咎落4

『リナリー・リーに会いたくはないか?』


それは甘い甘い蜜のような響きを持つ猛毒の言葉だった。甘い香りに誘われたナマエはそれが罠だともわからず、ただただ蜜を求めてその言葉に飛び込んだ。しかしそれはナマエを捉えたと思うと羽と手足を毟り取り中身だけ貪り、空になった途端投げ捨てた。空っぽになってしまったナマエは何も出来ずただ暗い暗い闇の中、泣くことも叫ぶことももがくことも出来ず、足元が崩れいく床を自分はいつ落ちるのだろうと、今か今かと眺めていた。あの日からこの蝶は、飛ぶ羽を奪われ蝶ではなくなった。


「いやぁっ!!」


爽やかな朝日が窓から降り注ぐ部屋で、ナマエは汗で全身をぐっしょり濡らして起きた。ひゅうひゅうと鳴る喉に冷たいような温いような気持ち悪い汗がつうと流れて手の甲で乱暴に拭った。がたがたと体が震えている。歯もがちがちと音をたてて、ナマエは夢から目が覚めたことに深く、深く深く息を吐いた。自分の寝言で飛び起きたのはこれを入れて何回目だろう。夢かと思うと安堵と共に絶望を感じる。また、この瞬間飛び起きた状況でさえ、夢ではなく現実。夢を見続けるのも嫌だ。だけど起きるのも嫌だ。自分のこの状況が、嫌だ。


「おはようナマエ。入ってもいいかな。」


扉向こうからノックと一緒に優しい声が掛けられた。低く柔らかいこの声は、ウォンだ。涙で潤んだ視界を小さな手でぐりぐりと無理矢理押し込んで、小さく返事をした。すると「失礼するよ」と聞こえて扉は開けられ、大きな体に白衣のウォンが現れる。ウォンは顔色悪く汗をかいているナマエを見ると一拍息を止めて、目の焦点が合っていないナマエを安心させるかのように優しく微笑んだ。


「新しく服を作ったから持ってきたのだが…、その前にタオルを持ってきてあげよう。」


豊かに生やした白毛の眉で目はよく見えないのだが、にっこりと笑ったウォンにナマエは小さく頭を下げた。


「…ごめんなさい…」


ぱた、とシーツに小さな汗が垂れた。


「…?どうして謝る?謝る必要などないだろう…。」


ウォンはベッドにゆっくりと歩み寄り、ナマエの濡れた額も気にせず、大きな手で小さな頭を撫でる。ウォンがナマエの頭に手を置く時にも少女はびくっと体を強張らせるのだが、気にせずゆっくりと頭を撫でた。


「ごめんなさい…あっ、」


謝る必要はないと言ったウォンの言葉に再び謝罪をしてしまった事にナマエはまた「ごめんなさい」と続け、口をきゅっと結んだ。その顔はひどく痛々しく、その歳の子供がする顔では無かった。これ以上言葉を掛けたらこの子供にまた「ごめんなさい」を言わせてしまいそうだ。ウォンは小さな頭をぽんぽんと優しく叩き、涙で濡れている瞳を指で拭ってあげた。


「タオルを持ってくるから、その間に着替えてなさい。」

「はい。ご、………、あ、ありがとう、ございます…。」


苦笑したウォンの背中を見送り、ナマエは濡れた寝巻きを頭から脱ぎ、ウォンが用意してくれた服に腕を通した。


――リナリー・リーに会いたくはないか?


脳裏に響くこの言葉は、掛けられた男の顔と声すら覚えていないものの、言葉だけはしっかりと残っていた。脳裏に焼き付きすぎて、よく夢に出る。これだけが自分の唯一見る嫌な夢なのならそれはそれで我慢しようと思うのだが、残念ながら自分の嫌な夢はこれだけではない。もう夢など見たくない。いっそ寝たくもない。こんな苦しい夢を繰り返し繰り返し、厭きる事なく、慣れる事もなく。
大人が怖い。平気で嘘をつく。痛いことをしてくる。イヤだと叫んでも聞いてくれない。私は何もしていないのに、してないのに!


「リナ、リィ…、にいさん…、会いたいよぉ…」


ここで泣きじゃくってリナリーが現れるわけでもない、兄が来てくれるわけでもない。知っている。だけど涙は唯一の家族を求めて溢れる。ほろほろと零れるそれを小さな手で拭っては零れて、また拭っては零して。
たまに片割れと兄の名前を呼ぶ幼い少女のその姿は見ていられない。柔らかいタオルを片手に、扉の向こうでウォンは喉がじりじりと痛くなるのを感じた。思わずタオルを握り潰してしまいそうになるのを必死で耐え、大袈裟に咳払いしてをして気持ちを切り替える。


「ナマエ、タオルだ。拭いて上げよう。」


咳払いをした後部屋に入るとナマエの涙は止まっていた。いや、無理矢理堪えているのだ。真っ赤な瞳と擦れた頬が十分痛々しい。膝を折って(それでもウォンの巨体はナマエの背を抜いている)ナマエの小さな顔に柔らかいそれをあてようとするが、びくりと体を引かれた。


「…あっ、ご、ごめんなさい…」


今の今まで触れることさえ怯えさせていたが、体を引かれたのは久々の事だ、とウォンは白眉の奥で眼を丸くした後細めた。(以前は触れる前に逃げられていたが、)ここ最近はびくっとはするものの触れることは許されていた気がする。また言わせてしまった言葉に、大丈夫だ、と怖がらせないよう優しく微笑んでみてもまだ彼女の瞳には戸惑いと恐怖が見て取れる。何がこの少女をそんなに責め立てているのか。ウォンは冷えきった体を労わるよう、優しい手つきとタオルでナマエの汗を拭った。


(今日はあまり…『具合』が良くないのかもしれない…。)


『心の具合』が。



咎落4




「だからバク、それはナマエがもう少しここに慣れてからの方がいい!」

「しかし、夜な夜な名前を呼んでるんだぞ?そうしてやった方がいいに決まっているだろう。」


そうだ、そうに決まっている、と頷く、支部長という地位に就きつつもまだ年若いバクにフォーは何とも言えない苛立ちを露わにしていた。わかっちゃいない、いや、わかろうとしているのは認める。だが早い。それを行うには、今のナマエには早すぎる。そうバクに言っても答えは先程のやりとりから変っちゃいない。バクの言うこともわかる。ナマエは夜な夜な魘され、飛び起き、片割れと兄の名前を呟く。そうしてやりたいとも思ってる。だが。


「ナマエはまだ精神的に不安定すぎる。それにあっちも色々あったんだろう?そんな二人を引き合わせてどうなる。感動の再会になんてならねぇよ。」

「あっちはもう兄のコムイと出会えて生活に支障はないらしい。ならこっちもそうしてやるべきだ。」

「なら兄の方をこっちに向かわせろ。」

「室長になった奴が今更来れるわけがないだろう。」


白衣を翻しながらナマエの元へと急くように歩くバクの背中をフォーは思いっきり蹴り飛ばしてやりたいと思った。だがしかしバクの言うこともわかる。気持ちもわかる。ナマエが泣き叫ぶ時にいつもいるのはバクだ。あやしてやっているのもバクだ。ナマエに今一番近い奴もバクだ。だからこそわかる。今のバクはナマエがただ痛々しくみえて目を瞑りたいだけだ。だから、片割れに会わせるなんて、精神的に安定していないナマエにまだ時期尚早なことをさせようとしているのだ。


「バク、落ち着け。お前はよくやってるよ、これからもゆっくりナマエに接してやればいいんだ。あのガキに今一番大切なのは、」

「ナマエ!」


バクの声に背中からその向こうへと目をやった。そこにはウォンに手を引かれ歩くナマエの姿があった。それを見てバクはまるでプレゼントを背中に隠した親のような顔をしてその二人の元へと行き、フォーはその後を追う。しかし足を進めてすぐに歩みを止めた。ナマエの目の色が見えたからだ。


(なんて、目してんだ…アイツ…。)


幼い少女の目はいつもより酷く鈍い色を発していた。その目は瞬きと一緒に様々な負の感情を見せている。その証拠に少女の目が一点に留まっていない。あの目には今、何も映してはいない。


「ナマエ、今日はお前に嬉しい知らせがあるんだ。」

「バクッ!」


やめろ!
今のナマエにそれは劇薬だ。


どうしてそんな目をしている、

ここ最近は割と落ち付いてたんじゃないのか、

どうして、また、そんな、




「リナリー・リーに会いたくはないか?」



――ここに来たばかりの目を…。




切り裂くような叫び声が上がった。


−咎落4終−


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