07
人間界の朝陽はこんなにも眩しいのか、と少女は気だるい体を起き上がらせた。
「……………………。」
足はまだある。どうやらいつ人魚の姿に戻る心配より、いつ人魚の姿に戻れる心配をした方がいいらしい。結局昨日は人魚の姿に戻らなくて今海に戻っても溺れ死んでしまうという事で一夜泊まることになった。
少女は重い体を引き摺って「起きたらこれに着替えろ」と言われた服に手にかけた、が、
視界がぐらりと揺れた。
(気持ちが、悪い…。)
視界が揺れたそのまま少女は床に倒れた。その時、着替えがかかった椅子を掴んでいたため椅子まで倒れてしまい、大きな音が城に響いた。
「…風邪だ。昨日あんな格好でふらふらしてるから。」
『カゼ…?これが…?』
少女はずるずると鼻を鳴らし初めての風邪に咳を繰り返していた。そのたび神田が少女の頭をゆっくりと撫で、少女は気持ち良さそうに目を細めた。
「ミルク粥を作らせた。喰うか?」
神田の声に少女は力無く頷いた。はふ、と口から熱い吐息を出した少女に神田は苦笑する。ただの風邪にこんな死にそうな顔をして…、と少女が起き上がるのを手伝ったが、声もなく咳をした少女に神田は思い出す。そうか、彼女は人魚だった。『風邪』という症状を知らないのか。昨日の夕飯もどこかぎこちない様子で食べていたのはフォークとナイフの使い方を知らなかったからか。神田は粥をすくったスプーンを軽く冷ましてから少女の口元へ持っていった。
「あ。」
『あ…?』
「そう。熱いまま飲み込むなよ。」
温かい粥が少女の口一杯に広がった。パンが入っただけのミルク粥だが、少女には初めての味だった。人間界の食べ物だ…と、もっと味わいたいのだが、如何せん鼻がつまって味がしない。(昨夜は言われた通り海藻をたくさん頂いて人間界の料理はあまり食べていない。)
「ん?もういいのか?」
『うん。』
「お前、チビなんだからもっと喰え。」
『…いらない。入らない。』
「……あと一口ぐらい喰っとけ。」
『んぅ……』
「……あ、」
嫌がる少女に無理矢理スプーンを突っ込んだからか、ミルクが少女の口端から零れた。ぱたた、と寝間着を濡らしたが、少女は口の中のものを飲み込むのに必死だ。神田は拭こうにも両手に皿とスプーンを持っていて、しかもタオルを持ってくるのを忘れた。
「……………………。」
神田は妙な沈黙を一人で作った後、この部屋に誰もいないのを確認してから椅子から腰をあげた。そして、少女の口端から零れたミルクをペロリと舐め上げた。
『っ!』
流石のその行動に少女は顔を真っ赤にし、神田を見た。神田はそんな少女をちらりと見た後、すぐに下を向いて小さな声でこう言った。
「…俺が喰わしてやってんだ……。零すな。」
少女は自分の顔がだんだん赤くなっていくのを感じた。そして心臓もトクントクンと高鳴る。これは風邪のせいなのだろうか。これが風邪の症状なのだろうか。少女は長い睫毛を震わせ、静かに目を伏せた。
やっと少女の部屋から出てきた王子にアレンが声をかける。
「王子、加減はどうですか。」
「あぁ、今薬が効いてきたのか眠ってる。」
「…はぁ、朝から組んず解れつ……」
「どうしたらそういう解釈になる。」
むしろその顔のどこからそんな言葉が出てくるやら。神田はアレンの言葉に嘆息し、小さく呟いた。
「お前、あの日の事覚えてるか?」
「あの日…?…嵐の夜の事ですか?王子が海に落ちて流木に頭をぶつけ気絶しながらも生きてやがった話ですよね。」
「……ほぉ。」
アレンの言葉に思わず腰の愛刀に手が伸びるがなんとか抑えた。
「俺を助けたのがアイツって言ったらどうする。」
「…どうもしませんよ。」
「人魚っつったら。」
「…人魚?」
神田はあの日、岸部で少女を見たことを思い出した。優しい手付きで顔に張り付いた前髪を分けてくれて、目覚める前に海に逃げようとしていたのを慌てて掴んだ。ぬるっとした感触に人じゃないのがすぐにわかった。一瞬ワカメでも掴んだのかと思ったが違った、宝石を散りばめたかのように美しく光る鱗だった。
「…彼女が人魚というなら……、彼女は人魚に戻るために貴方を刺さなきゃですね。残念です。」
「残念ならもっと残念な顔をして言え。」
最初こそこの世の終わりのような顔をして自分を見つめていた少女だが、少ししたら自分でも気付いてなかった怪我を心配された。白い指先が血で濡れて、汚してしまったような気分になった。
「いいんじゃないんですか。」
「あ?」
「彼女が何者であろうとも、貴方の心はもう傾きかけている。」
「………………モヤシ…。」
「僕は安定した給料を頂けるならバ神田が魚と結婚しようが何でもいいんです。」
「お前、クビ。」
陽が沈んで、神田は少女の部屋に入った。
少女はすっかり良くなったのか、神田が部屋に入った途端に駆け寄ってきて、神田は思わずそれを抱き締めた。
「お前、寝てなくていいのかよ。」
神田は苦笑しながらそれを抱き上げてベッドに寝かせた。首筋に触れれば少女は擽ったそうに身を捩り、伝わった体温は平熱だった。ほっと一息吐けば、今度は途端に大人しくなった少女に「どうした、」と首を傾げる。すると少女の白い手が自分の額に伸びた。
「?」
『……大丈夫?』
壊れ物に触れるように、少女の指先が巻いてある包帯に触れた。流木にぶつけた時の治りかけにただ包帯を巻いているだけだ。神田はそれに「あぁ、」と頷いて包帯をほどいた。
「もう治った。」
『本当?痛くない?』
今度はぺたぺたと触れてくる少女につい口が緩んでしまう。アレンの言葉が神田の頭の中に響いた。
『彼女が何者であろうとも、貴方の心はもう傾きかけている。』
神田は少女の手を取った。小さくて細い手。黒目がちの大きな瞳が神田を閉じ込める。神田は目を細め、あと数センチの隙間を残して少女の口元で囁いた。
「…嫌なら拒めよ。」
唇が触れ合った。
柔らかな弾力、微かに鳴ったリップノイズ。
紅潮した少女の顔。
「本気で嫌がらないと、またするぞ。」
嫌がるにも何も、手首を掴まれていてそんな事できようにも無理だ。しかし少女はそれを振りほどこうともせず、ふっくらとした桜色の唇が微かに動いて、綻んだ。ただ熱っぽい瞳が恥ずかしそうに神田に向けて細められた。
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