砂漠の抜け方(2)
今回の小テストは些か手を抜き過ぎたせいか三学年の補習者は和民しかいなかった。
――別にそれと狙った訳ではない。
自分に言い聞かせて七限のチャイムと同時に学科準備室の席を立った。
教科書も参考書もノートもチョークも持たない。最低限の連絡用スマホと財布、愛用のジャージを羽織って指定の自習室ではなく、大学旧講堂へと向かった。
和民が七限補習を受講する事はまずない。必ず逃走する、というのも、今までの答案のコピーを見直してみたら、彼はどうやら英単語を覚えておらず、中二半ば程度の英文法しか理解していなかった。
もう此処まで遅れていたら教える方も面倒だ。本人とて取り返す気持ちは皆無だからこそ補習に出ないのだろう。
つまりは双方合意でのサボタージュになる。実に平和なのだが、折角作った機会を無駄にするつもりもなく、逃げたであろう和民の姿を探した。
和民は何でもとても脚が早い。下駄の癖に元気の良い風紀委員の一年野球部員をあっという間に巻くと聞く。
巻くばかりでなく、構内の何処かに隠れて時間を置き、ひょっこりと部活に紛れているというのだから全く人をおちょくっている。
斯くいう俺も帆藻学在学中は同じようなものだった。だから大体の隠れ場所は判っているつもりだ。
一番居心地の良かったのは俺の入学と同時に移転した大学の旧講堂。
三年間ずっと水も電気も止められなかった。
先週試しに構内の最奥、旧講堂裏手、西の外れから見上げてみたら案の定一室電灯が灯っていた。
あれが和民なのか確信がある訳ではなかったが、安全に隠れられる場所等、旧講堂か図書館か体育館地下倉庫くらいな物。
その中で一番の穴場が旧講堂だから、鬼ごっこを極めて逃げ続けているとしたら、彼も此処に辿り着いているに違いないと漠然と考えた。
陽は一日一日と伸びてはいるが、今年は気温の伴わないせいか日暮れの早い気もする。
夕陽を光源に目指す小教室のある階まで昇っていく。
廊下に出れば人工の光が少しばかり厭味たらしく漏れていて、俺は足音を忍ばせてそこの教室へと近寄り引き戸を引いた。
びくりと肩を跳ね上げ、次いでコロリと下駄を鳴らせたのは学帽に学ラン姿の件の生徒、予感の的中に内心ほくそ笑む。
和民は逃げこそはするが格別反抗的な態度を取る事もなく、首根っこを捕まえてさえいれば存外大人しいとアリスから聞いてもいた。
暴れられた所で俺は全く困らないだけの腕力も脚力も体力もあるが。
「悪ィ、和民。俺補習の場所指定間違えた?」
壊れ掛けのブリキの玩具のようにぎこちなく振り返ってくる彼に一応の厭味と牽制はしておく。
合意のサボタージュとは言え、俺は別に定例の自習室でも構わなかったのだから、これくらいのジャブは許される筈だ。
彼の着席していた机の上にはカラフルなカードが整然と並べられていた。これも事前にアリスから聞いていた情報だ。
何でも和民はポイントカードを貯めるのが趣味らしい。馬鹿な子供の取る行動は生憎理解出来ないが、彼も理解されたくて趣味にしている訳ではないだろう。
そもそも理解されたかったら制服違反はしない筈。結局斜に構えているのは和民も那須も大差ない。
「あ、お前、こら」
正面に立ち、思わず一際目立つ下品なショッキングピンクのポイントカードを手に取った。
当校最寄駅白亜駅の真南は所謂シャッター街の黒島通りがある。シャッターばかりの通りが裏街の雰囲気を帯びてくるのは自然の理、俺の高校時代には既にラブホテルやクラブ等が軒を連ねていた。
そのショッキングピンクのポイントカードは俺も利用しているラブホテル、ブラックナイトの物なのだが、問題は趣向だ。
ブラックナイトは白亜駅周辺で唯一の男同士で利用出来るラブホテル。
ネット上でも隣駅銀原駅のドリームパープルと白亜駅のブラックナイトはゲイ御用達と有名で、俺が利用していて男女の連れ合いを見た事がない。
擦れ違っても男同士、極稀に女同士だ。
ホテル自体古く外装も内装もいい加減、まるで雑居ビルのような作りで、鍵もアパートの管理人のように居座るオーナーから直接預かるという、確かに使い難い仕様で、だからこそ寂れて同性愛者、主にゲイの溜まり場になったのだろう。
近場に発展場として有名な公園やバーがあるのも悪かったのかもしれないが。
ポイントカードはスタンプが押され、日付も書かれている。生憎俺はポイントカードは作っていないのだが、和民のそれは計十一回の利用を証明していた。
しかし最後の利用は去年の十月。その殆どが一昨年の日付で、徐々に利用しなくなっているのが判った。
流石の和民も緊張しているらしい。ちらりと背後の戸を確認するような素振りをした。
「このラブホ、ゲイ御用達だよなぁ。そこそこポイント溜まってっけど最後の日、随分前。勿体ねぇ」
ポイントカードをぴらぴらと揺らすと和民は決まり悪そうに俯く。やはりどうやら男と経験があるらしい。
別にセックスの相手に困る事はない。わざわざ生徒や同僚に手を出さなくても、それこそ近場の発展場に行って煙草を蒸かしていれば便利な性欲処理の穴の方から声を掛けてくれる。
――けれど。
「……補習すっか」
今の表情を見ておきたくて深く被られている学帽を奪うと彼は動揺したのか肩を揺らし、一瞬こちらを見上げて来たが、直ぐに顔を伏せて律儀にも鞄に手を伸ばし、どうやら勉強道具を取り出そうとしているようだった。
敏いのかと思っていたが存外そうでもないらしく、取り敢えずはその腕を引いてみる。
彼は大人しく従って導かれるままに教壇の前まで着いて来た。もう逃げるのは諦めたようで、ただ萎縮しているのか、それ自体が癖なのか――恐らくは癖だ。
向き合っても視線を絡ませようとしない。長い前髪に目許を隠し、唇にはぎこちない笑みを浮かべている。
「和民、好きな子居るのか。恋人とか」
確認しておかなければならない事が二つあった。もしこれで「居る」と言われても果たして引き下がれるのか自信はなかったけれど、覚悟するのとしないとでは大きく違う。
和民は俯いたまま答えない。唇が時折引き締められるから何かを考えているらしいのは判って、恋人は居なくても好きな相手くらいは居るのだろうと直感した。
高校大学等一番恋の花が咲く時期だ。居ても少しも可笑しくはない。
「……やっぱ居るか」
改めて引き下がるつもりのない自分を再確認した瞬間、慌てたように和民が首を振るものだから、これだから子供は面倒臭い等と思ってしまった。
これでは居ると白状しているような態度だ。まさか今更男が恋人だから言えない等という事はないだろう。やはり、片想い、それなのではないかと確信を深める。
「人の目ぇ見て声に出そうな。本当に居ないんだな?」
それなのに俺は都合の良いように再確認をする。これ自体愚問、ただ言質が取れれば良いだけの事項でしかない。
子供が隠したい事を逆手に取って利用するだなんて全く大人気ないが、騙される方が悪い。
言葉なしに伝わる等有り得ない。それを身を持って勉強するのも悪くはないだろう。
和民は顎を少し上げたけれど、前髪が邪魔をして何処を見ているのかも判らない。電灯に、ちら、と反射した物が恐らくは瞳。
烏の濡羽色と形容しても過言ではない、瑞々しい黒髪と黒瞳、純粋に綺麗だと思った。
「……居ません。好きな人も、恋人も」
彼の一言一言を区切るような宣言が、まるで彼自身がその身に言い聞かせているようにも取れて、或いは叶わぬ恋でもしているから言えないのだろうか、ならば却って都合も良いかも知れない等と考えたところで、何やら自分が平生でないのを自覚した。
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