オオカミ青年のおあずけ


ナマエがキュモールにばら撒いたそれがアレだとわかると、反射的に体がのけ反る。いやのけ反るところじゃない。アレの威力は俺が一番よく知ってる。


「ふふ…、あの夜と一緒ね。…と言っても、あの夜とは違ってこれは薄めてないやつだけど。」


そう言って口元に弧を描いたナマエに思わず相手がキュモールだとしても「げっ」と声が出てしまった。ナマエ最大の武器であろうビリバリハの花粉、それを薄めてないやつを例えキュモールでも人間にくらわせるとは…なんて、殺そうと思ってた自分を忘れて顔を引き攣らせた。


「ローウェルに殺させなんてしないわ。アレクサンダーは私の手で必ず仕返しする。」

「魔女だ…魔女がいる。」

「ローウェル何か?」

「いえなんでも。」


ナマエの足元で泡を吹き、ぴくぴくと痙攣を起こしているキュモールに原液…じゃない源粉の威力の程度が窺える。(しかも俺に殺させなかったのアンタがやり返したかっただけかよ!)(軸のぶれがないやつだな!)いっそあの時俺がすぐ殺してやった方がラクだったかもしれない。俺が追い詰めた時にもヤツの目はイッていたが、今はもう、完全に別世界にイッてしまっている。…えげつねぇ…。


「ちょ、ちょっとナマエちゃん、おっさんも少し被ったんだけど…けほっ。びりびりするー」

「あらごめんなさい。ヒーローの登場にしては随分遅かったから、勘弁してくれる?」

「いやいや、おっさん頑張った、頑張ったから。てかヒーローは俺じゃないデショ?」


ぱちん、とおっさんが片目を瞑るとナマエは瞬いた。
おっさんは気を失いながらも体をびくびくと震わすキュモールの腹に腕を通し、俵を担ぐように抱きあげた。


「さぁて、おっさんはキュモール持って帰るけど、この貴族の坊ちゃんにまだ用がある人いるー?」

「俺はないけど……。」


殺してやるっていう意欲はすっげーあったんだけど…。ナマエがあんな事してキュモールが死ぬよりも無様で無慈悲なコトになって、…なんか、イロイロとする気が失せた。人間って獣より遥かに残酷だよな。


「レイヴン、それを持って行って……、貴方のご主人様に、今度はまともなヤツを領主に寄越しなさいって伝えてくれるかしら。」

「りょーかい。まかせてちょーだい。」

「それと、」


キュモールを担ぎ直し、扉を抜けようとしたレイヴンにナマエが続ける。


「…色々、ありがとう。」


獣の俺らじゃなかったら聞きこぼしそうな程の小さな声に、
まさかナマエからそんな言葉が出るとは思わなかったことに、
俺とレイヴンは数秒顔を見合わせるも、破顔したレイヴンがナマエの頭に手を乗っけた。


「青年にも言ったけど、おっさんはおっさんの目的で動いただけよ。でも、どーいたしまして。」

「……うん。」

「それから、お礼ならそこの狼青年の方が相応しいわよ。」


じゃ、あとは任せたよん。とレイヴンは言い残してこの部屋から出ていった。胡散臭い背中と静かな足音が遠ざかり、この部屋に俺とナマエだけが残る。互いに口を開かず、沈黙だけが流れようとしていた時、俺は、気付いたらナマエの背中を抱き締めていた。


「ロー、ウェル…?」

「………心配した。」


自分でも情けねーな、と思うくらいの擦れた声が出た。ナマエが見付かって、キュモールを追っ払って、ナマエを抱き締められて。それを思うと自然と声が震えてしまったのだ。情けねぇ、ほんと、狼が、人間の女一匹に。


「前も言ったが、頼むから俺を頼ってくれ。」


ナマエが俺の前から居なくなる前、ナマエの泣きそうな顔を見て、そんな顔をさせてしまった自分にがっかりした。そして、あれだけ一緒にいたのに何も頼ってくれないナマエにも、正直がっかりした。それがお前だと言ってしまえばそれで終わりかもしれない。けど、お前はそうでも、俺は違うんだよ。もっとお前に触れたい、お前の傍にいたい、お前に頼られたい、お前と一緒の時間を過ごしたい。
俺とお前の距離が近いと思ったのは、俺だけなのか?


「…ごめんなさい。また、迷惑…」

「ナマエ、お前それワザとか?」


…なぁんでそんな方向にしか俺の好意は受け止められねぇかなー。いつもはずけずけと言いたいこというクセに、どうしてこんな時は一歩どころか十歩くらい下がるんだよ。


「迷惑。かけられた記憶はない。これも前に言った。」

「ええ…。」

「忘れたとは言わせん。」

「…お、覚えてるわ。」

「なら、」


抱いた肩をこちらに向き直すよう、くるりとナマエを腕の中で回した。いつものきかん気そうな目は、今はない。戸惑いと遠慮の混じった、可愛くない目。ほんと可愛くない。狼だろうが人間だろうが、誰が見たってこんな素直じゃない女、可愛くない。可愛くないけど、俺にとっては最高に可愛いなんて、どうかしてる。


「他に俺に言うことは?」


俯きかけた顎をすくい、すくった手の親指で、ナマエの唇に触れた。柔らかい。瑞々しくて、すぐにかぶり付きたくなる、欲しくてたまらない、唇。


「…ありがとう、ローウェル。」


弱々しく瞬きされた瞳に、吸い込まれるように唇を寄せた。そしてゆっくりと伏せられた睫毛に、隙間を埋めようとしたその時だ。


「だ、誰かー!!アレクサンダー様が!アレクサンダー様が!!」


…叫び声が上がったと思えば、何かが投げられた音や割れた音、けたたましい足音。今の状況にまっっったく相応しくない騒がしい音が扉の向こう、っていうか屋敷中に広まり、もう、俺、可哀想。俺ほんと可哀想。


「…もう少し上手くやれよな、おっさん。」


恨むぜ、まったく。
溜息と一緒に、肩ががっくりと落ちた。


オオカミ青年のおあずけ


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