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***
ティムキャンピーの羽音で目を覚ました。
少し顔を持ち上げれば心配そうに小さな手を伸ばすティムキャンピーがすぐそこにいて一瞬だけ何があったのか思い出せずにいた。腕だけで上体を起こせば自分が竹林の中にいるのがわかる。何かに吹っ飛ばされたのか全身が動くたびにずきずきと痛む。一体何が、と先を見上げて思い出す。
「スーマン…?」
その先に、ぐったりと座り込んでいるスーマンがいた。
そうだ、自分はスーマンを、彼を助けようとして。アレンはもう一度スーマンの名前を呼んで体を起こす。右手に体を起こす力なんて最早無かったが、今は彼が咎落ちから解放された事実の方が大きい。体を無理矢理引き摺って彼の元へと寄り、何も喋らないスーマンの肩を叩いた。
「生きてる…っ、よかった、助かったんだ…!これでもう………」
肩を揺らしても、スーマンに反応はなかった。アレンが肩を叩いた分だけ、まるで首振りの玩具のように動くだけ。あれだけの事があったのだ、放心状態なのだろうか、そうアレンが彼の意識を確かめるように名前呼んだ。返事は、ない。
「どうしたんですか…?何か言ってください…」
もう一度、アレンが彼の名前を呼ぼうとした時だった。見詰めていた瞳がぐるんと上を向き、口元からだらしなく涎が垂れた。拭くこともせず垂れる涎に、アレンは絶望に近い虚無を感じた。
生気がない
言葉も反応も無い
(その目には、)
心がない
(ああ…スーマンは…)
生きてるけど
心が死んでいる
ふと、黒く廃れた左手から音と光が洩れる。
(そんな、まさか、…いやだ…。)
そんなアレンの心情とは裏腹に、ゆっくりと開いた左手にはイノセンスが煌々と輝いていた。これは…、何のイノセンスだ。誰のイノセンスだ。どうして自分の左手に。どうして、どうして、どうして
「どうして!!!」
アレンが泣き叫ぶと竹林の鳥達が何匹かばたばたと飛び去った。地に両手を叩き付けるも、その後の静寂はアレンに襲い掛かるようだった。ぼたぼたと、スーマンが涎を落とす音だけが虚しく響いて、あの時、スーマンを引き摺り出そうとした時に泣きながら「生きたい」と言ってくれた事が嘘みたいだった。悔しい悲しい虚しい、悔しい。
「………ティムキャンピー、リナリー達を呼んできて。」
それでも、アレンは彼を諦めることなんて出来なかった。スーマンのためにも。リナリーのためにも。ここで彼を諦めたら駄目が気がしたのだ。ここで諦めたら、スーマンを、ナマエをも見捨てるような気がしたのだ。
彼は(ナマエは)
死んだわけじゃない(咎落ちじゃない)
生きてるんだ
「この人を、家族に帰そう」
目の前のスーマンを確かに見詰めているのに、どうしてか目の前にナマエの笑顔が浮かんだ。彼女は咎落ちじゃない。彼女はシンクロしているのだ。なのに、どうして目の前のスーマンにあの子が被ってしまうのだ。
(ナマエ、キミは…、キミは…。)
今度彼女を前にした時自分は何を言えばいいのだろうか。
スーマンと同じ言葉を掛けるのだろうか。あの子に、イノセンスに命を吸われたスーマンと同じように………
(……待、て……。スーマンと、同じ…吸われ…た……)
ナマエ、キミはもしかして――
刹那、ナマエが割れた風船のように飛び散った。
(…違う、ナマエじゃない。スーマン、だ…!)
アレンの、別の方向へと動き出した思考を弾き飛ばすようにスーマンの体が目の前で飛び散った。およそ人が死ぬ時に出す音ではない。まるで、内側から破れる程の空気を入れたみたいに。
「バイバイ スーマン」
自分ではない声が後ろから聞こえた。しかし飛び散るスーマンの一瞬がまるでスローモーションのようにゆっくりと見えて動けなかった。しかし飛び散った後は早い。元の時間を戻した光景はアレンにスーマンの返り血を浴びさせて、赤く黒く染め上げた。一体、誰が。そんな事、先程の声に聞いてみなければわからない。
後ろにいる誰かが、笑っている気がしてアレンはゆっくりと後ろを振り返った。
若い、上流紳士。
そんな言葉がしっくりくる。しかしその紳士の顔を見上げる前に見えた黒い皮靴には見覚えがあった。自分が見たのではない。スーマンの中で『見た』のだ。その足は。その口元の笑みは。
「ノ…ア」
その男の『名前』を口にした途端、心臓が妙な脈打ち方をした。
「おいで、ティーズ」
男が呟いた言葉に身構える暇もなく、先程のスーマンの血みどろが不自然に盛り上がった。見えたのは一匹の蝶。ハートの柄を羽に浮かべた黒い蝶。ひらりと飛んだそれはスーマンの血から涌いて出るように何匹も何匹も出てきた。まるで、スーマンの血を形成していたかのように。次に出てきたのはクローバーの蝶、ダイヤの蝶、スペードの、まるで、トランプだ。蝶は主人の「おいで」に呼ばれるように飛んで行き、男の両手、手の平に文字通り勢いよく吸い込まれていった。手に風穴でもあるのだろうか、しかし蝶全てを吸いこんだ手にもう吸い込んだ穴は見えなかった。
「バイバイ スーマン」
再び呟かれた言葉にアレンは全身の血が沸騰するのではないかと思った。
「お前…!?何した…っ」
ティーズと呼ばれた蝶がスーマンの体から出てきたということは、この悲劇は最初からこの男が仕組んだものなのか…?こいつは、スーマンに、何をしたのか…。しかし男は睨み上げるアレンをきょとんと見下し、まるでそうであるか見定めるようにシルクハットの鍔を持ち上げた。
「はれ!?お前…っ、イカサマ少年A?」
「は?」
「ああそっか。今のオレじゃわかんないよな。てかお前、もしかして『アレン・ウォーカー』だったりするの?」
まるで知り合いを探すような軽い話し方から自分の名前が出てくるとは正直思わなかった。自己防衛か、それとも彼の口調が癇に障ったのか、気が付けば男の頬を使い物にならない左手で弾いて声を上げていた。
「スーマンに何をした…っ!?お前が殺したのか…!答えろ!!!」
男は弾かれた頬を白い手袋の手で抑え、まるで鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしていたが、すぐに口元を緩めた。
「そりゃ敵なんだし、殺すでしょ?」
同意を求めるような言い方に言葉を失う。それに、自分がうんそうだねとでも返すと思ったのか。へらりと笑った顔に覚えはない。しかし、男の口振りからは男は自分を知っているようだった。叩いた拍子に落ちたシルクハットを取ろうとせず、しかも装いは上級なそれなクセして男は構わず地に胡坐をかいた。おまけに「吸って良い?」なんて聞いてくるも、既に胸から取り出した煙草を口にくわえてる。
「ま!オレの能力知ったところで逃げらんないし教えてやるよ。よく聞けな少年。」
明るい声発した男の顔は随分と整っている。以前戦ったノアのロードという幼女と同じ鈍い肌色。額に聖痕。クセのある髪を後ろに流してまとめている。形の良い唇から吹かれる紫煙にアレンは歯を食いしばった。
(…くそ…最悪だ。)
体が動かない。動いたとしても今のこれじゃ使い物にもならない。逃げきれもしない。
(僕がもっと強ければ…強ければ…)
目の前でノアが友人を紹介するように、指に煙草を燻らせながら蝶を遊ばせていた。それが「ティーズ」と呼ばれるゴーレムでと話しているが正直、あまり耳には入っていない。自分非力が、悔しすぎて。
「オレの能力は、これ」
しかし男が煙草を再びくわえ、右手をふらり差し出した瞬間。その手はアレンの胸を貫いた。
「!!!」
「大丈夫。痛みは無いよ。」
確かに、男の手が自分の体を背中まで貫いている。しかし、言う通りに痛みはない。感触はある。男の腕が自分の体を突き抜けて、ゆっくりと左右に動き、背骨さえも通り抜けている。
「オレが『触れたい』と思うもの以外、オレはすべてを通過するんだ。」
男の手が、ゆっくりと引かれていく。
「だから今、もしこの手を抜きながらオレが少年の心臓に触れたいと思えば…刃物で体を切り裂かなくても、オレは少年の温かい心臓を抜き盗れるんだよ。」
途端、男の目がぎらぎらとしたものに代わるも、アレンには男の手が自分の心臓をやんわりと掴んでいる感覚にそれを見る余裕がない。男の手を通して、というのは変なものだが、自分の心臓を感じる。大きく脈を打ち、音を鳴らしている。
「少年の仲間もこうして死んでいった。………少年も、死ぬか?」
それでも自分の心臓がやけに落ち付いて打っているのは、自分はまだ、死ねないから。
「…シラけるね。」
そう真っ直ぐ男を見上がれば、男はアレンの瞳を数秒見詰めた後どこか口寂しい顔をして腕をアレンから引き抜いた。痛みはまったくないが、まだ男に貫かれた感覚はありありと残っている。胸が寒々しく感じる。男は両手をひらひらと遊ばせ、手袋が汚れるからと盗るのを止めた。全てが全て、命がけの冗談だったようだ。
「スーマンはちょっと協力してくれたからすぐに殺らずにティーズを仕込んで苗床になってもらった…。」
おかげで少し増えたよ、とティーズを見やりながら男は煙草を捨てた。皮靴で煙草を踏み消すと、いつの間にか煙草を持っていた男の指先に一枚のカードがくるくると回っていた。トランプだろうか。
「オレ、今とある人物の関係者を殺して回ってるんだけどさ、」
どこまでも仲良しの会話の延長のように話す男に、殺すという単語を聞き流してしまいそうになる。くるくると回るトランプはまるで相手に手札を見せないように男の指先の上でぴたりと止まり、宙に浮いた。
「少年は『アレン・ウォーカー』か?」
細められた目に、ノアを見た。
−52終−
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