小説 | ナノ

  たったひとりの想い人


 きっと誰にでも、人生の分岐点というものがあるのだろう。それは自分が生きる人生で起こりうる数々の選択肢だ。例えばベルナルド・オルトラーニという男の分岐点は彼と出会ったかどうかだったのではないだろうか。CR-5という組織のボスである彼――ジャンカルロ・ブルボン・デルモンテと。
 扉の向こう側から、くすくすと笑いあう楽しそうな話し声が聞こえる。とても幸せに満ちた二人の会話。それを耳にしながら彼は、――幹部筆頭ベルナルドは、目の前にあるジャンの執務室に入る扉の前で、何も出来ずに立ちつくしていた。そんな話し声など無視して、ただ端にさっさと用事を済ませて去ればいいだけの話なのに、彼はそれが出来ずにいた。……いや、する勇気がないのだ。扉を開けてしまったらそこにどんな光景が広がっているのか、それをつい考えてしまうからである。
 組織で第二位の幹部であるルキーノ・グレゴレッティとジャンが恋仲だと知ったのは、この男が書類を手に彼に会いに行った、丁度今のような場面だった。あのとき、不用意にも開けられていた扉の隙間から彼が見たものは、何処かのロマンス映画のワンシーンのように、キスを交わしている二人の恋人。彼がそのときに受けた衝撃は、きっとよほど耐え難いものだっただろう。ベルナルドはあの男よりもずっと前から、ジャンカルロを愛していた。誰よりもジャンという存在に一番近いのは自分だ、という自負があった。あった、――…筈なのだ。しかしそうではなかった、あの男がとっくに全てを奪い去ってしまっていたのだ。彼がそれを知ったとき、どうしてそれを受け入れられる?自分が一番ジャンに近いと、どうしてまだ信じられるだろう。
 なぜあいつなんだ、と思わない日はなかった。どうして俺では駄目だったのだ、と。叶わないものだと決めつけて、想いを告げる勇気もなかった彼がいえたことではないだろう。だが、ベルナルドが想いを告げなかったことを後悔しない事はなかった。いっそ出会わなければよかったのかもしれないと、考えてしまう。そうすれば、こんな惨めな思いをすることもなく、どこぞの知らない女と愛を誓い合っていたかもしれないと。
そのとき彼は確信した。
 そうだ、――そもそも、ジャンに出会ったことが、間違いだったのだ。…と。
 彼にとってジャンカルロという男は、間違いなく己の人生の分岐に関係する男だったのだ。

 ベルナルドは結局、扉をノックすることもなく、ゆっくりとした静かな足取りで来た道を引き返した。手に持っていた書類は、握りしめていたせいでいつの間にか汗ばんでしわしわになっていた。

 ようやく自分の執務室にたどり着くと、部下が留守を気遣って仕事を代行していた。それを休憩してくれ、と労いの名目で部屋から追い出すと、素早く扉を施錠する。それから、彼は机に戻ると椅子に座り柔らかい背もたれに背中を預けた。書類をばさ、と机の上に放り投げると、それはばらばらに散らばる。ベルナルドは全てを投げ出して、今すぐ川にでも身を投げ、全てを忘れ去りたい最悪な気分でいた。
「ふう……」
 自然と口から重い溜息が漏れる。彼は現実を突きつけられて苦しいだけの毎日に、ほとほとうんざりしていた。しかしだからといって、この状況を打開することも、そうそう出来ることではない。分かっているからこそ苦しんでいるのだ。
 ベルナルドは仕事に取り組むべく散らばった書類を纏め、何かを振り切るように万年筆を手に取った。わざわざ見つけなくても、やらなければいけないことは山程あるのだ。それをやっているときだけは、何も考えないで済む。彼はそう思って、早速書類の1枚を取り上げ、その上に筆を走らせた。誰もいない空間に、さらさらと紙の上を走る筆の心地いい音だけが響く。彼はそのひとときの安らぎに思考を預けた。

 コンコン。
 突然ーーーその静寂を破るかのように響いた、扉を叩く軽快な音に、ハッと彼の思考が浮上した。彼は怪訝な顔をしながら視線をそっちに向ける。部下か誰かが邪魔をしにきたのか、と。
「べーるなーるどー、いるかー?」
 けれども、予想は大幅外れて、聞き慣れた声が聞こえてきた。聞き間違えるはずもない、――ずっと思考を占めていた彼――ジャンの声だ。ベルナルドはどきりと心臓が跳ね上がるのを感じる。しかしそのせいで、直ぐには返事が出来ずに、彼は数秒目を伏せた。きっとさっき渡すはずだった書類を取りに来たのだろう。用が済めばジャンは出て行くのだと分かってはいても、アレを見てしまった後では、彼はどうにもジャンの前で平静を装えるか自信がなかったのだ。今こんな状態でジャンと逢いたくないーーなのに、来てくれて嬉しい、と逢いたがる自分が居る。矛盾しているな、とベルナルドは自嘲気味に笑う。ああ、こんなことならさっき無理してでも渡しておけばよかった、と思うが今更もう遅い。けれども会わないわけにもいかないかと、小さく溜息ついた。
「ジャン……入ってくれ」
 直ぐにベルナルドは扉の施錠を外し、扉を開いた。ジャンが執務室にゆっくりと入ってくる。それを横目で確認すると、また扉を閉めた。
「書類を取りに来たんだケド」
 そう切り出したジャンの視線から逃れるように、彼はそそくさと執務机に向かう。
「ああ…すまないね、直ぐに渡すよ。そっちでコーヒーでも飲んでてくれ」
 辺りをキョロキョロ見回してからジャンは、ベルナルドが進めたソファーに腰を下ろした。そしてテーブルに置いてあったコーヒーを手に取る。
「ン?アレ、部下いねーの?」
「…ああ、今休憩に行ってるんだ」
 ベルナルドは不自然にならないように、なんとか平静を保とうと答える。どもってはいないだろうか。手のひらがいつの間にか小刻みに震えているのに気がつく。なんだ、俺――柄にもなく、緊張、してるのか。
「ふーん」
 ベルナルドは椅子に座って書類を整理しながら、なんでもないような顔でコーヒーを一口啜るジャンを盗み見た。ジャンの唇は紅く色づいていて服の襟からちら、とルキーノのに付けられたであろうキスマークの跡が見える。そんな名残がありありと見えているのに、輝く太陽のような金の髪だけが相変わらず美しくて、なんだか泣きたくなった。そんな思いを振り払い彼はさっさと書類を纏め、束にするとカポの前まで行き、その書類をさっと手渡した。
「はいよ、遅くなってすまなかったね」
「ン。べつにヘーキよん」
 ニコリと笑顔を向けて書類を受け取る。ジャンはカップを置くと、おもむろに立ち上がった。
 もう帰るのかとベルナルドが考えていると、その脚はベルナルドに近づいてきて、彼の前で止まる。かと思うと、ベルナルドの額にジャンの手のひらが伸びて、ひた、と触れた。思わずびくり、と体が反応してしまう。
「なあ…アンタ、顔色悪いぜ?大丈夫かよ?」
 あ、と思うと同時に、蜂蜜色の瞳が心配そうにゆらゆらと揺れる。触れた手のひらからジャンの体温がじんわりと伝わってくる。まるで熱を帯びたようにじくじくと――ジャンに触れられた箇所が熱くなった。
―――ああ、いっそのこと、今すぐ彼をこの手に閉じ込めて、逃げないように縛ってしまおうか。
眼鏡のレンズ越しにジャンを見つめていると、ふとそんな嫌な考えが頭をよぎった。
「ッ、……平気だ」
 それに脳が慌てて警笛を鳴らす。ハッ、としたベルナルドは手のひらを拒むかのように、目を伏せ、ジャンの手首を掴んで離すと、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。ああ、こんな考えなど俺らしくもない、――できるはずがないというのに。
「そうか?ベルナルド…あんま無理すんなよ?」
 優しく気遣うような声色でそう言うジャンの顔を、どうしても見ることができないベルナルドは、見えないように顔を隠し、口元だけ笑って見せた。 ああ、どうか。そんな優しい声で俺を呼ばないでくれ。笑顔を俺に見せないでくれ。今ジャンを見たら――箍が外れてしまいそうだ。さっき考えたおぞましい行為をしてしまいたくなる。
「ああ、……ありがとう、ジャン。気をつけるよ」
 ベルナルドの全身からは、気持ちの悪い汗がどっと噴き出していた。それでも彼は必死にジャンに笑顔を取り繕う。幸いジャンに、考えていることは知られていないようだった。
「ン、そろそろ俺行くわー、じゃあなー」
「……あ、ああ、またな」
 ジャンは心配そうだがどこか爽やかに笑い、書類を手に扉を開けて出て行った。パタン、と扉が閉まる音にふ、と肩の力が抜け、ベルナルドはまた椅子の背もたれに身を預けた。
「はあ……」
 何度目か分からない溜息が、口から自然と出る。一人になったことに心から安堵した。彼はそっとジャンが触れた自分の額を確かめる。じんわりとジャンの体温の名残を感じて、ズキリと心臓が痛んだ。
 ――痛む理由など、すでに分かり切っていた。
 彼はジャンカルロだけを愛し、叶わないと知りながら思い続ける、という一番苦しむだろう道を自ら選んでしまった、哀れな男――ベルナルドである。だが、それも至極当然のことなのかもしれない。彼はジャンにあった瞬間、他の人生など捨て去っても構わない程、ジャンに、‘恋’をしてしまったのだから。ベルナルドには例え苦しい片思いだろうが、もう彼以外を愛するなどできない。他の男にジャンカルロの心を奪われた今、苦しみながら想い続けることしか、彼にはできないのだ。きっと彼はジャンカルロという男を死ぬ迄、愛し続け、いつしか彼を愛したことを誇りに思うだろう。それが彼の選んだ道なのだから。
 ベルナルド・オルトラーニという男は哀れだが、誰よりもジャンカルロ・ブルボン・デルモンテを愛していた、男だった。



END

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