シークレットエチュード(サンプル)

「ストップ」
 その声は、秋組第二公演『異邦人』に向けて稽古をしているレッスン室にて響いた。
 総監督、立花いづみの声と共に動きを止めたのは、今回の公演で主人公を追い詰めるマッド・サイエンティストのドムを演じる摂津万里だ。その反対側立ち位置には主演ヴォルフを演じる伏見臣、中央後方には準主演ゼロ役の七尾太一が控えている。
 今は万里演じるドムが、謎の少女ゼロの正体を明かす重要かつシリアスな場面であった。
 ドムが目指す世界を語る台詞の途中ではあったが、それは考え込むような表情を浮かべたいづみによって中断させられた。
「万里くん、今の台詞もう一度いいかな」
「今の台詞っつーと、『そうだ、ゼロ』から?」
「うん、お願い」
「りょー」
 何か引っ掛かるところがあったのだろうか。万里は特に気には留めず、再度元の立ち位置に戻る。
万里はこの役を演じるにあたり、脚本を書いた皆木綴が参考にしたという映画を何本か観ては、マッド・サイエンティストというものの雰囲気を掴んでいた。
――自分でも上手くやれている方だとは思っていたのだが。いや、もしかしたら動きの確認かもしれない。そんな事を考えつつ、万里はもう一度自分の台詞を口にした。
 大袈裟なほどに両腕を広げ、自分の行っていることがいかに素晴らしいかをドムが語る。
『そうだ、ゼロ。お前は、この地球の母となるのだ。絶滅した植物が育てばいつかこの地球は太古の緑を取り戻せる。世界中で飢餓に苦しむ者たちも救わ……』
「ストップ。もう一度、そうだゼロから」
『そうだ、ゼロ。お前は、この地球の母とな……』
「ストップ。もう一度」
『そうだ、ゼロ。お前は……』
「ストップ」
「……っ、監督ちゃん」
 繰り返されるやり取り、しかもやればやる程言える台詞が短くなっていく事に、思わず万里がいい加減にしろといづみを睨んだが、いづみはそれを受け止めてはまだ何か考えているような表情を止めなかった。
 万里といづみのやりとりを目の前で見ていた臣が気遣わしげに二人を見比べ、いづみに話し掛けた。
「監督、何か引っ掛かるのか?」
 するといづみは指先を顎に添え、唸るように頷く。
「うーん……薄いんだよね、台詞が」
「はぁ?」
「万里」
 自分に向けられた否定的な言葉に万里は思わず詰め寄ろうとしたが、その前に臣が腕を伸ばし、それを制した。
しかし、例え万里がそのまま詰め寄ったとしても、いづみのその表情や姿勢は変わらなかったであろう。いづみは真っ直ぐと万里を見詰めた。
「なんか、全然ドムの気持ちが伝わってこない。マッド感がない」
「マッド感がないって……、役作りで一緒に映画観た時、アンタ褒めてくれたよな」
 そうだ、ドムの役作りのために綴が参考にした映画を、いづみと夏組の天馬と自分の三人で鑑賞し、マッド・サイエンティストとは何かを自分なりに考えたのだ。
見終わった後、三人でマッド・サイエンティストの笑い方を真似ていたら、そこに居合わせた夏組の椋を怖がらせてしまった程だ。だから自分がやるドムはこの方向性でいいのだとすっかり思っていたのだが。
「他の場面はいいと思う。怪しげな雰囲気が伝わる」
「じゃあ……」
「でも違うんだよね。ここって、ドムの理想を語る場でしょう? 今の言い方だと、ドムがどんな世界をどんな気持ちで迎えたいのが、まったく伝わってこないんだよね」
「…………」
「ドムってなんのためにゼロを造ったの?」
「そりゃ、絶滅した植物を蘇らせて世界の飢餓を救うため……」
 万里が演じる男、ドムは、やり方が非人道的なだけで、最終的に求めているのは世界を救うことだ。むしろ世界を憎むように生きている主人公ヴォルフよりもはるかに平和的かつ建設的な考えだ。
ただ彼の理想を追求するには、一人の少女の命が犠牲になってしまう。ドムが取った方法は、少女の命を苗床にし、絶滅した植物を取り戻す方法だ。そしてその苗床となった少女は、栄養分として種から命を吸い取られ、果てていく。
「じゃあ、なんでドムはそんな事を考えるようになったの? ゼロの命を犠牲にしてまで彼を動かすものってなんなのかな」
「それは……」
「ドムって科学者以外の場面だとどんな人? 家族構成は? 何が好物? 恋人はいる? お風呂に入るときは何処から洗う?」
「…………」
 万里は次々と重ねられるいづみの言葉に答えることができなかった。
いづみの言葉が早かったから答えを挟む間がなかったのではない。尋ねられたことに対して返す言葉を、万里は持っていなかったのだ。
「私がドムの台詞を薄いと感じるのは、そこにあるんだと思う」
 言葉を失う万里に、いづみも少し言い過ぎていると自覚しているのか、微苦笑を浮かべていた。
 それからいづみはパチンと両手を叩いた。
「はい、今日はここまで。各自言われたところを自分なりに落とし込んどいてください」
 お疲れ様でした、といづみが言うと、他の役者達もそれに応える。ただ、万里だけが黙りこみ、眉間に皺を寄せていた。
 微妙な空気が流れる二人を思ってか、太一が今晩の夕飯について楽しそうな声を上げ、臣もそれに続いたが、万里は構わず一人レッスン室を出ていった。
 いづみはその背中を、心配そうに見詰めていた。



「……くそっ」
 思わず悪態をついてしまったが、その矛先は一体誰に向けられているのか、万里はそれさえもわからなくて更に舌打ちを重ねてしまう。
(何が俺の台詞が薄い、だ。自分の方が大根なくせに)
 自分よりも下手な演技しかできないいづみに、強く指摘されたことに腹が立つ。
というのも、今までは指摘というよりもアドバイスのような、自分の演技に「こうしてみたらどうかな」と寄り添うようなものが多かったのに、突然のはっきりとした強い指摘に、万里は苛立ちと少しの戸惑いが隠せなかった。
「つーか風呂に入ったら何処から洗うかなんて知るかっつーの!」
 いづみに言われた言葉を思い返したが、ふと変なものが混じっていたのを思い出し、万里は寮内の中庭で一人突っ込んだ。
 虫の声が聞こえる夜の中庭は、万里の突っ込みを静かに包み込み、心なしか穏やかな気持ちにさせてくれた。誰も聞いていない、むしろ誰にも聞かせるつもりのないモヤモヤとした胸のつかえに、万里は小さく溜め息をついた。
「なんの話?」
「ッ! お、わっ! え!? 紬さん!?」
 誰もいないと思い完全に気を抜いていた万里の背中に、柔らかな声が掛かる。驚いて振り返れば、そこには冬組リーダーの月岡紬が立っていた。
「びっくりしたわ! いつから居たんすか!」
「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど。万里くんが中庭に入る前から俺はここに居たよ。明日、天気が崩れるって聞いたから、外に置いてある鉢植えの子達を軒下に入れておこうと思って」
 ね、と当然のように鉢植えに同意を求める紬は、つまり最初から中庭に居て、苛々したまま中庭にやってきた万里をずっと見ていたという。
 悪態をついていたところを見られた気まずさと、独り言を言っていたのを聞かれた恥ずかしさに万里は口を結んで顔をそらしたが、そんな万里に紬は小さく笑った。
「何か悩み事を抱えている顔だね」
「は、はぁ? どんな顔だよ……っ」
 紬の言葉に万里は顔を隠すように手の甲を額に押し当てたが、紬は鉢植えを軒下に並べながら、くすくすと肩を揺らしていた
「ごめん、嘘だよ」
「……カマかけたのかよ」
「でも、ハズレでもなかったみたいだね」
「…………」
 穏やかな声に物腰柔らかな優しげな表情。この月岡紬という男は性格も控えめで、前に出るというよりも一歩後ろに下がって皆を見守っているような人物だ。
個性の強いこのカンパニー内で、紬は数少ない良心であり、何だかふわふわした雰囲気に頼りなさそうにも見えるのだが、実は大学では心理学専攻だったというからこの男を一言天然で片付けるのは難しい。
 悩み事というか、喉に小骨が引っ掛かった程度のことに万里は溜め息を落とし、芝生の上に座り込んだ。すると紬も、人一人分の隙間をあけてその隣に腰を下ろした。ちょうど、カフェで過ごす時のような、テーブル一つ分の距離感。
「俺でよければ聞くよ?」
「…………」
 紬の作り出す優しい雰囲気や、この人なら話してみてもいいかもしれない、と思わせる空気はひたすらに狡いと思う。柔らかく目を細める紬に、万里は一瞬だけ悔しさと不満を混ぜた不服そうな顔を見せたが、悪意のない紬の微笑みにぽつりと小骨の正体を話した。
「監督ちゃんに、俺の台詞が薄いって言われた」
「……監督が?」
 あの監督が、と言わんばかりに紬が目を丸くした。
 それはそうだ。万里もきっと他人に言われたら紬と同じ反応を返すだろう。
 何故なら、いづみは役者に対して突き放すような強い言い方をしない。
 万里は演技指導というものを、いづみと元春組の雄三、それから同じ秋組の古市左京のものしか受けたことがないからよくわからないが、雄三や左京に比べると、いづみの指導は可愛いものだ。
 本来の演技指導というのは、きっと雄三や左京が行っているものなのだと思う。お前らの芝居にはあれが足りない、これがない、だからつまらないのだ、やる気がないなら帰れ、などはっきり言ってくる雄三や左京に対し、いづみは慎重なほど役者に対しての言葉を選ぶ。
きっと総監督として、役者だけではなく舞台全体のことも見なければならないゆえ、無意識に役者のメンタルやコンディションのことも気にしてしまっているのだろう。だからいづみは、役者の演技に対して厳しいことを言わない。
 いづみは大根役者だろうがなんだろうが、演劇経験者で万里よりも携わった舞台数は多い。だからああ言えば万里がこんな感情を抱くことなんてわかっていたはずだ。それでもあの時のいづみは言ってきた。
「あぁ……でも、監督の言ったこと、俺は少しわかるな」
「……紬さんもかよ」
 万里は紬を横目で睨んだが、紬は特に気にした素振りもなく、優しい笑みを浮かべていた。
「でも、万里くんも監督が意味もなくそう言ったわけじゃないのはわかっているんでしょう?」
「…………」
「万里くんにも思うところがあったから、ムカついているんだよね?」
「別にムカついているわけじゃ……」
「ムカついてないの?」
「……ちょっとは、ムカついてる……かも」
 やっぱり、と笑う紬に、もうなんでもお見通しにされているのだろうかと万里は眉を寄せたが、お見通しついでに聞いてもらうか、と万里は先程の稽古の話をした。
「監督に、今の役について、風呂入るときは何処から洗うなんて聞かれたんだけど」
「ああ、さっき言ってたことだね」
「んなもん知るかっつーの」
「ええ? 万里くん考えないの?」
「はぁ? 考えないっつーか……」
 そんなこと考えもつかない、と何とも言えない顔をすれば、紬は伸ばしていた両足を抱え込むようにして体を小さく揺らした。
「ミカエルはね、足から洗うんだ。ほら、シャワーの最初って冷たいでしょう? 昔、シャワーの水を頭から被って以来、ミカエルは足から洗うようにしてるんだ。それでもシャワーの冷たさにたまにびっくりしちゃうんだけどね。足を洗ったら、次は髪を洗うんだ。こう、顔を下にして洗うんだよ、泡が目に入らないようにね。というのも、シャンプーの泡が目に入ったって大騒ぎしたら、ラファエルがこうやったら泡が目に入らないぞって教えてくれたんだ。その時ミカエルはなるほど! って感心したんだけど、ラファエルは呆れて……」
「ちょ、ちょい待ち!」
「……?」
突然ぺらぺらと語り出した紬を万里は慌てて止めた。話を割ってでも止めないとそのまま語り続けてしまいそうなほど紬の言葉は滑らかだった。
「ミカエルって、冬組公演のやつだよな。『天使を憐れむ歌。』の……」
「うん」
 紬の口から出たミカエルとは、冬組旗揚げ公演の時、紬が主演を演じた役の名前だ。そしてラファエルは、準主演である高遠丞の役名だ。
 『天使を憐れむ歌。』は、紬演じる天使ミカエルが人間の女性に恋をする物語だ。冬組の名にふさわしい、しっとりとした静かな物語で、他の組と比べ、派手な演出はなく、軽快な立ち回りやテンポのいい台詞回しがあるわけでもない。
 それでも観客は紬率いる冬組の公演に魅入った。紬の指先から髪の一筋まで、まるで本物の天使がそこにいるかのような透明感のある演技に、誰もがその物語に夢中になっていた。舞台を観劇した万里も、夢中になったその一人だ。
 そして紬は、その劇中に出てきた人物をさも目の前で見てきたかのように今しがた語りだした。
いや、役者が与えられた役について深く考えるのはわかる。もちろん万里だってそうしてきたつもりだ。しかし紬が語りだした内容はあまりにも役に踏み込んでいるというか、ディープというか、想像豊かというか。
「役作りでそこまで考えるか? つーかほぼ妄想に聞こえるんですケド……。てか天使ってシャワー浴びんの?」
 役作りは役を演じるうえで重要なことだ。その役がどんな人物でどんな性格をしているのか、自分の中に役を落とし込むのなら大事な過程だ。しかしその登場人物のシャワー事情なんてものは、もちろん劇中には出てこないし、あったとしても必要のないくだりだとも思える。
それでも紬は冗談を言っているような目は一切していなく、万里の目をしっかりと見詰めていた。
「確かに。お風呂やシャワーなんて概念は天使にないかもね。万里くんの言った通り、これは俺の妄想だよ。でも、舞台は限られた時間しかない。そしてその限られた時間の中で、その役がどういう人物なのかを表現しきらないといけない。観客が見るのは舞台の幕があがっている時のミカエル。でも、ミカエルが生きてきた時間はそれだけじゃない。もっとたくさんの出来事があって、時間があって、舞台上のミカエルが出来上がる」
 紬が演じたミカエルが呼吸をしている時間は、何も板の上だけじゃない。舞台上のやりとりは、そこに生きている役の何ページかを切り取っただけで、本当はその裏に何千何万の生きてきたページがある。
それを自分の中に落とし込むことにより、役に表情が、仕草が、息遣いが、厚みが出るのだ、と紬は続けた。
「役者が命を吹き込むのは『舞台上の役』じゃない。『役そのもの』なんだよ。役作りにそこまでなんてものはない。考えれば考えるほど出てくるし、一人の一生を演じるのだからそこまでなんてもの、ないんだよ。それこそ、お風呂に入ったらどこから洗うなんて、その役を演じるのなら知っていて当然のことなんだ」
 そう強く言い切った紬に、彼の演技の繊細さの理由を知った。
 彼はきっと、驚くほど綿密に役作りをして、その役を自分の中に落とし込む。むしろ落とし込むというよりも、限りなく寄せていると言った方が正しいかもしれない。彼のミカエルを見て、観客誰もが彼を本物の天使と思ったのは、彼が人間という皮を捨て、本当に『天使になった』からなのだ。
「あー……」
「監督の言ったこと、わかった?」
「……なんとなく」
 万里は立てた片膝に額を押し付けた。脳裏にいづみの表情が浮かぶ。あの時のいづみは、少し言い辛そうに顔を歪めていたような気がする。
 いづみが万里に言いたかったこと、答えはそう、圧倒的に役作りが足りない、だ。
 紬の話を聞いた後だと、自分が演じるドムへの解釈がいかに足りないかというのがよくわかった。
 万里は思わず爪を噛んだ。
綴が参考にした映画を何本か観ては自己満足していた。むしろそちらに気を取られ、本当に大事なことをすっかり見失っていた。
(俺が演じるのは、ただの『マッド・サイエンティスト』じゃない、『マッド・サイエンティストのドム』だ)
 そんな事はわかりきっていたのに、マッド・サイエンティストを演じることに意識がいってしまい、ドムという男の存在が薄れてしまっていた。
いづみは万里が稽古を重ねていく中で、その事にきちんと気付いていたのだ。
(自分の役を見失うとか……)
 素人じゃあるまいし、と髪をくしゃりと掴むが、隣に座る紬に比べれば、万里はまだまだ素人に近い。いや、素人同然だ。
(舞台に一度立って主役こなしたからって……、また一人で調子に乗ってたんだな、俺は)
今まで人生なんてテキトーにやっていればそれとなく結果がついてきた。でも、何故だか芝居だけはどうにもならなくて。やればやるほど自分がいかに薄っぺらな人間だという事が筒抜けになって、ダサいくらいがむしゃらにやらないとすぐ板の上から振り落とされる。
秋組旗揚げ公演が終わって、自分でも知らない内に気が抜けていたのかもしれない。そうだ、板の上は死ぬ気でやらないと、いつ何時でも振り落とされる。
客からも、共演者からも、役からも。
 もう一度、やらなければ。死ぬ気で。
(この世界に限界なんてものは無い。演技も役作りも)
 せっかく楽しいと思える世界に辿り着いた。まだまだわからない事の多い世界ではあるが、もう簡単に見切りをつけて諦めたくはない。与えられた役も、そう簡単に手放したくないと思えるようになった。
 もう一度最初から向き合わなければ。ドムと、本気で。
「……で、参考までに聞きたいんだケド」
「ん?」
 改めてドムを演じ切って見せると決意を固めた万里は、ちらりと紬の方へと顔を向けた。
「紬さんは役作りする時、何から始める?」
「え、そうだな……」 
 とりあえず参考までに、と聞かれ、紬は白い指先を口元にあて少しだけ悩んだ後、その人差し指をまっすぐ立てて見せた。
「自分との共通点を探す、かな」
「共通点」
「うん。俺の場合、自分の中に役を落とし込みたいときは、共通点を探して、共感できることを増やすかな」
「共感か……」
「うん。初対面の人と仲良くなるのと一緒。共通の話題を探して、自分と役との距離を少しずつ近くしていくんだ」
「なるほど」
 確かに、共感できるものがあれば少しでも役の心情がわかるようになるだろう。役と仲良くなる、それはとても紬らしい言葉だった。万里と紬が中庭でこうして話をしているように、紬の中で紬とミカエルもこうやって会話をして距離を縮めたのだろう。
何度も何度も対話して、相手を知ることにより、役を自分の中に落とし込む。
きっと、紬に万里の演技をしろ、とやらせれば、自分でも気付かなかった癖や仕草に気付かされそうだ。
そういえば以前、リーダー会議の際に紬がいづみの真似をしていたことがあったが、あれはなかなかの出来だった。その後、不在にしていたいづみに見付かってしまい、「会議中に一体何をしていたの?」と、威圧的な笑顔で詰め寄られる程には。
「まあ、役作りは演技と一緒で人それぞれだから、万里くんのやりやすい方法がいいと思うよ」
「人それぞれ、ねぇ」
「うん。万里くんは特に特殊そうだから」
「ん……?」
 次の秋組公演、頑張ってね。とにっこり微笑んだ紬に万里は眉を寄せた。
「ちょい待ち」
「どうしたの?」
「いや、どうしたのって……、俺が特殊って、何?」
 突然言われた言葉が引っ掛かり、どういう意味だと顔を顰めた万里だったが、紬はキョトンとした顔を浮かべた後、プッと噴き出した。
「おい」
「フフッ、ごめん。いや、そうだよね、うん。ごめん、ごめん」
 特殊と言われた後は突然笑われた。何なんだと万里が不満そうにすると紬は慌てて謝罪をした。が、まだ笑っていた。一通り笑った後、紬はふう、と呼吸を整えてから万里に向き直った。
「万里くんは、独特の癖があるよね」
「癖……?」
「うん、普段もそうだけど、芝居をすると尚更かな」
 突然何を言い出したかと思えば、先程考えたことが早速本当になった。――自分でも気付いていない癖を、この月岡紬という男は見抜いている。
 自分が知らない癖を自分以外に把握されているのはなんとなく気分が悪い。万里はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「独特の癖って?」
「うーん、これ以上話すと、監督の言った事に対しての答えになっちゃうかも。それだと、俺からは言えないかなあ。ああでも、もしかして監督は万里くんのその癖も含めて、今回そういう風に言ったのかもしれないね。早くその癖に気付いてもらいたいのかも」
「え……っ」
「万里くんのそれは強みでもあり、弱みにもなるから」
「…………」
 万里の疑問を踏み倒すように意味深長な笑みをした紬に、それはどういう意味だと問いただそうとしたが、その笑みに万里は口を閉じた。
 この笑みは、そう簡単に教えてくれないやつだ。普段はおっとり、まったり、携帯の操作さえも覚束ないのに、ごく稀に食えない年上の表情をするのだ、この男は。
 それとなく意地悪をされた万里は口端をひくりと引き攣らせながらも、両手を後ろについて胸を反らした。
「へーへー、頑張りますよっと」
「うん、頑張って」
 厄介な世界に飛び込んできてしまったものだ、と万里は小さく笑った。
 今までテキトーにやっていれば何となく結果は付いてきたというのに、この世界はテキトーなんて言葉がまったく通用しない。右を見ても左を見ても、一癖二癖もある奴らばかりで、皆必死こいて板の上に立つことを目指していた。
何がそこまで奴らを駆り立てるのか、最初はまったくわからなかった。稽古もミーティングもひたすら面倒で、こんなものに何でそこまでがむしゃらになれるのか、本当に理解ができなかった。
(でもアイツが、兵頭が前座の舞台に立った時、鳥肌がたった)
 一度、元春組の雄三が行う舞台の前座として、同じ秋組の兵頭十座のポートレイトを観た。十座のポートレイト――演技は相変わらず棒読みで、活舌が特別いいわけではないし、声も低いから尚更台詞が聞き取り辛かった。それでも照明を浴びて舞台のセンターに立つ十座はひたすら眩しくて、台詞を懸命に言う姿は悔しいが心打たれるものがあった。
 そこから逃げたのは自分なのに、演劇なんてものに真剣になるなんてくだらないと思っていたのに、心を占めたのは後悔と劣等と、少しの憧れだった。あの狭い箱の中、あの時あの瞬間だけは、皆の視線が舞台に釘付けになる。自己顕示欲、というわけではないが、もし、あの時あの空間を自分が支配できたのなら、どんなに気持ちがいいことだろうと思ってしまった。
 気が付けば、自分も一所懸命に日々の稽古に勤しんでいた。毎日個性のぶつかり合いで、気を抜くとすぐに引き摺り落とされる。しかしそんな稽古を積み重ねて作り上げた秋組旗揚げ公演『なんて素敵にピカレスク』。それが終えた後の大粒の雨のような拍手は最高に気持ちが良かった。
こんな快感は今まであっただろうか。目に痛いほどの照明も、狭い箱の中の薄い酸素も、この大雨の拍手を全身に浴びてしまえば最高に気持ちが良かった。
 一つの舞台を作り上げるのがこんなにも大変だなんて、この世界に踏み入れなければ知ることもなかった。役者やスタッフ一同、文字通り心身ぼろぼろになりながら作り上げる舞台。一つの世界を生み出すというのはこういう事なのだというのを痛いほど知った。
正直、辛いと思うこともあった。しかし、あの快感が忘れられない。大雨の拍手。痛い程に眩しい照明。箱ぎっしりに詰まった観客席。
終わった後、皆で一つのことを成し遂げたという達成感は、今まで経験したことのない充足を万里に与えてくれた。
 生半可な気持ちでは舞台は完成しない。完成できない。
それは万里にも言えることだ。摂津万里という成り立ての役者も、演じようとしているドムも、中途半端な芝居では中途半端なものしか仕上がらない。
――やはり、楽しい。
 一筋縄ではいかないこの世界は、毎日が刺激に満ち溢れている。色んなヤツがいる。色んな世界がある。ぞくぞくさせるような、たまらないプレッシャーに押し潰されそうだ。でも、それを跳ね返したくて仕方がない。
 冷たい夜風が静かに吹いた。隣にいる紬は少し肌寒そうにしていたが、静かに火照りだした万里の体にはちょうど良かった。
 今、猛烈に芝居がしたい。
 夜風を気持ちよさそうに浴びている万里の横顔に、もう大丈夫そうだと紬は目を細める。きっと、次の秋組公演もいい舞台になる。少し肌寒いけれど、もう少しだけ万里の横に座っていよう、そう紬がそっと目を閉じた時、ふと、万里が思い立ったように紬へと向き直る。
「紬さん、でもやっぱり天使はシャワー浴びないと思うんだけど」
 理解できないとばかりに真剣な表情で言われた言葉に紬は破顔した。
「あ、やっぱり?」





 その日は朝から雨だった。
 乾燥機から取り出した洗濯物を談話室で畳んでいるいづみは、どんよりとした外の天気に小さく溜め息をついた。いづみの周りには無造作に洗濯物が散らばっていた。
いつもより量が多いのだろうか、なかなか洗濯物が畳み終わらない。大所帯である寮では毎日こんなものだったような気がするし、やっぱりいつもより多い気もする。それに外の天気はずっと雨でなんとなくすっきりしない。
 いや、すっきりしないのはきっと自分の心のせいだと、いづみは手に取った洗濯物を膝に落とした。膝に乗せた洗濯物は、万里のお気に入りのタオルだった。稽古中、これで何度も汗を拭っているのを見た。そう、あの時もこれを使っていた。
(あーダメダメ。あれは今の万里くんに言わないと駄目だった。今言わないと万里くんの演技がずっとあのままで止まってしまう)
 先日、いづみは万里の演技について指摘をした。ドムの台詞が薄い、と。
 と言っても、万里はつい前まで舞台未経験者だったとは思えないほど演技が上手く、下手な演技指導は必要がない。何でもそつなくこなすことができるのだ。きっと普通の観客ならば、その華やかな容姿と演技、存在感に惚れ惚れすることだろう。
 しかし何度も芝居を観た人や、演劇をかじったものが見れば決定的にわかってしまうものがあった。いづみは万里のそれを指摘したかったのだが、指摘したあとの万里の表情を思い返し、また一つ溜め息を溢す。
(もっと上手な言い方があったんじゃないかな……。あんな頭から否定するような言い方、万里くんなら反発しちゃうなんてわかっていたはずなのに)
 万里を指摘したことについては後悔していない。遅かれ早かれ、いずれ言おうと思っていたことを伝えたつもりである。
 しかし、プライドの高い万里に合わせて、もっと別の言い方で気付かせてやることができたのではないかといづみは後悔もしていた。しかし柔らかくそれを伝えたとしても、伝わらなければ意味がない。
 万里はいい役者になる。綺麗な顔は大きな武器になるし、すらりとした手足も舞台映えする。板の上でも堂々としているし、声量も問題ない。今のまま発声練習を続けていれば、自然と腹から声を出せるようになるだろう。
(万里くんは、こんなところで止まって欲しくない)
 万里はまだまだ伸び代がある。いや、伸び代しかない。ここを乗り越えてくれたら、もっといい役者になれる。
 だからこそ、あの時のいづみは一歩踏み込んで万里の台詞が薄いと言ったのだ。
 万里の持つ『それ』は、万里の大きな魅力であり、大きな欠点にもなりうる。いづみはそれを万里に気付かせたかったのだ。
(でも、もっと上手に言ってあげられなかったのは私の指導力の無さだなぁ……)
 自分の発言の仕方にも問題があった、といづみは万里のタオルを畳み直した。その時、いづみしか居なかった談話室の扉が開かれた。
「あれ、監督ちゃん一人?」
「……万里くん」
 談話室に入ってきたのは、いづみが先日から今の今まで悩んでいた万里本人だった。
先日の稽古で睨むような顔を向けられたいづみは多少の気まずさを感じるも、万里の方はそうでもないらしい。洗濯物を広げて床に座るいづみを一瞥し、その横にあるソファに腰掛けた。
「手伝おうか」
「えっ、あっ、だ、大丈夫! も、もう終わる、から!」
「もう終わる、ねぇ」
 こんもりと盛られた洗濯物の山をちらりと横目で見られてしまい、明らかにすぐ終わらないだろうという目を万里に向けられてしまう。いづみは自分の発言と大根っぷりに、一人気まずさを増幅させてしまう。
「なあ、監督ちゃん」
「う、うん!?」
 自分でも驚くほどの過剰な反応に万里が目を丸くさせた。
 一人勝手に自己嫌悪に陥っていたいづみは万里の姿を見るだけでもギクシャクしてしまうのに、話し掛けられるとなると異様に力が入ってしまう。あまりの反応にいづみは恥ずかしくなって顔を赤くさせたが、それを見た万里はたまらずといった感じで吹き出した。
「ふっ……、ははっ!」
「ば、万里くん……?」
「いや、フッ……、ん、まあ、そうだよな。監督ちゃんはそういうコだよな」
「ど、どういうこと……」
 ぽん、といづみの頭に万里の手が置かれた。
 髪を指に絡めるように、いづみの髪の中に指先が潜り込み、万里が柔らかく目を細める。
「この間は睨んだりして、ごめんな」
 少しだけ顔を傾け、いづみの目をしっかりと見詰めた万里が静かに告げた。
 万里に睨まれたのはつい先日だというのに、苦笑混じりに向けられた万里の笑みをいづみはもう何か月も見ていないような気になっていた。
 気を抜いたら涙目になってしまいそうになるのをいづみはぐっと堪える。
「……わ、私も」
「待った。監督ちゃんは謝っちゃダメだろ。監督ちゃんは俺の演技にダメ出しをしてくれた。そうだろ?」
「……うん」
「なら、謝るのは俺の方。態度悪くて、ごめんな」
 もう一度言われた言葉にいづみは何度も首を振った。
「ううん、ううん……。私も、言い方が悪かったと思う。もっと個々に対しての言い方とかダメ出しの仕方とか考えなくちゃいけなかったの。……やっぱり、私もごめん、だよ」
「結局謝っちゃうのかよ」
「だ、だって……」
「じゃー、おあいこ。これでお互いチャラってことにしようぜ。それならいいだろ」
 な? と同意を求めた万里に、いづみはやっと笑みを浮かべた。
「うん……、うん!」
外はまだ雨が降り続いているが、雨上がりの晴れた空のような笑みを浮かべたいづみに、万里は目元を柔らかくしつつ、ほっと肩を落とした。
いづみにどんよりとした暗い表情は似合わない。
 万里はそんないづみの前に手を差し出し、小さな両手を握った。
「……万里くん?」
「よし、じゃあ仲直りついでに俺のエチュード練に付き合ってくれない?」
「エチュード? 私も? いいけど、今? ここで?」
「そ、今、ここで。監督ちゃんもやって」
 突然のエチュードへの誘いにいづみは戸惑う。しかし握った両手をそのままに、いづみはすっくと立ち上がらされた。一緒に立ち上がった万里を見上げ、いづみは首を傾げる。
「ええっと、何のエチュードかな?」
「ドムの」
「ドムの……。私はどういう設定なの? 部下?」
「いや、監督ちゃんは俺に合わせてくれる? 何も考えなくていい」
「な、何も考えなくていいって……」
「俺の台詞にテキトーに合わせて」
「う、うん……。あの、万里くん、改めて確認するけど私、大根だよ……?」
「知ってる」
 ……大根だと告げているのに何故そんな嬉しそうな顔をするのだ、といづみは少しだけむくれる。それでも嬉しそうな顔をやめない万里に何も言えなくなったいづみは、わかったと返すので精一杯だった。
「じゃ、俺は後ろのドアから入ってくるから。テキトーに合わせて」
「うん」
 ドムのエチュードをするにあたり、設定も何も与えられていないこの状態でテキトーにと言われても、正直困る。ここが何処で自分が誰でドムとどんな関係なのかも、万里の様子から読み取らなくてはならないのだ。まあ、それがエチュードだと言われてしまうと何も言えなくなるのだが。
 いづみは畳み掛けの洗濯物をそのままに、ソファの前に立ち万里の登場を待った。
 そして、万里が扉を開けた瞬間にそれは始まった。


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