えて良かった、とそんなことをこっそりと考えちまうのだった。
 少し歩くと、本当に遠くなくてすぐベルナルドの自宅に着いた。まだ灯りも着いてないけど、外から見た限り白い壁に茶色い屋根で構成されたそれは、なかなかに綺麗な一軒家だった。俺の家とは違ってある種の趣があるよなあ。
「さあどうぞ」
「…どーもお世話になります」
 中に進められて入ると、パチリとベルナルドの手がスイッチに伸び、灯りが灯された。 眩しさに一瞬目が眩むが、次第に慣れた目で辺りを見回すと、広い玄関の先に廊下が伸び、奥にはリビングとカウチが置いてあるのが見えた。先を行くベルナルドに続いて進むと、リビングの手前に階段があるのを見つける。あ、2階もあるんだな。
 扉を開けてリビングに遠されるとカウチに座るよう促された。
「今暖かいスープを作ってくるから待ってて」
 そう言われて大人しく座りながら、ふ、と辺りを見回すと、絨毯もふかふかで置いている額や置物も職人の手が施された繊細な物が沢山置いてあるのが分かった。詳しくない俺が見ても分かるんだから、此処にあるのは殆ど質の良い品だよなあ。
 やっぱり骨董品もそうだけど、ベルナルドはセンスが凄く良い。骨董屋なんて出来るくらいなんだから、良い品を見極める眼を持ってるんだろう。なんとなくぼんやりとそんなことを考えながら、他に視線を移してみると、小さいチェストの上に、見覚えのある花瓶が置いてあるのが目に入った。
「…ッ、え!」
 薄く水色が塗られた陶磁器の上に白と青のコントラストを目立たせた青い花が描かれている、彩りが凄く美しい花瓶。確か、ベルナルドはあの花を、ネモフィラって言うんだって、言ってたっけな…。小さい割に人の目を引いて強い印象を残すそれを俺は確かに知っていてーーー
 そこに有るはずの無い物に、俺は思わず目を疑った。
「なッ、なあ…ベルナルド。…これって…」
 恐る恐るそれを指差すと、キッチンからひょい、と覗き混んだベルナルドは、あ、という感じに苦笑いを浮かべた。それを見て俺は確信する。ここにある綺麗な陶磁器は間違いなく、俺とベルナルドが出会った日、俺が誤って割ってしまったものだった。
「あ、ああ…。…欠片を出来るだけ集めて、俺なりに修復してみたんだよ」
 とても品の良い、見惚れる程の模様の細部まで修復されていて、あの時割ってしまったのが嘘見てえに形をとどめて居る。あれ…捨てたんじゃなかったのか…。
「良い品だったし、小さいからなんとなく修復できる気がしてね。以外と上手く出来てるだろう?あ、脆い部分もあるから、あまり触らないでくれよ」
「お、おう…つか、そもそもこんな綺麗なの割っちまったの俺だし…、あん時は悪い…」
 ぶつかって割っちまった時の罪悪感が蘇ってきて、つい苦々しい気持ちがこみ上げてくる。そんな俺を察したのかベルナルドは俺が座っているカウチの近くに来て軽く俺の頭を撫でる。
「前も言っただろ、此れがきっかけでジャンと出会ったんだ。今は感謝してるぐらいさ」
「…でも、壊しちまったのは事実だし」
 気遣わせないように優しい笑みでフォローしてくれるベルナルドに有難く感じながらも、俺はこんなに綺麗だったのに、と肩を落とさずにはいられなかった。
そんな俺にベルナルドは優しく笑うと、手を離し、火加減を見る為にキッチンへ戻って行った。
 その後ろ姿を見送っていると、ふ、とキッチンから声だけが飛んできた。
「……なあ、ジャン。この花の名前、覚えてるかい?」
 この花、っていうのは、きっとさっきの花瓶のことだよな。
「え?…あ、ああ…ネモフィラ、だろ?」
 俺はさっき迄思考の片鱗にあった名前を口に出してみると、ベルナルドは遠目から見ても驚いた風な仕草を見せた。よく覚えてたな、って顔すんな。
「そうそう。じゃあ、ネモフィラの花言葉は?」
「うえ?んなの…教えてもらったっけ?」
 またも不意に問題を投げかけられて、はあ?と俺は首を傾げた。花言葉?ネモフィラにそんなんあったんか…つーか教えてもらった記憶ねーんだケド。
「いや、教えてないと思うよ。…分かったらご褒美を差し上げよう」
 教えてもらってないのに分かるわけねーだろ!と頭の中で突っ込みながらも、俺は続けられた言葉に少し関心を惹かれちまう。むむ…ご褒美、か…。なんなのかちょっち気になる。うーん、と思案し始めた俺を見てニヤリと口角を上げる悪人顔のベルナルドが恨めしい。なんならあの時聞いとけばよかったよな。
「…そ、尊敬とか」
「残念、ハズレ。ボーナスチャンスは失敗だな」
 適当に言って見たけど、当然当たるわけなく、嬉しそうなベルナルドにくすくすと笑われる。花屋でもねーのに分かるわけねーだろー。
「あーもう!なら、なんなんだよ!」
 からかうベルナルドに痺れを切らして、正解を求めると、ベルナルドはゆっくりとこう続けた。
「…正解は、あなたを許す、だ」
 ぱち、とベルナルドと視線が合う。俺は驚いて何も言えないで居ると、ベルナルドは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「まるでこうなることが予想されてた見たいだろう?……な?だから、気にすることないんだよ」
「…な、っ、…なんだよそれ…」
 予想斜め上の答えに困惑しながらも、そういう事を言いたかったのかよ、とどこか納得する。
 知らなかった。ネモフィラにそんな花言葉があったのか…。花言葉がそうだからってやったことは、変わらないけど、その話を持ち出したベルナルドの心遣いがじん、と胸に染みた気がした。
「さ、ジャン。スープが出来たよ、食べよう」
「ン……おう」
 そう言うと、ベルナルドは器にスープを移すと、それを持ってカウチの前にあるテーブルに並べ始めた。こと、と目の間に置かれた薄緑色の器の中にはコーンが浮いた黄色いスープが入っている。スープからふわりと香るたトウモロコシの匂いと立ち上る湯気がたまらなく俺の食欲を刺激した。うわ、スゲー美味そう…!
「ハハ、ヨダレ垂れてるよ、ジャン」
 キラキラした目で見つめてたら、隣に腰掛けたベルナルドに笑われる。しょーがねーじゃんよー、今日ここ迄俺ロクに食ってねーし。少し剥れながらも、早速スプーンを手に取って、一掬いするとそれを口に運んだ。
「ン…、うっ…うっんまぁー!何これ凄え美味い!」
 ふわりと口の中に広がるコーンの甘さとスープが味わい深さを醸し出していて美味い。飯もろくに食べずに出て行ったのを思い出して、空腹に俺はそれを夢中で貪る。なんか凄え暖かい、心が満たされるような味だ。俺の屋敷でも雇われコックが飯を作ってくれたりしてたが、こんなに美味いと感じることはなかった気がする。
「そうか、お気に召して頂けたようで、良かったよ」
 ベルナルドはスープに手をつけるでもなく、頬杖をついて、ただ俺の方を嬉しそうに見つめていた。
「…アンタ、食べないのかよ」
「ん?ああ…お腹減ってないんだ」
 にこにこ満足そうに俺を見るベルナルドに、なんだか妙に尻の辺りが落ち着かない。なんか、調子狂うんだよな。
「…いつも、な。暫くここには俺一人だったから、ジャンが居るとなんだか新鮮だよ。…客人がいるっていうのは、なかなか良いもんだな」
「あ…、そうか、アンタ一人暮らしだもんな…。ン…、アンタが望むんだったら、毎日でも来てやっていーぜ?」
 にや、と笑いながら冗談めかしてそういうと、ベルナルドは破顔した。
「ハハハ、それは良い案だな。…なんだか後が怖いけどね」
 アラ、アタシが何かするとでも?失礼しちゃう。でもこういうのベルナルドん家に入り浸る良い機会だよな。笑い合いながらそのままスープを啜っていると、時計を見て、怪訝な顔をしたベルナルドがすっ、と立ち上がった。
「悪い、ジャン。俺はこれから少しやらなきゃいけない事があるんだ」
 そう言って、困った様子のベルナルドに今更ながらマズかったか…?と申し訳なくなる。…今思えばちょっと強引だったよな。俺のせいでベルナルドの仕事の邪魔になることはしたくない。だったらーー、と。
「そなの?忙しいんだったら俺…」
 もう出て行ってもいいぜ、そう言おうとしたが、ベルナルドは静かに頭を横に振りそれを制した。
「いや、大した事じゃないから、ジャンはここに居てくれて構わないよ。すぐ戻る。良ければ二階に空き部屋がある。そこでゆっくりしていてくれ」
「あ、ああ…、おう…」
 頷いた俺を見て、ふ、と笑顔を浮かべたベルナルドは、仕事部屋らしき部屋のほうへ入っていっちまった。
 途端にしん、と静まり返るリビング。ああは言ってくれたが、どう考えても無理させちまってる。最初はうわー、ベルナルドの家行けるんだなあー、っとか…突然の誘いに浮き足立ってた。…けど、実際問題、今の俺はこの状況から逃げてるだけだ。クソ親父のこととか…屋敷の事とか…これ以上関わり合いになりたくねーからって突っぱねて…。挙句にベルナルドに頼って迷惑かけて…。
「なにもかも、中途半端だな…俺」
 さっきまでの、馬鹿みたいに楽しくて幸せな気持ちはすっかり萎えていた。その代わりに、自己嫌悪と失望の念が俺の心を支配していた。
はあ、と溜息が静かな空間にぽつり、と響く。
 ーーだったら……それを変えるのは。
 …だが、…このちっぽけな俺に何が出来る?
 …ーー俺は何をすべきだ?

「……俺はーーー」


*******


 カチャリ。
 ドアのノブを回す良い音がリビングに響いて、俺は振り向いた。
「はあ、あーー…。やっと、終わった…。待たせてすまない、ジャン」
 仕事部屋の扉からベルナルドが出て来て、げっそりやつれた顔をする。
「おう、お疲れちゃーん」
 オ、グッドタイミング〜。流石ベルナルド。
「ああ……、え…。ーーな…!?ジャン…これは…!?」
 テーブルに並べられたソレらを見て、ベルナルドは目を見開くと、驚いた、って顔をする。これはもしかして、という視線に、にや、と得意げな笑みを浮かべた。
「おうよ。勝手冷蔵庫漁っちまってすまねー。あるモンでテキトーに飯作ってみたんだ。アンタ、さっきのスープも飲まなかったし、腹減ってんじゃないかと思ってさ」
 飯出来た直後に仕事終わるとか、本当にグッドタイミングだよなあ。俺はほかほかとまだ暖かい飯の前のカウチに腰掛ける。
「おーい、ベルナルド?…こっち座れよ」
「……あ、ああ…」
 まだ信じられない、と呆けていたが、俺の声にすぐ、ハッとして隣に座った。
「…………」
「あ…もしかして、…その、こういうの…迷惑、だったか?」
 何も言わないベルナルドに急に不安になる。もしかすると…あ、他人が作った飯は食べられねえ、とか?
「いや!そうじゃない。…ただ、ジャンがこういう事をしてくれるなんて…驚いた…。お前、料理出来たんだな…」
「む、失礼ね。これでもコックの舌を唸らせる程でしてよ?」
「そこら辺も教育済みーー…ってことか」
 ははは、と気の抜けた笑いを漏らしたベルナルドはテーブルに置いてあるフォークを手にとって、作ったばかりのパスタをくるりと巻きつけると、ぱく、と口内に運んだ。もぐもぐ咀嚼する。
「…どうだ?」
「ーーっ、…美味い…!…ーー…うん、これは美味いよ、ジャン!」
「ハハッ、だろ?」
 途端にふあ、と頬が緩んだのを見て、嬉しくなる。ベルナルドは飯に飢えていたのか、がつがつと夢中で食べている。こういう飯はあんま食わねーのかな?
「アンタって普段料理すんの?」
 俺ももくもく、と飯を咀嚼し始めながら、ベルナルドを見てしみじみ思ったことを口にした。
「ン…うん?イヤ、最近は面倒でね…」
「だと思ったー、見るからに料理しなさそうだもんなー。さっきも全然食わなかったし」
 図星を突かれてベルナルドは、苦々しい顔をして視線を逸らした。分かりやすい反応に思わず笑みが零れる。
「こうしてジャンが毎日作ってくれるなら、こんなに幸せなことはないんだけどね」
「んもーなに言ってんだよう…」
 はは、と頬を緩めながらそんなことを言うベルナルドを見て、なんだか気恥ずかしくなりくるくるとフォークに巻いたパスタをその口に詰め込んでやる。
「んぐ…っ」
 それを大人しく受け入れもぐもぐと咀嚼するベルナルド。なんか餌付けしてる親鳥のキモチ。
「っ…ん、それはそうと、ジャン。二階の部屋は見てみたか?どうだった?」
「おう、イナフ。むしろ快適すぎてずっとここに住みてえぐらい?」
 二階の部屋、さっきベルナルドにゆっくりしていいと言われた空き部屋は、うおー、と思わず歓声を漏らしてしまうぐらい素晴らしいものだった。何処かの高級ホテル並のふわふわふかふかのダブルベットに、煌びやかに飾られたお高いんだろうアンティークの数々。シルクで出来たカーテンの向こうにはテラスと眺めの良い景色が広がっていた。  ベットに小さめのテーブル、チェストにクローゼット、家具はそのくらいしかない部屋だけど、全く文句の付け所なんてなかった。俺には勿体無さすぎる部屋だっての。
「それは光栄だ。中の物は好きに使って構わないからね」
「…おー、…つか、さ。あの部屋空き部屋ってわりには妙に整ってたケド、…前に誰かが使ってたりしたのけ?」
 そう、俺的には赤毛のアンの屋根裏部屋ほどじゃねーケド、もちっと質素な部屋をイメージしてたのだ。ソレがアレですもの。絶対誰かが使ってただろ、と思わず聞きたかった事が口から付いて出た。
「……あ、ああ…」
 途端ベルナルドは食べていた飯に虫でも入っていた時のようなツラをして言い淀む。さっき迄せわしなく働いていた食事の手もいつのまにか止まっていた。それを見て、しまった、と思った。…俺、地雷踏んだか?
「あー…っと、…悪い。聞いちゃいけないことだったか?」
 黙り込んじまったベルナルドに慌てて謝る。ベルナルドはふう、と溜息を一つついてから少し頼りなく微笑んだ。
「…いや。…その、…あの部屋は、…な、昔付き合ってた女のーー…、忙しくて…今だに片付けられて、なくてな…」
 歯切れの悪いベルナルドの言葉。途切れながら発せられる言葉に俺は全てを察した。そういうことか…。理解した途端、自分の無神経さが露呈して今すぐにでも穴に入りたい気分になってくる。
「………悪い」
 はは、自爆してやんの、俺。
「そんな顔するな、ジャン。もう終わったことだ。それに、あの部屋は今はもう…空き部屋、だ」
 俺を見てベルナルドは優しく、気遣うような笑みを浮かべてみせた。俺がどんな顔してるってんだよ…アンタの方がよっぽど酷えじゃねーか。無理して笑ってるアンタに今の言葉そのまま返してやりてえ。
「……そうだ、誰か客人が来た時の為にとって置いた酒があるんだ。一緒に飲まないか?」
 黙って考え込んでいた俺に、ベルナルドはあからさまに話題転換をして、ボトルを取る為に席を立った。もう話題に出す気も無いってことかよ。冷蔵庫の前で探し物をしているベルナルドの後ろ姿をじっ、と見つめる。それを見ているともやもやというか、なんとも形容し難い感情に支配されていた。なんだこれ…。別にあの部屋でベルナルドと女が同棲してようが、彼奴に付き合ってた女が居ようが、俺には関係ない筈なのに。
「はあ…」
 気がつくと、楽しい気持ちはすっかり萎え、気分は暗く傾いていた。ああ、変な事言い出した俺の馬鹿。小さいため息が俺の口からついて出る。
 …ベルナルドは優しい。
 だから、なのか…ベルナルドは自分の周りに必ず一線を張って、その線から中には入らせない様にしている。森の中で俺を気遣ってくれた時も、今も、ベルナルドはいつだってそうだった。自分から踏み込まないし、踏み込ませない。大切な部分はいつも隠しているのだ。
 けど、俺はそれでも良いと納得していた。誰にだって触れて欲しくない過去がある。忘れたい記憶がある。俺だってそうなんだから、わざわざ人の傷を抉る迄も知る必要はない、そう思っていた。
 …それなのに。…なんだってこんなに、コイツの事気になってんだよ、俺……!
ベルナルドがボトルとワイングラスを手に振り返り、俺の元へ戻ってくる。 なんだか泣きそうに、今すぐ何処かに逃げ出したいような情けなさに顔が歪んだ。
「ほら、ジャン」
 テーブルの上、俺の目の前にワイングラスが置かれる。思わず俯いて、目の前のベルナルドを見ることが出来なかった。コルクを回して、すぐにポン、とボトルから外れた心地よい音が耳に届く。傾けられたボトルからとぽとぽと紫色の液体が注がれるのが目の端に見えた。
「今夜はとことん呑もうか。今日くらいは、酒呑んでうるさく言う奴も居ないさ」
言葉と共に、ワインが注がれたベルナルドのグラスが近づいてきて、グラス同士が合わさりチン、と良い音を立てる。
「乾杯ーー」
「……ン」
 ぐい、とワインを煽り始めたベルナルドを盗み見ると、なんでもないような顔をしやがって幸せそうに笑っている。なんだよ…なんで、そんな何てこと無いような顔してんだよ。何が終わったこと、だ。アンタが今だにその女のこと忘れられてねえって事なんか、バレバレなんだよ。
 テーブルの上のワイングラスを今にでも叩きつけてやりたかった。そして立ち上がって、全てを問い詰めてやりたかった。でも、お前になんの関係がある?それを言って何か変わるのか?残っている理性が逆に俺を問い詰めてきてそれをさせない。
「…ファック……」
 脳内を渦巻く感情と思考に、酷く気分が悪くなってきた。つい、ベルナルドにも聞こえない様な小さい罵声を吐いちまう。それを誤魔化す様に叩き割る勢いでグラスを掴み取ると、ワインを一気に煽った。
「……っ」
 久々のアルコールが喉を通って、身体に染み渡る。脳内にじんとした快感が巡って、思考も全て忘れさせてくれるような心地よさに俺は縋った。はあ、と一つ息を吐いてカタン、とグラスを置くと、すぐに継ぎ足される。
「……アンタももっと呑めよ。今日は嫌って言っても潰れるまで付き合ってもらうぜ」
 ーー今日はもう、潰れちまおう。
 ハハ…大体、俺にはなーんにも関係ねえしなあ。
 訳のわからない心を巣食っていた嫌なものを全て振り切るべく、俺は苦笑いしているベルナルドを余所にわざと声を張り上げた。


 翌日、俺は焼けるような喉の痛みと酷い頭痛で目を覚ました。痛い、気持ち悪い。重い瞼をなんとか持ち上げて辺りを見回すと、あの2階の部屋らしく、どうやら俺は見慣れないベッドの上に横たわっていたらしい。
「……呑み過ぎた」
 一気飲みでタガが外れたのか、その後の状況といったら酷いものだった。軽くワイン一瓶死なせると、ベルナルドが止めるにも構わずにビールをありったけ、浴びる様に呑んで、呑ませた。なんかベルナルドが必死に止めてたとこまでは覚えてるけど…そこからの記憶が全くねえ…。アレ、いつの間にベッドに移動したんだ、俺…?もしかしてベルナルドがここまで運んでくれたんだろうか。
「ン……?」
 俺はゆっくりとベッドから身を起こした。まだ寝ぼけた瞳で辺りを見回すと、見たことのあるアンティークが目に入って納得する。俺が寝ていたその部屋は、ベルナルドが俺に使用を許可し、下調べしておいたあの部屋だった。そこまで考えた後、余計な事まで思い出して、舌打ちしたい気分になる。そうだ、ここ……あいつの、……昔のベルナルドの恋人の部屋なんだよな…。確かに今よくよくみれば、ベルナルドの言っていた様に、部屋にはこっそりと残されたファンシーな置物や、女ものの香水瓶が残されている。部屋にも…微かに彼女のものだったろう香水の残り香が残っているのを感じて、昨日感じた感情が再び思い返され――
「……、っ」
 俺には関係ねえだろ…!
 全てを振り払うように慌ててベッドから出ると、身だしなみを整える。昨日はイラついてたとはいえ、流石にベルナルドに悪いことしちまったしな…。とっとと昨日のことベルナルド謝っちまおう。そう思い、櫛なんてないものかとドレッサーに近づいたところで、 ふと視界に何かが入った。
 あれ……?
 ドレッサー脇にあるテーブル。その上に…さっきは見つけることの出来なかったそれがーー写真立てが置いてあるのが見えた。写真立てに入っているだろう写真は此方からは隠れて見えない。
「な、……んだ…?」
 いや…見てはいけない。見るな。脳がそう警笛を鳴らしていた。ーー俺が見るものではないのだと。
 自然と唾が溜まる。
 しかし、考えとは裏腹に俺の手は好奇心に負けて動いてしまっていた。
 ―――見てえな……。知りたい……。ベルナルドの…アイツの隠しているその内側を、全部………!その衝動と共に再び得体の知れない狂気的感情が俺の心を支配し、手が写真立てを掴む。俺は震える手でゆっくりとそれを引き寄せ、裏返した。
「っ……」
 そこにある物を目にしたその瞬間、俺の身体は金縛りにあったように動けなくなった。
 木製の写真立てに丁寧に挿入されていたそれは、嬉しそうに笑顔を浮かべるベルナルドの姿と、その隣で寄り添うように肩を並べて笑う女の写真だった。昨日二階の話をするベルナルドの顔を見たときよりも、鋭い痛みが、黒い感情が噴出して止まらない。
 ――これ……。ベルナルドの昔の女…、だよな…。付き合ってるときに撮ったのかな…、まだベルナルド全然若えし、この二人凄く幸せそうじゃねーか……。
「………なんだよ、凄え優しそうな人じゃん………、勿体ねーことしてんじゃねーよ、ばーか」
 俺には関係ない……筈なのに―――
 なんで……こんなに痛いんだ。



To Be Continued...

prev / next

[ back to top


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -