軍師殿にご注意を(2/2)
なまえを抱えたまま陸遜が室に入ると、傍に控えていた女官長始めとする女官達がしずしずとその場を離れて行くので、なまえの体は風邪など心配いらないほどに、結果茹であがってしまった。そんななまえに気付いていないはずがない陸遜はそれでも何でもないようになまえを牀に下ろし、その隣に腰掛けた。
「それで、私の帽子の話だったよね。」
「う、うん…」
陸遜に言わんとしていたことを言ってしまい、女官達には陸遜に抱き抱えられているのを見られ、更に空気を読んで下がられてしまった手前、もう帽子について聞く気力があまり無いのだが、普通に話す陸遜につられてつい返事をしてしまう。ちなみに、陸遜としてはなまえから嬉しい言葉が聞け、女官達にも改めてなまえの陸家による立ち位置が証明できて何よりだったりする。そしてなまえの恥ずかしくて泣きだしてしまいそうな顔が見れたのが一番の収穫である。
未だ俯いたままのなまえを無理矢理覗き見ようとはしないが、顔色を窺う程度に陸遜が顔を寄せた。栗色の前髪がさらりと陸遜の額に流れた。
「何を期待してくれたかはわからないけど、特に意味はない、って言ったら怒る?」
「へ?」
「帽子を被らなくなったのは、特に意味はないよ。」
「そう、なの…?」
「うん。ああでも、強いて言うなら、呂蒙殿が髪型を変えられたからかな。」
「りょもう、様?」
頷いた陸遜に、なまえは小さく首を傾げ、陸遜が慕う上官を頭に思い浮かべる。確かに、最近の呂蒙も今まで一つに結び上げていた髪を肩に下ろした髪型にしている。そう思い起こせば、陸遜が帽子を被らなくなったのは呂蒙が髪を下ろしてからだ。やはり、一番慕っている上官がいつもと違うことを始めると真似したくなるのだろうか、大人に囲まれながらも年相応な彼の一面に触れたような気がしてなまえは頬が緩んだ。
「そうなんだ。陸遜、本当に呂蒙様のこと好きだね。」
「別に呂蒙殿にならったわけではないよ。ただ、私もなんとなく思っただけで。」
と陸遜は言ったが、結果呂蒙に繋がっているのは間違いないだろう。
「でも、やっぱりおかしいかな。だらしなく見える?」
「全然、むしろだらしなく見えないから驚いてたんだよ。」
自分の前髪を一房持ち上げ言った陸遜になまえはすぐに首を振った。だらしのない陸遜など想像もつかないが、想像もつかない程彼は誠実な人間なのだ。帽子を被らなくなり前髪を流したところで彼の爽やかさが曇ることはない。
「陸遜は真面目だから、ちょっとぐらいイメージ変えても何も問題ないよ。」
イメージとは、と陸遜が続かないのは、以前なまえが彼にその言葉の意味を教えたことがあるからだ。しかし教えたと言ってもその場でさらっと流すくらいに伝えただけなのだが、頭のいい彼はなまえが教えたこちらの言葉を二度聞き返すことはない。だからこそ意味を教えるなまえも本当にこの意味であっていたかどうかいつも不安になっていたりする。
「私はなまえが思うほど真面目な人間ではないよ。仕事だって、少しサボったりするよ?」
「本当に?」
「うん。」
そしてたまになまえに合わせてこちらの言葉を交えてくる。しかもその使い方さえも完璧なものだから、その言葉が陸遜に教えたものかどうかも忘れてしまうことがある。
「なんか想像つかないな、陸遜がお仕事サボるなんて。」
「まぁ、仕事が粗方片付いてからだけどね。」
「そ、それサボってるって言わないよ。ただの休憩。」
仕事の始めや、やり途中で投げ出すのは完璧なサボりだが、陸遜の言ったように粗方片付いて仕事の終わりが見えている時点でサボるのは、また違う意味のような気がする。
それでもやはりそんなところは陸遜らしいというか。彼は勤勉な人間だと改めて感じる。
「今までの帽子はどうしてるの?ちゃんとしまってるの?」
「うん、ここにしまってあるよ。」
陸遜が被っていた帽子は、物の価値がわからないなまえでも高価なものだとわかる。それはどこに片付けたのだろうと聞けば、陸遜は牀近くの葛籠の蓋を開けた。そこには少し懐かしいと感じる陸遜の被っていた帽子が何個か丁寧に入っていた。
「陸遜、一つ被ってみてもいい?」
「なまえが被るの?」
「だめ…?」
「駄目じゃないけど、大きいんじゃないかな。」
はい、と陸遜が適当に一つ取り出し、なまえの頭に優しく帽子を乗せた。やはり陸遜の言った通り、被らせたというよりもサイズが合わなくて乗せたという方が正しい。ずるりと頭から落ちそうになるのを抑えて、なまえが苦笑すれば陸遜も一緒に笑った。
「その帽子を被ったら、次の戦も間違いなく勝てそうな気がする。」
「えっ…!」
「だって呉の神子が被った帽子だよ?」
「み、神子なんて……、わたしただの女子高生だよ…。」
それに魏と蜀の神子とは違い、実戦に役立つ能力を得ているわけではない。自然と声のトーンが小さくなってしまうなまえに、陸遜は優しく、包み込むように彼女の手を握った。
「例えなまえがただの女の子でも、なまえが呉の神子であることは間違いないし、」
「り、く…」
乗せられた帽子を、陸遜がゆっくりと外し、牀の上に置いた。
「なまえが神子でなくても、私はなまえを離さないよ。」
「ん…、」
鼻先が触れてしまいそうな程、ゆっくりと縮まった距離に目を瞑れば、陸遜の手がなまえの頬を撫ぜて唇が触れあった。優しく押し付けられた唇に行き場を失った吐息が閉じ込められる。軍師とは思えぬほど鍛え上げられた腕が優しくなまえの体に絡み付き、強く抱き寄せられる。
「り、陸遜、あの、…んっ」
一度離れた唇は、呼吸をさせてくれる前に再び重なった。
抱き締められる腕の強さから、彼からの想いの強さを感じているような気がして頬が火照ってしまう。
「ゆ、夕飯、夕飯たべなく、ちゃ」
それでもなんとか陸遜の胸を押して、と言っても緩まる気のない腕になまえの顔が少し反れているくらいなのだが、疲れているであろう陸遜を労わるなまえだが、当の陸遜は夕飯よりも目の前のご馳走の方が大事であったりする。まさに目の前の食事が上手く逃げようとしているのを逃すほど愚かな陸遜ではなく、なまえの頬から首筋に手を滑らせる。
「お、お仕事で、お腹、減ってるよね…?夕食、あの、調理場の人達がね、今日も美味しそうなもの、作ってくれてる、よ…。」
「そう、それは楽しみだね。…なまえも一緒に食べれるよね?」
「う、うん!むしろそのために、陸遜待ってたようなもの……っ」
急に、陸遜が押し迫るようにして牀に膝をついた。それと一緒になまえの体も牀に寝かされて、なまえの視界いっぱいに陸遜が広がった。栗色の瞳に、栗色の髪が、揺れている。
「では、最初になまえを。」
微笑む陸遜に、先程の言葉が一緒に食事をするという意味ではないことに気付いたなまえは息を飲んだ。
もちろん、この一連の流れは全て陸遜によるものなのだが、これらが何時何処から展開させられていたかというと……、彼のみぞ知る。
軍師殿にご注意を