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(あれ…、)
誰かに呼ばれたような気がして、ナマエは後ろを振り返った。しかし、振り返ってもあるのは自分が鍛練に付き合わせた探索部隊のカッシュが体力の限界でのびているだけだった。でも確かに誰かに呼ばれた気がして、ナマエは修練場を見渡す。自分とカッシュしかいない修練場はカッシュの荒い息しかなくて、ナマエは小さく首を傾げてから、床で大の字になっているカッシュに聞いた。
「カッシュ、何か言った?」
カッシュは胸を大きく上下して呼吸を整えながら半身を起き上がらせナマエに首を振った。
「いいや、何にも言ってないけど。」
「…そう。」
幻聴?そう首を傾げればカッシュは心配そうに眉を下げた。
「ナマエ様大丈夫?やっぱ疲れてんじゃない?ミランダ様が出発されてからずっと修練場に篭りっきりだろ。」
「……う、ん…。」
カッシュの言葉にナマエは曖昧に頷いて苦笑した。
ミランダが本部を出て、リナリー達の応援に行ったのは随分前の話だった。特に問題がなければ、もう合流しているかもしれない。ミランダと彼女のイノセンスの最終調整を行ったのはナマエだった。戦地に行っても、十分に力になれると判断したため、彼女を日本へと向かうリナリー達の元へ応援として行かせた。彼女のめずらしい能力と貴重な後方支援力はきっと役に立つ。ナマエも彼女と一緒にリナリー達と合流するはずだったのだが、ここ最近食事をとっていなかったのがミランダとジェリーによってコムイにばれてしまい、体調をしっかりと整えるまで教団の外には出さないとも言われてしまった。そんなコムイは、昨日から科学班に篭りっきりだ。
「私もミランダさんと一緒に行きたかったなぁ。」
「ちゃんとメシとらなかったナマエ様が悪いんだろう?」
「うう…。」
わかっているさ。きちんと食べなかった自分が悪い。そう理解も反省もしているのだが、どうも食べる気が起きない。それは自分があまり食べないというのもあるかもしれないが、最近はそうではないと感じている。食欲が、ないのだ。目の前に食べ物があってもそれが美味しそうと感じない。どれだけ食べていない日が続いも、空腹感がわかない。どうやら自分は聴覚や痛覚の他にも、食欲も失ってしまうようだ。例え突然食欲が戻ったとしても次は味覚がない。食べても味がない。小腹が空いたためチョコレートを食べたとき、まるで粘土か何かを口に含んでいるような感覚だった。
「カッシュは、粘土を食べたいと思う…?」
「は?なんで粘土?っていうか食べ物じゃないっすよね、それ。」
「…だよねぇ。」
粘土は食べ物ではない。でも、今の自分はその粘土を食べなければ戦地に立てない。その前に、行けもしない。今は、その粘土を飲み込むしかないのだ。ミランダがリナリー達の戦力に加わるのは嬉しい。それと同時に彼女と一緒に行けなかった微かな敗北感と焦燥感がもどかしい。どんなに体術を極めても自分のイノセンスはリナリーのような自分に装備するようなものではない。
どんなにイノセンスを知ろうとしても自然にシンクロしたミランダのシンクロ率には届かない。
どんなに知識を広げても各地を点々としてきたブックマンやラビには敵わない。
どんなに精神を高めても、神田ほど強くなれない。
結局自分はいつまでたっても、「役立たず」なのだ。
守りたいと思っても、結局は守られているのだ。
―――本当に?
本当に守られていると思っているの?
死なれては面倒だから、守られているんじゃないの?
(…違う…。)
違わない。誰もお前のことなんて守ってないんだよ。
(違う…、)
誰だって、役立たずは面倒なだけだよ。
(…違う!!)
お前はいつだって、
戦場に立つこともできない、
役立たず。
「ナマエ様?」
「…ッ!」
「大丈夫かよ、顔真っ青だぜ。やっぱ疲れてんだって。」
知らずにカッシュに肩を支えられている。ナマエは自分の体温がどんどん下がっていくのがわかった。嫌な考えばかりが頭を過ぎる。力がない分、精神面だけでも強く保たなければならないのに、最近の自分は本当情緒不安定だ。
(強く、もっと強くならなきゃ。)
皆に置いていかれる。
ただでさえ足元に縋り付くので精一杯なのに、これ以上先に進まれてしまったら自分は、自分は、
「ごめん、カッシュ。ありがとう。…今日はもう寝るわ。」
「そうした方がいい。何かあったらゴーレムでも飛ばしてくださいよ。」
「うん、ありがとう。」
部屋まで送ると言ったカッシュをやんわりと断り、ナマエは自室に戻る前にコムイの様子を見てからにしようと科学班フロアに向かった。少しでも落ち着きたくて。少しでも自分の心を安心させたくて。兄の顔と声を見れば少しでも落ち着くだろうと、廊下を足早に歩いた。
ふと廊下の窓から見えた、まるで欠けたクッキーのような月にナマエは足を止めた。外はもう夜で月の白さがやけに光っている。その白さはナマエに白い十字架を背負ったミランダの背中を思い出させた。ライダースーツのような団服を着こなしたミランダの後姿はナマエの脳裏に深く刻まれている。あんなに縮こまっていた彼女の背中が、あんなにも大きく見えた。
(……あっちは、そろそろ夜かな…。)
この空の向こうには、何が広がっているのだろう。自分も行くはずだった空には何があるのだろう。日本に向けて出発する大きな船、海、心強いエクソシスト達。
「…一緒に、行きたかったなぁ。」
ナマエは月に向かってそう零し、窓脇に手を置いてから首を小さく振った。その時、深紅の飾り紐がぱたぱたと一緒に揺れて、ナマエは長い睫毛を伏せる。
「……本当、役立たず。」
彼女の言葉は誰にも聞こえることもなく、廊下の暗闇と一緒に溶けただけだった。
***
リナリーから、まるで池に小石を落とすような声で言われた言葉にアレンは軽い眩暈を一瞬起こした。
「ナマエは、私の、エクソシストの双子というだけで、…私の知らない所でそんな実験を受けていた…。」
「そんな…ナマエが…?」
「ナマエは何も悪くないのに…!私がイノセンスとシンクロしたから…!!」
彼女のシンクロ率が低いのは、(私の、せい)
痩せ細った体にしてしまったのは、(私…!)
彼女をあそこに閉じ込めさせたのは、
「っ私の…、!!」
せい、と続けようとした言葉はアレンの力強く抱き締められた腕によって消えた。少年だ、少年だと思っていた腕は意外にも固く、間違いなく男性の腕だった事にリナリーは少し驚きながらも、アレンを見上げた。見上げたアレンの表情は険しそうに、まるで子供を叱るように眉を寄せていたが、すっと優しい手つきでリナリーの涙を拭った。
「リナリー。本当にそう思っていますか?…ナマエが、リナリーにそんな言葉を望んでいると思いますか?」
「……………ッ、」
アレンの後ろにある焼け野原が、どこかを、思い出させた。左右どこを見ても焼け野原。壊れていく機械。砲弾。涙を流して取り乱していい状況下ではないはずなのに、それでも、リナリー落ち着いてと優しく涙を拭ってくれるアレンにリナリーの涙は跡を残して止まった。それからゆっくり首を振って、心の中で小さくごめんと謝罪をする。
……わかっている。
ナマエはそんなこと、「私が悪い」なんて言葉、思ってもないし、望んでもない。ナマエは自分に課せられた鎖を自分の物として扱っている。私がその鎖を絞めたなんて思ってもないし、感じてもいない。私はこの数十年、そんなナマエの優しさに甘えて、守られてきた。それでもナマエは、私を大事にしてくれた。
ごめんね、ナマエ。ずっとそうしてきてくれたのに…、
『何リナリー、泣いているの?』
『だって、ナマエ…。これからは…ずっと一緒だよ……嬉しい。』
『私は、今、リナリーのその言葉が嬉しい。』
『行ってきます、リナリー。』
『リナリーを傷つけることは、たとえロボットでも絶対に許さないよ。』
頭の中で、いつでもナマエが私の名前を呼んでくれる。
だめだね、私。
ナマエはいつもいつも私を大切に、心から大事にしてくれてたのに、私はいつもいつも、ナマエは私を恨んでいるんじゃないかってびくびくしてた。
そうじゃない。
そうじゃないよね、
(………ナマエ。)
ぐ、とリナリーの手に力が入ったのが抱き締めた腕を伝ってわかった。いつの間にかリナリーを支えている感覚がなくなっている。
「リナリー。」
リナリーの足がしっかりと地について、震えが止まっていた。瞳も、どこか意を決したように真っ直ぐで、ナマエと同じ、強い瞳。アレン君、と小さく、しかし強く呼ばれた声にアレンは頷いた。
「私、スーマンを助けたい…!」
「うん。行こう…!」
二人は身を離して、炎上のスーマンを見上げた。
今度こそ離されないよう、しっかりと手を繋いで。
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