08
神田と少女は海岸を散歩していた。
心地よい風と波の音、潮の匂いが気持ちいい。神田は少女の手を取りながら砂に足を取られて歩くのに苦戦している姿に小さく笑っていた。相変わらず歩いたり走ったりするのに転倒は付き物の少女だが、それに構わず少女はよく動く。今もぐらぐらと揺れ、
『っひゃっ!』
かくんと膝が折れた瞬間、神田が支えてやるのは恒例行事だ。神田に腰を支えられ少女は持ち直す。
「相変わらず下手クソだな、お前……、」
と言ったところで神田が止まる。少女は首を傾げ神田を覗き込めば、神田が気まずそうに咳払いをした。
「…お前の名前、聞いてない。」
『あ…。』
神田の言葉に少女は気付く。そうだ。彼に自分の名前を教えていない。いつも「おい」とか「お前」で呼ばれて不自由もなかったため教えるタイミングを無くしていた。少女はにっこりと笑って胸を叩いた。……当ててみろ、ということなのか。神田は少し考えた後、少女を指差した。
「…クリス」
『ブー』
「マリー」
『違う』
「キャシー」
『全然違う』
「グッピー」
『熱帯魚か』
「魚その1」
『名前じゃないし!』
「わかった。魚民。」
『飲み屋か!』
全然違うじゃないか!とバシバシ叩く少女を神田は意地悪く笑って受け止める。一通りそれを受け止め少女の細腰を抱き締めた。そして小さな頬を包んで親指で唇を撫でた。
「お前の名前は、お前の口から聞きたい。」
そう言って唇を落としてきた神田は笑っていただろうか、それとも真剣に言っていただろうか。少女が確かめたくても足腰がとろけてしまいそうな濃厚なキスにそれどころじゃなくなってしまう。歩くのが下手で足ががくがくしているのではない、これは、彼の貪るようなキスで───────
「そ、そこまでだ人間…!」
神田のキスに落ちる一歩手前、引き留められるように懐かしい声が海から聞こえた。少女は夢を見ていたようなとろけた瞳をそちらに向けた後、見えたその人物に目を見開いた。
あれは、
『コムイ兄さん!』
ポセイドンの印である三叉の戟を片手に現れたのは少女の兄だった。大きな岩にどっしりと構え、先程のキスを見ていたのか顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。
「なんだ、知り合いか?」
『神田逃げて!兄さんはポセイドンの名を継いだ海の主神よ!』
そう訴えたくても声が出ない。少女は声の出ない喉を抑えて悔しげに唇を噛んだ。そんな少女に神田が舌を打って腰の愛刀を抜いた。
「…どこの誰だか知らねぇが…切る…!!」
「どこの誰だって!?僕はそこの人魚姫の兄!科学班室長…じゃない、海の主神ポセイドンのコムイだ!」
「ポセイドン・ノ・コムイ!例え神だろうがコイツを苦しめるやつは殺す!」
「おしい!すごくおしいけど違う!でもとにかく妹は返してもらうよ!」
コムイの戟が光る。まさか兄さんはあれを召喚する気!?と少女は神田の服を引っ張った。しかし神田は退く気はないとばかりに六幻を構えている。
『やめて…!兄さんも神田も!やめて!!』
「コムリンッ!召喚ーーー!!!!」
三叉の戟が強い光を帯びる。眩しすぎて目が眩む。そして……、
「兄さん!!見付けたわよ!」
「はっ!リ、リナリー!?」
「また仕事サボって!リーバー大臣が泣いて遺書を書いてたわよ!」
「さ、サボってない!今回はサボってない!見て!家族のために僕が一肌脱いで…!」
「一肌よりも鱗が剥げる程仕事してよね!」
「鱗…!?それ結構痛くない!?それあれだよ爪剥ぐと同じレベ…っ痛ー!!」
岩の上にどっしりと構えていた海の主神は後ろから現れた、少女そっくりの可愛らしい人魚に(尾びれで)蹴られてボチャンと落ちた。神田はそんな光景に遠い目をし、少女はそんな光景に涙していた。
「人魚姫、」
少女そっくりの人魚に呼ばれて少女は顔を上げた。少女と人魚は似ていた。それもそのはず、彼女は少女と双子だった。少女は双子の人魚に近寄り、そして抱き締めた。
「ミランダから全部聞いたわ。」
『リナリー……』
「もう…、決めたの…?」
『うん。ごめん。』
服が濡れるのも構いなしに少女はリナリーを強く強く抱き締めた。少女とリナリーはしばらく抱き締め合い、別の世界を生きることに決めた片割れにどちらともなく涙を流した。その時、
少女達の涙が輝いた。
「!?こ、これは…!」
『なに…!?』
輝いた涙は光の結晶となり、少女の目の前で強く光った。
(この光りは…、)
この光りの輝きは覚えがある。
これは、これは…、
『イノセンス…。』
声の出ない声でその名を口にし、少女は光りを手に取った。光り続けるそれはまるで少女に何かを促しているようだった。少女はその光りに導かれるように、心で強く願った。
(イノセンス、お願い…)
彼と、
彼と一緒に生きたい…!
少女はぐっとイノセンスを呑み込んだ。イノセンスは少女の口に流れ込み、喉の内側を照らした。
『っあぁ…!』
「人魚姫っ!」
(い…痛い!喉が焼けついて…!)
ずるり、とリナリーの腕から落ちる少女の腰を神田が抱き止めた。苦し気に喉を掻きむしる少女の手を神田が抑え、光りが治まるのを見送った。
『んぅっ…!』
少女が一段と苦し気な声を上げて顔を仰け反った。神田は少女の手を握り締めた。そして死なせたくない、死ぬな、と強く強く思った。
(俺はコイツと生きたい…!)
すると光りは収束し、鈴を鳴らしたような音を響かせ、飛び散った。
少女の伏せられた長い睫毛が持ち上がる。そして、桜色の唇が、息を吸って開かれ、握っていた手を優しく握り返した。
「神田……。」
少女の笑顔と共に。
「…っ!……馬鹿野郎…っ」
神田は自分の名前を呼んでくれた少女を力強く抱き締めた。少し痛いと感じる彼の腕は、とても温かい。
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「それじゃぁ、元気でね。人魚姫。」
「うん。リナリーも元気でね。」
海の主神ポセイドンの首を締めながらリナリーはにっこり笑い、少女もにっこり返した。そして、兄にも。
「兄さん、色々心配かけてごめん。私、幸せになるから…。」
「に、人魚姫…!ほ、本当に人間なんかと暮らすのかい?」
「うん。」
「禁忌だよ!?」
「もう人間になっちゃったし。」
「人間は魚を食べる野蛮な生き物だよ!?」
「俺は魚より蕎麦が好きだ。」
「……ぐっ!」
神田の言葉にコムイは押し黙ってしまった。いや、むしろ神田と妹がピッタリと抱き合ってる姿がもうどう否定しようもない。今は海に体を半身浸からせているから見えないが、きっと海面下は手を繋いでいるに違いない。コムイはリナリーに首をしめながらもゆっくりと目を伏せた。
「僕は…人魚姫が幸せならそれでいいんだ…。」
「兄さん…。」
「リナリー、帰ろう。」
コムイは寂しげにそうリナリーの腕を叩いて、リナリーは「そうね」と頷き、二人に背を向けた。すると、
「ポセイドン・ノ・コムイ!」
「…なんだい人間。」
神田が背を正した。
「お前の妹を俺に寄越せ!」
「すげー上から目線!キミ実は物凄く馬鹿でしょ!!!!」
「…必ず幸せにする……。」
「…………………、」
神田は少女の肩を抱き寄せた。
少女の瞳はかつて兄が見たこともないような、女性の瞳をしていて、コムイはそんな少女と神田に苦笑した。
「当たり前だよ。」
泣かせたら承知しないよ。
そう残して少女の兄妹は海へと帰って行った。少女はもう見ることができないかもしれない兄妹が消えた海原をずっと、ずっと見つめていた。
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。○
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「王子……」
海から引き上げた後、二人ぐっしょり姿で帰城すればアレンが神田をじっとり睨んだ。
「余程お好きなんですね、野外プレ…」
「今すぐ死ねモヤシ…!!」
野外プレ…?と首を傾げた少女に神田は何でもないと言って「今すぐ風呂と着替えの準備!」と告げてアレンを下がらせた。神田は深い深い溜め息を吐いて、こちらを見上げる愛しい存在を抱き締めた。
「…そう言えばお前、人間は魚を喰う野蛮な生き物って言われて育ってたのかよ。」
「え?うん。人魚はみんな人間のことそう思ってるよ。」
「…そうか。」
神田は少女の言葉に小さく頷き、ニヤリと笑った。
「あながち間違ってはないな。」
「え…?ぁ、んっ」
神田は腕の中の小さな人魚に唇を落とした。今度こそ、二本の足でも立てないくらいに。
「んっ、……はっ」
呼吸を与えない程の長く、甘く、とろけるキスを。
「…ふ、……ぁ…っ!」
かくん、と今度こそ落ちた少女の体を神田は支え、抱き止めた。二人の唇からは銀色の糸が紡がれていた。
「か、かんだ……、」
「お前の名前、やっと聞けるな。」
「…っ」
耳元で囁かれて少女の体が足先までぞくぞくと痺れた。少女は紅潮した顔を隠すように神田に抱き付き、肩口にその顔を埋めた。
「わたし、私の名前は……、」
そして彼の耳元で、
吐息混じりに一文字ずつ、
小さな口を動かした。
『ナマエ』
鈴を転がしたような愛しい声に神田は口を歪めた。少女の名前を小さく何度も何度も繰り返し、噛み締める。
そして、人間は人魚にかぶり付く。
まるで、
「骨まで喰ってやるよ。」
とでも言うかのように。
に
溺
れ
た
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