恋に溺れた人魚姫
「王子、知っていますか?この海には人魚が住んでいるそうですよ。」
ぐらぐらと揺れる船の上、白髪にも銀髪にも見える少年が、この大きな船の持ち主である青年にそう言った。美しく長い黒髪を一本に結い上げたその青年は涼しげな瞳を付き人である白髪の少年に向けて鼻で笑った。
「人魚?んなものいるわけねぇだろこのクソモヤシ。」
「なんだとこのバカ王子。」
モヤシと呼ばれた少年は、偉そうに椅子に腰掛ける青年ににっこりと笑ってそう返した。
「人魚の血を飲めば不老不死になるそうです。まぁ、腹を刺されても死なない万国ビックリショーみたいなバ神田には人魚なんて不必要な話ですよね。」
「はっ、人魚の不老不死なんかに頼るのはせいぜいテメェみたいな若白髪の死にかけぐらいだろうな。あと王子つけろ。」
「いえいえ、こう見えて僕、脱ぐとすごいんですよバ神田王子。」
「着太り的な意味で、だろ?バはいらねぇよモヤシ。」
バチバチと火花が散っているように見える王子と付き人の会話に船員はがくがくと震えていた。
そしてそんな賑やかな船の外、一人の少女が船の僅かな隙間からその様子を覗いていた。少女は黒目がちの大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ興味津々に船の中を覗いていた。
(あれがニンゲン……。)
艶やかな黒髪を一つの団子にして結い上げ、ほっそりとした体をそのままに胸当てだけを体に身に纏っているその体には足がない。その代わり、宝石を散りばめたかのように光る瑞々しい鱗が付いた尾びれがあった。人は彼女を人魚と呼ぶ。
(人間は魚を食べる野蛮な生き物と聞いていたけど、尾びれがないところを除いたら私たちとまったく同じね。それに…、)
人魚は王子と呼ばれた人間に目を止めた。
(あの王子…。すごく美形。)
知り合いの男人魚にもあれほど端正な顔立ちをしている人魚はいない。あの人間がもし人魚だったらいくら色恋に疎い自分でも胸を高鳴らせていたかもしれない。しかし彼は人間。
人魚は、ま、どうでもいいけど。と瞬きをしたその後、星のない曇天が唸った。
(嵐だ…。)
海面に上がる際に兄と双子の片割れが言っていた。今夜は嵐になるから早く帰ってこい、と。人魚は仕方ないとばかりに船の縁から海へと飛び込み、なかなか興味深かった船を見上げた。とても大きい。鯨ぐらいあるかもしれない。
船の上では荒れてきた波に船員達が精一杯帆を畳んでいる。その中、あの王子も船員に混じって縄を引いていた。いつの間にか降ってきた雨に綺麗な髪がぐっしょりと濡れてきている。
(やっぱり、かっこいいなぁ。)
人間も人魚と同じ価値観を持っていたなら、彼は相当モテているだろう。しかも銀髪の少年は彼を「王子」と呼んでいた。引く手数多であろう彼が少し羨ましい。
人魚は溜め息をつく。一応、名前ばかりだが実は自分も王家のものだったりする。兄が若くして海底を統べる「ポセイドン」の名を継いでから自分(と双子の片割れ)は周りから姫と呼ばれている。しかし物腰柔らかく実に可愛らしい片割れと打って代わり、自分は随分跳ねっ返りらしい。毎日毎時とばかりに求婚の声がかかる片割れに比べ、自分はまったく声がかからない。(もし声がかかったとしても受けるつもりはないのだが。)同じ双子なのにどうしてこうも違うのだろうか。しかし、だからと言ってこの人魚は片割れの事を嫌ってなんかいない。むしろ愛している。だが、昔から出来のいい片割れにコンプレックスを抱いているのが正直なところだった。
(はやく帰ろう。)
バシャバシャと嵐で荒れている波が激しさを増し、ザブザブと人魚の顔を濡らす。人魚は船上で嵐に慌てふためく人間達を最後に見て海の中に戻ろうとした。
その時、
「ッ神田!!」
あの付き人の声が聞こえたその後、波の音と一緒に何か落ちたような音が聞こえた。
(え…?)
船上では王子、王子、と声が上がっている。まさか、海に落ちたのは王子なのか。しばらく人魚はその様子を見つめていたが…、王子が上がってこない。人間は足をばたつかせ不様に泳ぐと聞いたが。人魚はまさか、と海に潜った。
そして、
(いた!)
下へ下へと沈んでいく人間の王子を見付けた。まれに泳げない人間がいるとも聞いた。彼はそれなのか、と心配になり近付いてみると、彼の頭から赤い血が海に混じって流れている。目は苦し気に強く閉じていて、口からはがぼがぼと息が出ていっている。
(に、人間って海じゃ呼吸できないんじゃなかったっけ!?)
人魚は一応人間の意識が完璧にないのを確認してから、その体に腕を回した。
(この人王子なんだよね!?死んだらマズイんじゃないの!?)
人魚は人間の体を波に浚われないように強く抱き締めて岸辺目掛けて泳いだ。一瞬、海面へと引き上げてやろうかと考えたが、そうしたら他の人間に自分が見られてしまう。人魚は必死に泳いだ。魚を食す人間は野蛮な生き物だと、近付いてはいけないと昔から聞かされていた言葉。しかし、彼を死なせてはいけないと人魚は必死に泳いだ。
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