咎落3





咎落3






感情の箍が外れた、と言えばいいのだろうか。先月本部から半ば押し付けるように送られてきた小さなエクソシストはここ最近、悪夢に魘されていた。小さなエクソシストの名前はナマエというまだ10になったばかりの女の子だった。初めてここ、アジア支部をナマエが訪れてきたことを覚えている。棒切れのような手足に重たそうな頭、エクソシストとして待遇されていないぼろぼろの外套を羽織って、色のない瞳でどこかを見ていた。そんな小さなエクソシストにバクと一緒にナマエを出迎えたウォンの心はぎしぎしと締め付けられた。あの時のナマエは何も映っていなかった。食事も睡眠も取らず、ただ、息をしているだけの存在。しかしそれはある日、バクがナマエを抱き締めてから変わり始める。ナマエの瞳に色が入った。今まで何も映っていなかった瞳に色が入ったのだ。

恐怖、という色だ。

ナマエを抱き締めたバク以外の人間にそれは向けられる。やっと見れた少女の感情らしい感情に喜ぶべきなのかもしれない。バクに懐いたのかどうかわからないがバクの後ろをちょこちょこ歩く姿は愛らしいことこの上ない。しかしバク以外に向けられる瞳全ては恐怖だ。目が合うたびに小さく息を吸い込んで肩を震わせる。人見知り、なんて言葉じゃ片付けられない。一体本部でどんな扱いを受けたのか。ナマエの様子に調べる気も失せる。


「もう行かれるのですか。」


地下を利用して作られたアジア支部に光の入る部屋がある。柔らかな日差しが心地よい風と一緒に部屋一杯に満ちる空気の良い部屋だ。この日当たりのいい部屋はナマエの部屋だ。その部屋隅に小さなベッドがある。そこには小さなナマエが頬に涙の跡を残して寝息をたてている。その跡を優しく指で拭い、頭を撫でているのはバクだ。ナマエの瞳に感情(例えそれが恐怖だとしても)が戻った日からナマエは何かを耐えていた箍が外れた、と言えばいいのだろうか、夜な夜な悪夢に魘されていた。眠るたびに魘されて起きるため子供に必要とされる睡眠時間が十分取れず昼も寝かせている。


「子供の世話をしている暇はないからな。」


毛布をナマエの肩にかけ直してバクはベッドから立ち上がった。その足取りは頼りないもので、バクの目の下に隈がはっきりとある。寝不足とストレスにジンマシンが出てきて首筋が痒そうだ。


「そう言って30分前もこの部屋を出ていかれましたよね」、という言葉は飲み込んでウォンは微笑んだ。本部から押し付けられた、しかもライバル視しているコムイの妹にバクの態度はどうなるものか、と心配していたが杞憂だったようだ。上司は少女が魘されるたびに仕事を中断してあやしに来てくれる。それはナマエがバクにしか心を許してないからもあるが、それ以前にウォンの上司は心優しい。


「大丈夫ですよ。先程より眠りの間隔が長くなってますから。」


今度は寝付いてくれるといいのだが、とナマエを見下ろすバクの目は悲しげだ。魘されているナマエの夢の内容がわかっているのだろうか、辛そうだ。バクはナマエの寝顔を振り切りドアに手をかける。


「ナマエが魘されてたらすぐに呼びに来いよ!」

「おまかせを。このウォンがすぐにバク様をお呼びに参ります。」

「ちょっとでもぐずったらだぞ!」

「この部屋でナマエの服を作っていますので大丈夫ですよ。」

「起きたら俺様を呼べよ!」

「すぐに参ります。」


部屋を出て顔だけこちらに向けてまだ何か言いたげなバクの腕には科学班達がずっしりと掴まっている。ナマエが魘されるたびに仕事を中断するバクには仕事が山積みだ。科学班達に引き摺られるようにして消えていくバクを見送りウォンは部屋のドアを静かに閉めた。部屋にはナマエの寝息と微かな衣擦れの音。本部から送られてきたナマエが使っていたという衣服はどれもサイズが合っていない。いや、合わなくなったものだった。ウォンはそれを広げ、裁断していく。

アジア支部に子供の衣服などない。ましてナマエ程の小さい服などあるわけがない。幸い、ウォンの手先が器用なためウォンがナマエの衣服を繕うことになった。なるべくナマエが気に入って使ってくれるような服を作りたいのだが少女のリクエストを聞きたくても肝心の少女に近付けない。(いや、こちらは近付けるのだが少女の方がその前に逃げてしまう。)70を迎えたウォンに女子の流行りなどわかるわけがなく、取り合えず先日はワンピースを作ったか今回はズボンと簡単な上着があればいいだろうか、と静かにその場に立ってベッドへと近寄る。髪と同色の白髭を蓄えたウォンの体は影ができる程大きい。ウォンはナマエを起こさないよう音を立てずに裁断した布をナマエに当てたが……


「ん…ぅ…」


190を優に超えたウォンの大きな体がナマエの寝顔に影を作ってしまった。日の当たる部屋が悪かったのかウォンの立ち居地が悪かったのか、ウォンは急いで身を引くが遅かったようだ。ナマエはぐっと身を縮めてから、ゆっくりと小さな目を開いて起き上がる。ナマエの瞳に映っていく自分に戸惑いながらもウォンはナマエを怖がらせないよう(しかしぎこちなく)笑いかけた。


「おはよう……、」


開かれていくナマエの瞳にウォンがはっきりと映っていく。


「ひっ…ぁ…」


恐怖、という色に染まりながら。
ぱくぱくと口を開閉するナマエを落ち着かせようにも何と声をかけて良いのやらウォンがわたわたと手をさ迷わせているとナマエがハ、ハ、と息を短く、細くさせ、苦し気にずるずると蹲った。


(過換気症候群ーーーっ!?)


過呼吸だ。






***




「ここまで来ると異常だな。」

「…申し訳ございません。」


今度こそ、本当に今度こそナマエを寝かし付けてバクはベッドに腰掛けた。そのベッドはナマエの部屋のものではなく、アジア支部医務室にあるベッドだ。ナマエのパニックからの過呼吸を落ち着かせ(やむを得ないが)薬を打って寝かせた。しばらくは起きないだろう。小さな手をきゅっと握って自分の後ろで頭を垂れて控えているウォンに苦笑する。


「もう気にするな。これはナマエの心の問題だ。お前のせいじゃない。」

「しかし…」

「怖いのだろうな、人が。」

「…え…?」

「いや、少し違うな。大人が怖いのか。」


この小さな体に神の結晶を押し付けた大人が。




医務室からナマエを移動させてナマエの部屋のベッドに寝かせると窓から白い月がこちらを見下ろしていた。自分の責任だと今にも泣きそうなウォンを下がらせてバクはナマエの小さな頭を撫でた。



イノセンスの負担を和らげる薬を飲ませているから他の薬を飲ませたくなかったが、こんなに苦しむならやはり精神安定剤も飲ませた方がいいだろうか。それとも精神安定剤と言ってビタミン剤でも飲ますか。とにかくこの体に負担をかけたくない。そう頭を優しく撫でているとナマエが目を覚ました。何度も寝たり起きたりを繰り返したその瞼は重たそうに持ち上がり、バクを見つけると小さな手が小さな目をぐしぐしと擦って起き上がった。


「……よる…?」

「あぁ、夜だ。過呼吸起こしたの覚えてるか?」

「か、こきゅ…?」


小さく首を傾げたナマエにバクは「何でもない」と苦笑した。起き上がったナマエにウォンが作ってくれた上着を着させた。採寸をしていないというのによく出来上がっている。出来の良い上着にバクはウォンの苦し気な顔を思い出す。お前のせいではない、と言ったが多分聞き入れてないだろう。


「…ナマエ、ウォンは嫌いか?」

「………」


ウォンの名前にナマエは黙った。
そして頭を横に振った。

少し、驚いた。

過呼吸を起こす程なのだから嫌っているのだとばかり。「ならどうして…」そう言う前にナマエの小さな口が動いた。


「……怖い。」

「…怖い?」

「みんな、最初は優しいから…。」


一瞬、何を言っているのかわからなかった。しかしそれはすぐに理解できた。本部の…、いや、あの実験に関わった人間だろうか。ナマエは寒いのか怖いのかわからないが上着を羽織り直す。羽織った上着を少し強く握る手に何と言葉をかけていいのか声を失うが、ナマエが着ている上着にウォンの顔を思い出す。彼は感情豊かでよく泣くが、今日のように辛く泣きたいのを我慢しているのは初めて見た。そこでバクは気付いた。


(違う、ウォンはちゃんと僕の言葉を聞き入れていた…。)


だからこそ、あの時泣かなかったのだ。ナマエの心の問題だとわかっていたから、自分には何も出来ないと堪えていたのだろうか。
そんなこと…ないのに。
バクは上着を握るナマエの手に手を重ねた。ぴん、と張ったナマエの緊張の糸が揺れた気がした。


「ウォンが優しかったのは…、最初だけか?」

「…………。」


緊張の糸を緩めるよう、バクが微笑めばナマエは顔をくしゃりと歪めた。そしてすぐに首を振る。強く否定するように何度も何度も横に振った。


「そんなこと、ない…」


まるで、頭にこびり付いた何かを振り払うかのように。


「あの人は…、いつも、優しい…。いつも笑ってくれる。……この服だって、作ってくれた…。」


けど怖い。

ナマエはそう言った。

はて、自分はナマエにこの服を作ったのはウォンだと伝えた記憶がない。ウォンが言ったのだろうか。いやそれは無理だ。ナマエはバク以外に近寄らないし近寄れない。


「ウォンが服を作ってたの、知ってたのか。」

「……作ってくれたの、見てた……ずっと…。見つからないように見てた。」


そう言ったナマエに、ウォンが繕い物をして、それを見えない所でこっそり見ているナマエの姿がすぐに想像できて、つい吹き出してしまった。吹き出したバクにナマエがきょとんと目を丸くして、そんな少女をバクは抱き締めた。驚く程小さい体は以前抱き締めた時より柔らかい気がした。


「ウォンがまたお前の新しい服を作ってる。…見に行くか?」


ズボンを作ってたぞ、と背中をぼんぽんと叩けば胸にある頭が一呼吸置いてコクリと落ちた。




***




ぷつん、と糸を切ってウォンはそれを広げた。小さな少女に見合う小さなズボンだ。ワンピースや上着は多少サイズが合ってなくても大丈夫だったが、今回のズボンは少し心配だ。採寸をしたくても出来ないから仕方のないことなのだが、仕方のないことだから悔しい。そう溜め息と一緒にズボンを膝に落とす。


「……あの、」


小鈴を鳴らしたような声が聞こえた。可愛らしい声だ。誰の声だ、と目をそちらに向けるとそこにはバクがいた。そしてそのバクに隠れるように小さな少女がこちらを見ていた。

状況の理解に時間がかかる。自分は一体誰に声をかけられたのだろう。こちらを見つめる瞳は一体誰を入れているのだろう。
少女の肩にバクの手が優しく乗っかる。少女はそれを見上げ、バクは頷いた。少女が、ナマエがどこか緊張した面立ちでバクの影から体を現し、ゆっくりと足先をこちらに向けた。もじもじとこちらを見つめたり視線を外したりする顔からは緊張と、少しの恐怖が混じっている。それでも、ナマエは小さな口を開いて、小さな声でウォンに言った。


「……いつも…ありがとう……。」


ナマエはそう言ってすぐにバクの後ろに隠れた。隠れて、またひょっこりと顔を覗かせた。そんなナマエにウォンは自然に口が綻ぶのがわかった。自分に向けられる瞳はまだ恐怖の色だったが、その瞳の奥は、また別の色をしていたのが見えた気がした。


「こちらに来て、採寸をさせてくれませんか。」


差し伸べた大きな手に、小さな手が重なった。


−咎落3終−


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