54(1/4)
洞窟から掘り進め造られたここは、石造りな設計もあってか少しひんやりとしている。そしてひんやりしつつも何処か厳かな空気が流れるのはかつてここが聖堂であったからだろう。しかし地下のせいか、ここの存在を知るものは少ない。聖堂は聖堂でも、隠れ聖堂であったため知られるはずもない。しかし今はそれが、ここを隠す最強の砦となっている。
「お前も、神に愛された哀れなガキか…。」
少女は、かつて誰かが寝ていたベッドに眠る、白髪の少年を慈愛と哀れみの目で見詰めた。白髪の少年に左腕はない。そこは『壊された』と聞いている。しかしそれで右腕はあるのかと問われれば、はっきりあるとは言い難い。右手はある、しかし健在ではない。包帯でぐるぐる、ぐるぐると大袈裟に巻かれ、まるで道化のような手になってしまっている。そしてその包帯の中に捻じ込むように点滴が刺され、ああこの光景は少し懐かしいと苦笑してしまった。
「今は眠れ。その内、嫌でもお前のイノセンスがお前を呼ぶ。」
あいつもそうだった。そう少女が呟いた言葉は冷たい空気の中に消えていった。
「とりあえずの処置はしておいたよ、コムイ」
男は、そこからアレン・ウォーカーを見下していた。言葉通り、本当にとりあえずの処置しか彼にできなかった。何度も打ち付けられたように青くなっている体、手と呼べない程に皮膚が爛れてしまった右手、破壊された、左腕。どこもかしこも酷く傷を負っており、とりあえずの処置しか出来なかったというのが本音だ。
『本当に…ありがとう。』
「礼を言われる事ではない。彼を助けたのはボク達ではないんだから。」
『ああ…久々に神に感謝したよ。』
それでも、と言った声だった。そんなお前の声は初めて聞いた、と受話器を持つ男は口を開くのだが、彼の立場上、時には非情な判断を強いられる事もあるだろう彼のそんな声に口を閉じた。今回の件で本部は荒れに荒れたであろう。その中で精神的に追い詰められる場面もあったであろう。いや、絶対あったはずだ。今回の件は彼の大事な妹も少なからず関与していた。彼を心配する義理はないが、どうも男は彼と、その妹を心配せずにはいられなかった。
「キミは…、何か知っていたのか?」
男はこの話題から話をずらそうと受話器を持ちかえた。そこからアレン・ウォーカーの隣にいる、「少年が目を覚ましたら知らせに来い」と伝えたものがぐっすり寝ている姿が見えて溜息を吐きたくなった。
「今まで何人かの寄生型とは会ってきたが、こんな例は初めてだ。」
『彼の対アクマ武器の可能性には少しね…。だけど、この奇跡は予想していなかった。』
「奇跡か…。」
言葉にしてみると、案外チープなそれに少し笑ってしまう。しかし口にしてみるとその言葉しか出て来なくなってしまった。事実、奇跡だったのだから。
「驚くべきは、彼を生かそうとするイノセンスの意志だ。」
アレン・ウォーカーの心臓には、死は避けられない穴が開いていた。信じられないことに心臓だけだ。他の外傷を見ても、心臓に穴を開けた痕は見付けられなかった。誰が見てもその少年は手遅れだった。
しかし、その心臓を再生と呼ぶべき、穴を塞いでみせたのは破壊され粉々になってしまった少年のイノセンスだった。アレン・ウォーカーの粉々になってしまったイノセンスの粒子が体内に入り込み、発動もしていないのに自ら細胞の代用となって開かれた傷口を塞いだ。アレン・ウォーカーのイノセンスは、形を失ってもなお存在し、アレン・ウォーカーを生かそうとしている。
そう、少年は生きている。
男は階下で白髪の少年が身じろいだのを見た。そして薄っすらと瞳が開かれるを見て、一言二言交わして通信を切った。ベッドの上で自分の体を抱え、震えだした少年を見ていると何かが何かとフラッシュバックしそうになる。デジャヴに近い。
少年は一頻り声を殺して泣いたかと思うと、ふつんと何かが切れたかのように顔を上げた。そしてベッドからおもむろに足を下し、ふらりと歩きだした。神に愛されたエクソシストとやらは、何かをしていないときっと駄目なのだろうと思った。愛された瞬間から、その身は神のものとなり、死ぬまで動き続けるのだろう。十分な休息も取らずに。
男はとうとう溜息を吐き出し、歩きだした少年の向う先を追った。
***
アレンは不格好な程に巻かれた右腕を持ち上げた。
目の前に壁がある。上部まで施された模様が扉に見える。きっと開く壁だ。いやだな、自分は進まなきゃ。歩き続けないといけないのにどうして壁を目の前に作るのだろう。邪魔だ。今の自分に目の前のそれは邪魔だ。開けなきゃ。開いて、進まなきゃ。
「その扉は押しても開かんぞ。」
物影から男の声がした。天井が高く、広いこの場所ではその声はとても響く。
「ここに何か用か?」
男のシルエットは影ながらもわかる。柱に背を預けながら、その台座に腰掛け足を組んでいる。顔は良く見えないが、口元に笑みを浮かべている。
「………どうして開かないんですか。」
「その扉の中にはここの守り神がいてボクの曾祖父が内から封印しているんだ。」
再度、男が「ここに用があったんじゃないのか?」と尋ねてきた言葉に「別に」と返した。特に、ここに用があったからここに来たわけじゃない。自分はただ、足を止めたくなかっただけ。ただ、進んできただけ。足を進み続けた場所がここだっただけだ。
「この扉…、どうにかして開けられないんですか………。」
「開けられない。」
男は言った。
「戻ったらどうだ?そんなところ、進んでどうする。」
「ただ進む。」
まるで押し問答のようだ。
「立ち止まりたくないんだ。」
足を、止めたくない。進むのを止めたくない。そこに立ち止まりたくない。進んでいたい。足を動かし続けていたい。
「左腕もないのにか?」
振り返った言葉に、男はまだ薄っすらと笑みを浮かべていた。先程よりも顔が見えてきた。前髪から、男の双眸が細められたのが見える。
「………あなた、誰なんですか。」
「黒の教団アジア支部の支部長、バク・チャンだ。」
起きた時点で自分が誰かに保護されていたのはわかっていた。巻かれた包帯に、処置済みの点滴。添うように寝ていたが見張りの少女。広い、広い部屋。ここは、教団なのか。アジア支部、そんなものが存在するのかと思うより早く男は続けた。
「アレン・ウォーカーくん、キミ、ここの事務員にならないか?」
「え…?」
「これからはサポートする側に回るんだよ。」
別の道を探すんだと言われた言葉に、ホームの皆を思い出した。サポートとなると、科学班のリーバーやジョニー、食堂のジェリー達を指すのだろうか。
「エクソシスト以外にも黒の教団にはたくさんの役職がある。何か出来ることはあるだろう。」
何もエクソシストとして戦うだけが黒の教団ではない。そうだ、戦えなくとも、皆一緒に『戦っている』。
戦え、なくとも。
「そうすれば、神もキミを咎めたりはしない。」
「神?」
それでも、僕は―――
「そんな事どうだっていい。」
温かいはずの涙が、冷たく流れた。
違う…違う違う違う!戦えなくとも、じゃない。戦えなきゃ、『僕』の意味がない!!
「僕はっ!」
振り上げた右腕を、思いっきり壁に叩きつけた。
開け、開けと。
「僕の意志で誓いを立てた!」
何度も。
「アクマを壊すことを自分に…っ!!」
戦えなきゃ、『僕』の意味などない。アクマを破壊できない自分など、一体何の価値がある、意味がある。
「共に戦うことを仲間に、救うことをこの世界に!」
自分の存在は、アクマを破壊すること。仲間と共に戦うこと。この聖戦を終わらせること。
「死ぬまで歩き続けることを父に、誓ったんだ!!」
何があっても立ち止まらない。命が尽きるまで、歩き続けること。
「開けよ…!ちくしょお…っ!」
それが、これが。
「僕が生きていられるのは、この道だけなんだ。」
ずるりと落ちた体は、壁に右腕を叩きつけたまま膝をついた。右手は、せっかく巻かれた包帯から血が滲み出ている。開かない扉に、滲み出た血がしがみ付くように擦れながらこびり付いた。
「わかったよ、アレン・ウォカー。」
コツ、と靴音が響いた。
後ろにあの男の気配がする。
「キミのイノセンスは死んではいない。」
ゆっくりと振り返ると、男がそこにいた。
線の細い男だ。くすんだ金糸の髪を前髪だけ少し伸ばし、その頭に房付きの帽子をかぶっている。教団らしく黒の上下に、丈の短い白のジャケットを着用している。
「だが、それを告げる前に、どうしてもキミの気持ちを確かめておきたかった。」
男の、アジア支部長バク・チャンの胸にも、ローズクロスが輝いていた。
「咎落ちを知り、死の苦しみを味わったキミが再び自ら戦場に戻る気があるのかどうか。新たな咎落ちを防ぐためにも、ボクとコムイは知っておかなくちゃならなかったんだ。」
「ま、」と話を区切るよう、バクは少し釣り上がった目の片方を瞑ってみせた。
「『どうだっていい』はちょっと言い過ぎだがな。」
茶目っけたっぷりに小首を倒したバクに、アレンは笑いかける。自分はまた、新たに歩きだせる。そう思うと、くすんでいた視界が急に明るくなった気がした。
「行こう。キミの包帯を取り替えようとウォンがずっと探してるぞ。」
ふと、今更聞こえてきたのか何処からか太い泣き声が聞こえてくる。この声が、バクのいうウォンなのだろうか。そうだとしたら、とても心配をかけてしまったかもしれない。こんなにも聞こえる泣き声が聞こえなかったなんて、いかに自分が追い詰められていたのか。
「それが済んだら、右腕を復活させる話をしよう。」
立ち止まることが、こんなにも辛いなんて。
[*prev] [next#]