雪上セレナーデ(2/2)
鈍色のハイデルベルグの空からしんしんと降る雪から逃げるように入った英雄門で、カイル達はそこで起きた出来事にただただ息を呑んだ。少し喧嘩っ早いが何かあればいつも間に入ってくれるロニですら、その光景に眼を丸くした程だ。リアラなんて大きな瞳をこれでもかと見開いている。ただいつもと変わらないのはやっぱりジューダスだけだった。ハイデルベルグに着くまでに浴びた刺さるような吹雪のような痛さが張り詰めた空気となってカイル達を包む。
「もう一度、言ってみなよ。」
普段の彼女とは想像もつかない低い声が八つの肖像画がかかった部屋に静かに響いた。かつての仲間達が描かれた絵が、その光景を見つめている。
「ひっ、」
「リオン・マグナスが…、なんだって?」
怒が含まれた声がギリッと音をたてて壁に短剣を突き刺している。短剣のすぐそばには今にも気を失ってしまうのではないかと思うぐらいに顔を真っ青にしている男の顔があった。男は先程八年前の神の眼を巡る争乱について得意気にカイル達に話していたのに、今はその得意気だった顔はどこへやら、額に汗をぐっしょりと流していた。それもそのはず。少年少女が数人英雄門に入ってきたならばこの英雄門がなんたるかを説明してやらねばならんと舌を振るった時だった。先の騒乱で避けてはならぬ裏切り者の話をしたら男の顔の横には短剣が突き刺さっていて、話など興味が無さそうに掛けられていた肖像画を見ていた女の子が自分を殺さんばかりに睨み上げてくるのだ。
「何も…知らないくせに…!何も…!」
今にも男を殺しそうな気迫を見せながらも、ナマエの声は震えていた。怒っているというよりも泣き出してしまいそうな声だった。そんなナマエにカイル達はどうするべきか戸惑いながら目配らせた時だった。漆黒のマントが揺れた。
「…ナマエ、」
ジューダスの声にナマエは大きく肩を揺らして、泣き出しそうな瞳をジューダスに向けた。ジューダスはただ首を振る。ナマエは小さく「でも、」と言ったがまたジューダスがナマエの名前を呼んだ瞬間、粒のような涙を一滴散らしてこの部屋を走って出て行ってしまった。
「あっ、ナマエ!」
「僕が行く。」
カイルがナマエの背中を追い掛ける前にジューダスがマントを翻した。竜の骨の仮面から見えるアメジストの瞳はいつも通り落ち着いて見えたが、何処か慌ただしくジューダスは出ていってしまった。
ナマエは教会の裏道という何とも見付けにくい所にいた。いつも泣くときは誰にも見られない所で泣くという彼女の習性をジューダスが知っていなければ見付けられなかっただろう。教会の裏道に逃げるような足跡を見付けた時は追い掛けながら少し笑ってしまった。彼女は何も変わっていない。泣く時は隠れて泣く。そしてその泣く原因は、
(いつも僕だ…。)
明かりもない、人一人が入ってしまえば身動きが取れなくなってしまう裏道にナマエは蹲って肩を震わせていた。啜り泣く声が聞こえる。さくり、と雪を踏めばナマエの小さな泣き声が止まった。
「…ナマエ。」
「ジューダスは、」
「………。」
「嫌じゃないの…?あんな風に言われて…、」
「…僕はそれだけの事をした。そう言われるのは、当然のことだ。」
「………っ」
たった一人の女性を、マリアンを守るためにリオンは世界を、仲間を裏切った。そのリオンが今この時代に「裏切り者」と呼ばれるのは至極当然のこと。しかし世はその時のリオンに人質がいたという事を知らない。マリアンという、唯一自分を見てくれる大切な女性を守るためにリオンが一人で戦っていたという事を。
それを知らず、ただ、裏切った、と。
「ジューダスは悔しくないのっ?悲しくないのっ?あの時のリオンはああするしかなかったじゃないっ!それしか、マリアンが…、」
膝からやっと顔をあげたナマエは涙を流していた。ジューダスを見つめてただただ感情のままに涙を流していた。ジューダスはその流れる涙に胸が温かくなるのを感じた。あぁ、なんて、愛しい涙なのだろう。
いつも彼女は僕を思って泣いていた。ヒューゴに計画を伝えられた日も、一緒にマリアンを守ろうと誓ったあの夜も、スタン達に背中を向けたあの時だって、ナマエは僕を思って、泣いてくれていた。
「僕は、悲しくなんかない。」
「嘘よ…。」
「嘘じゃない。」
雪を踏み鳴らしてナマエの前に方膝をついた。人差し指で触れたナマエの頬は外気に触れてとても冷えていたというのに、涙はとても温かかった。
「お前が、」
「…………。」
「ナマエがいつも、僕のために泣いてくれるから……悲しくなんて、ない。」
泣きたくても泣けない僕のために。泣いてはいけないと育てられた僕のために。ナマエは僕が圧し殺した感情の全てを代わりに受け止めてくれる。喜んでくれる、怒ってくれる、悲しんでくれる、笑ってくれる、泣いてくれる。
そうジューダスが言うとナマエは泣き顔を更にくしゃくしゃに歪めて、ジューダスを押し倒す勢いで抱き付いた。ジューダスは後ろに倒れそうになりながらもなんとか堪えてナマエを抱き止めた。
「ジューダスは優しすぎるよぉお…!!」
「…僕を優しいと言うのはお前だけだろうな。」
ナマエのいきなりの抱き付きに少し頬を赤らめつつもジューダスはナマエの背中に手を回した。ジューダスよりも一回り程小さな体だ。
(この小さな体に、僕はどれだけ救われているのだろう…。)
「無理しないでねジューダス…。私はいつも、ジューダスの味方だから。つらいときは、言ってね…。」
鼻声混じりのナマエの声が耳を擽る。雪で体は完全に冷えきっているというのに、胸はとても温かい。少し雪の積もった仮面をナマエに当たらないようゆっくり外して雪の上に置けばナマエが体を離した。涙で濡れた瞳は、まだジューダスを心配そうに見上げている。ジューダスはそんなナマエを安心させるようにアメジストの瞳を少し細めてナマエの頬を片手で包んだ。
「大丈夫だ。僕には…、」
僕には、ナマエがいるから。
そう呟いた言葉は、雪と一緒にナマエの唇と溶けた。
彼女の涙は、
なんて愛しいのだろう。
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