砂漠の抜け方(1)


 その後何かがあった訳でもない。言った通りに番茶と芋羊羹を出して、その生徒はほんの少しばかり機嫌の良さそうにして平らげ、礼儀正しく頭を下げて帰って行った。
 実際帰ったのかは判らない。ただ、安物のビニール傘を渡したら「お気遣い申し訳ないです」等と一人前の口を利いて出て行っただけだ。
 俺は見送りもしなかった。
 けれど、その後一人職員室に戻り、帰り支度を始めていた教頭を捕まえ、その生徒――和民蕨の経歴、成績の書類全てを入手した。
 養子縁組父子家庭、成績の壊滅的なのは判っていたが、何となく興味が湧いた、としか形容出来なかった。
 人の口に戸は立てられない。
 情報元は俺がコネを駆使してこの高校に就職を斡旋した二歳歳下の旧友、有栖川蓮司だった。
 やはり帰り掛けだった有栖川を寸での所で捕獲し、二人で飲みに行く事にした。
「ちょっと殿ぉ、無関心にも程があるんじゃないのぉ?」
 有栖川は二杯目のジョッキを飲みながら呆れたように告げる。
 『殿』は大学時代のバンド仲間から付けられた俺の渾名だ。親父が世襲議員というだけで『殿』だとか『ロード』だとか呼ばれる。
 最初良い気はしなかったが流石にもう慣れた。
 その大学時代から同バンドでギターをしている有栖川の事も、俺は彼の所謂『オネエ口調』遊びに合わせ『アリス』と呼んでいる。
 実際有栖川は存在が『不思議の国のアリス』のような不条理と矛盾の男だ。
「そんな問題児なのか?」
 安居酒屋の安焼鳥を摘みに俺もジョッキを傾ける。
「問題児は問題児だけど素行より経歴が問題児というか」
 有栖川――アリスは珍しく迷うように視線を彷徨わせた。演技掛かってない辺り本気で周囲の視線を気にしているようで、気色は悪いが身を寄せられるのに合わせて頭を近付ける。
「……和民はガキの頃虐待、ネグレクトされてたって話」
 アリスの素の鋭いテノールが鼓膜を震わせた。
「……ネグレクト?」
「そ、ネグレクト、育児放棄。何でも実母がシングル……というか相手の男が和民が産まれる前に姿眩ませた結果の母子家庭。凄ェぞんざいに扱われてて、それを見兼ねた親戚だかが和民を施設に入れようとして和民義父に貰われたらしい。小学校二年だか三年くらいまで学校行けてなかったって聞いた」
「誰から」
「新田先生だ、音楽の。和民の出身中学の教師と高校同期って話だから確かだろうな」
「……それは」
「名前も改名したって話だぜ?改名前がナナシってこれもまた冗談みてぇな名前だったって。だから教頭は」
「『問題なく卒業』させたいと」
 アリスは身体を離すとネギマに豪快に齧り付き数回頷いた。
「そういう事。三年は鶴見、和民、那須だな、要チェック」
 就職して一年で生徒指導部に就いただけのキャリアは伊達ではない。アリスの情報網は『面倒見の良い教師』と違い事実のみを拾い上げてくれる。
 懐かれていれば良くも悪くも生徒の姿が歪んで見えるのは、人として当然の情だ。教師はそういう意味で時に人の情を裏切る冷酷さも要求される仕事。
 アリスは積極的に部活顧問を掛け持ちもしているし、生徒指導部に加え毎年委員会関連の副顧問まで務めている。
 自己評価が低いのが勿体無い程教職に向いていると思う。もしかするとそれが辛い故に自己評価が低くなるのやもしれないが。
「鶴見は家庭の事情、中学素行不良時期、ホモの三重苦か。那須は?」
 鶴見という生徒は俺の顧問する軽音楽部の部長を務め、今年度の生徒会選はいよいよ出るだろうと専らの噂だった。成績も良い数字を揃えているらしいし一見手は掛からない。
 反面、複雑な家庭環境、短期間ではあるが中学時代の非行事実、加えて本人自らゲイの趣味があると公言して現在も華やかで奔放な性生活を送っている。
 扱いに迷う微妙な線を歩いていると言っても過言ではなかった。
「那須は試験がアレ、模試がアレ」
「あ、それか」
 思わず苦い笑いをしてしまう。
 那須の試験回答は配点を見透かしたかのように応用問題ばかりで平均下層ぎりぎりを稼ぎに来る。
 それでいて全国模試は全国トップレベルを三年間キープしていた。何度か俺の所属する教務部でも会議になった生徒だ。
 出来るのにわざと点数を落とすのを注意すれば「授業のレベルが低いからだ」等と堂々足る態度で見下してくる。
 俺も正直余り触りたくない存在だった。拗ねた子供程面倒な生き物はない。
「……那須も鶴見も放っけば良いんじゃねぇか」
 結局考えるだけ徒労のように思う。転んで痛い思いをするのは当人で、転んだとしても知らぬ所で転んでくれていれば御の字、要は手間が掛からなければ良い。
「そうなんだがな、どうしたって腑に落ちない。因果な商売だな、教職」
 アリスは肩で一息吐くと口直しをするとばかりに煙草を咥えた。釣られて俺もキャメルに手を伸ばし、細やかな贅沢、マッチで火を点す。
「……あ、でも何でいきなり和民君なのぉ?」
 アリスがふざけた語調に戻り、しみったれた話から離れたと思ったが、その質問もどうでも良い類いの物だった。
「別に。今日見掛けたから」
「あら、あの子ったらこんな雨の日に学校来てたなんて。何か用事でもあったのかしら」
「さあな」
「もう、ちゃんと訊いておきなさいよね、この役立たずぅ」
 肘で突かれて、慣れてはいるが鳥肌が立った。
 そう言えば本当に。
 ――和民は泣いていたんだろうか。


■■■■■



 和民の事情を少し知ってみた所で何が変わる訳でもなかった。
 藪を突いて蛇が出て来たら堪った物ではないし、俺はそもそも藪が嫌いだ。蛇でなく蚊が出て来てもうんざりする。
 始業式、入学式、授業開始、学校行事は滞りなく進んでいき、五月、大方の予想通り鶴見が得票率トップで生徒会入りをし、大方の予想を裏切る生徒会長に就いた。
 俺もあの不精男が幾ら軽音楽部の部費の為とは言え、生徒会長の座を取り行くとまでは思っていなかった。
 「先生が顧問とか聞いてないんすけど」等と鶴見には笑われた。俺も好きで生徒会顧問を引き受けた訳ではない。
 去年までは、若い教師の多い帆藻学内ではベテラン組に入る真北先生が顧問、アリスが二年程連続副顧問を務めていたのだが、そのアリスが風紀委員会の副顧問になり、風紀委員会顧問となる転任の柏崎先生のサポートに回る事になった。
 委員会関連の顧問も副顧問もやるつもりは皆無だったのだが、変な所でコネが権力を発揮し、エリートコースに乗る生徒会顧問がいきなり回って来た。
 真北先生は主幹教諭に格上げされ、早くも時期教頭候補筆頭か等と言われているが、真北先生の対抗軸になれとばかりに呼ばれたのが件の柏崎先生だ。
 帆藻市に隣接する夏伊市にあるこれも帆藻学同様知る人ぞ知る財閥校、私立夏伊学園高等学校からヘッドハンティングされたようだ。
 恐らくは発奮しろと俺も暗に言われているのだろうが、俺は寧ろずっと平のまま働いて居たい。
 そういう仕事はそれこそアリスの方が余程向いている。
 上もアリスの実力を知っているからこそ柏崎先生のサポートに回したのだと思う。果たしてどちらが鬼でどちらが金棒か、高見の見物、といったところではあるが。
 生徒会選を終えると直ぐに生徒総会が開かれ、それを終えればもう一学期中間試験だ。
この時点での小テストで成績の芳しくない生徒には七限補修を行うよう達しが出ている。
 俺は全学年の一組から三組までの英語、その内幾つかのクラスのグラマー、文系コースの英語演習を担当していて、この試験前が最も多忙を極めた。
 小テストの難易度を落とし、平均点を調整して七限補習の生徒数を減らすのも、この仕事を円滑に熟す為の重要なスキルだ。
 しかし、どんなに馬鹿な問題でもほぼ必ず学年で三人、四人の補習受講者が出るのが悩ましい。
 その中に必ず居るのが和民で、彼のまともに七限補習を受けないのもこの二年で充分に判っていた。




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