追い掛けた約束(5/6)


お兄ちゃんに対しての気まずさを隠すように、昨日彼と繋いだ手を袖に隠して私は涙を拭った。私は泣いている。お兄ちゃんの前で。何故かと問われたら答えは簡単だ。私は彼に別れを『告げることができなかった』のだ。お兄ちゃんはそんな私に怒るのも同然で、お兄ちゃんはソファに座って静かに怒っていた。


「俺は言ったよな。昨日までに別れろって。」

「ごめん、なさい…」


その静かな怒りが怖い。部屋全体が凍ってしまったかのように空気が私の肌を刺す。どうして先日帰ってきたただの親戚のお兄ちゃんにそこまで言われなくちゃいけないのか、という感情は既に麻痺していた。有って無いような感情になってしまった。


「お前があの男に向ける感情は間違いだ。あれはあいつに向けるものじゃない、俺に向けるものだ。」

「ごめ、なさい」


ソファから立ち上がったお兄ちゃんに私の体は震えた。一歩一歩ゆっくりとこちらに近付いてくるお兄ちゃんにドアを背にしているのだからそこから逃げればいいのに、私の体は動いてはいけないと私の足を床に縫い付ける。


「俺にあの男の性格が1ミリ程度似ているだけだ。だからお前は錯覚してる。あれが俺だと思ってるんだ。」


私の目の前に立って、お兄ちゃんは腕を私に伸ばした。びくっと震える私を構わず、お兄ちゃんは私の手を取った。昨日、彼にいつもより強く握られた手を、優しく。


「あれは俺じゃない。俺はお前に、こんな事はしない。」


お兄ちゃんは私の手を頬に当て、慈しむように撫でた。撫でると袖はずれて私の手を露わにする。爪の引っ掻き傷が残る手を。抉るような赤い線をお兄ちゃんは優しく口付けてくれた。


「俺の以外のやつに心を許すな。お前は俺だけのものだろう。」


引き寄せられた腰に私はお兄ちゃんの胸に抱き付いた。「ナマエ」と囁かれた声に全身が力を無くしていく。

そうだ、この声だ。

小さい頃、お兄ちゃんの背中をひたすら追い掛けていた記憶がある。お母さんとお父さんは仕事で忙しくって、その代わりに隣の住む親戚のお兄ちゃんに私は面倒を見てもらっていた。ここのあたりでも有名な進学校の制服を着たお兄ちゃんは決して面倒見のいい優しい人とは言えなかったが、私を一人には絶対にしなかった。縋るものがお兄ちゃんしかいない。私の世界にはお兄ちゃんしかいない。だからお兄ちゃんに好かれようと一所懸命お兄ちゃんが求める子供であろうと思った。お兄ちゃんの背中を追い掛けて、こけても、追い掛けて。そしたらお兄ちゃんは、私の名前を呼んでくれるかなぁ。


「おにいちゃ、が悪いんだもん…、わたし、ひとりにして、どっか、いくからっ」

「…悪かった。」

「どうして、勝手に、どっかいっちゃったの、わたし、ずっとさびしくって」

「悪い、だから帰ってきた。」

「思ってないよ…!ずっと、ずっとずっと、さびしかった…!」


言うことをきちんと聞けば、ぽんと頭を撫でてくれる手があった。手を伸ばしたら、追い掛ける背中があった。いつの日か、それが急に無くなってしまって、私の心は拠り所が無くなってしまった。いつかその拠り所は違う誰かを代わりにして転々と移り、彼に出会ってしまった。彼は私を一人に決してしなかった。…違う、一人にしてくれなかった。お風呂に行くのもトイレに行くのもおやすみするのにも逐一彼への連絡が必須だった。部屋には毎日行く。自宅に帰る間もひたすら連絡を続ける。連絡が無ければ自分は大学があるのにも関わらず私のところへ押し掛ける。彼は、私が彼の気に喰わないことをすると痛いことはするが、それが終わったら優しく撫でてくれた。


「あれは俺じゃない。俺はここにいる。」


再度お兄ちゃんは、俺はお前にこんな事をしないと言った。そして、あの彼に厳しく折檻された結果傷付いた額、こめかみ、ふともも、手の甲、そして昨日の手の傷と一緒に新しく増えた口端に、キスをした。


「ちゃんと別れられるか。」

「うん…。そしたら、お兄ちゃんまた一緒にいてくれる…?」

「そのために帰ってきた。」


耳元で囁かれる声は私を責めている声音だった。だけど抱きかかえてくれる腕はとても温かく優しくて。その温度差がひどく心地良かった。目が合い自然と重なる唇を拒む必要はもう無かった。むしろお兄ちゃんを前に私は拒む権利などない。昔からそう、教えられていた。私がお兄ちゃんに対して嘘を言えず正直に話したこと、お兄ちゃんの命令に対して逆らうことができないこと、お兄ちゃんへの微かな恐怖心は、私の小さい頃の記憶。私が覚えていなくとも脳と体が覚えていた。どうして忘れていたんだろう。どうして他のもので補おうとしていたのだろう。私の脳と体はお兄ちゃん意外求めていなかったのに。心はずっと、ずっとずっと、この声で名前を呼んでもらうことを望んでいたのに。


「お兄ちゃん、ごめんなさい…。」

「俺も、悪かった。」

「もう、ずっと一緒…?」

「ずっと一緒だ。」


離してやらねぇよ、ナマエ。の言葉は苦さを残す甘いキスと一緒に私の体を蕩けさせた。


[*prev] [next#]
×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -