ヒトリノ夜(4)


 生徒会長に就任して俺も屋上の鉄扉の鍵を預かるのに成功はしたけれど、習慣のまま彼に開けて貰っていた。
 そこはいつものように誰も居らず、だからいつものようにフェンス際まで歩いて定例の位置に腰を下ろした。
 彼は慎重に身を屈め膝を付いてから確かめるようにしてアスファルトに尻を落とす。
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたのは痛むからなのに違いなかった。
「……今日はツナパンと何よ」
 何か気の利く言葉はないかと思って結局気付かないせいをしたのは、きっと怖かったからだ。
 俺は自分のした事で那須から避けられるのが怖い。間違いなく恐れている。
 だからもう、思い出したくもない。
 ――否、忘れられない。
「ツナパンとツナパンとツナパン」
 彼は俺を視認する訳でもなくコンビニ袋を逆さまにしてアスファルトに同じ和風ツナパンを三つ転がした。
 彼のツナ好きは知っているけれど流石に三つともツナパンは初めての事で驚いた。
「……飽きねぇか」
「飽きたら夕飯にするつもり」
 彼の食にムラがあるのも今に始まった事ではない。
 ツナパンと食パン一斤を昼飯にする事もあればツナパンを半分も食べない事もある。
 朝食と夕食は寮の食堂を使っているのかどうかも判らない有様だ。
 彼は表情を変えるでもなくツナパンをまずは一つ齧り始めた。然程美味そうに食ってはいないが、食いっぷり自体は悪くない。
 俺は照り焼き南蛮チキンサンドに食い付きながら、どうした物かと考えた。
 謝りたい気持ちもあるが、かと言って謝るのは違う気がする。無体をした事は事実だけれど二回とも口だけは彼からの誘いを貰った。
 謝っては俺が彼に触れるのが不本意だったようで、それは全く見当違いだ。
 触れるのは嫌ではなかった。寧ろ触れる事か出来て俺は多分嬉しかった。
 ――嬉しかった。
 捻くれ者の彼の事だからきっと恐らくは俺に抱かれる等望んでいなくて、言質に乗じた事を詫びるべきなのかもしれないが、実際に本意ではなかったと打ち明けられたら何とも苦い心持ちになる。
 下手に嬉しいと思うからこそ余計に。
 だったら俺は彼に何を言えば良いのだろうか。
 忘れた振りをして友人面を続けるのが関係を継続するに賢明なのはぼんやりと判るのだが、腑に落ちないとでも言えば良いのだろうか。
 忘れたくないし、簡単に忘れられたくもない。
 そもそもあの動画がある限り彼は俺のような下心の魔が差す輩に狙われ続ける。せめて二、三ヶ月は張り付いてほとぼりの冷めるのを待ちたい。
 彼に真相を語れば形容し難い重荷になるのは間違いなく、どうにか穏便にやり過ごしたいと心から願った。
 だとすればやはり忘れた方が良いのだろう。
 ――忘れる。
 身体を重ねた人間等一々覚えてもいない。忘れようと意識せずとも記憶からは消えていた。
 どうしてこんなに執着し迷っているのか全く判らなかった。
 好物に入る甘辛い筈のパンは砂を噛んでいるようだ。早々に口に押し込みメロンパンの袋を破った。
 甘い物を食べれば多少は紛れると信じたかった。
 彼はもう飽きたと言わんばかりに残り二つのツナパンを袋に戻し、珈琲の缶ボトルに口を付けている。
 毛質は細いが硬い髪、重力に逆らうようにセットで跳ねているが目許に落ちる影はやはり陰鬱で彼らしかった。
 昨日と同じ青白い頬は硝子細工のように繊細で鋭利だ。
 腰に腕を回して引き寄せていたのは半ば癖。そういえば俺は良くこうやって彼の身体に触れて体温や体重、体型を確かめていたと気付く。
 彼は億劫そうに横目で流し見たが格別文句を言うでもなく上肢を密着させるのを許してくれた。
 ジャージとカーディガン、隔てる布からゆっくり、少しずつ体温が染みてくる。
 平生より少し熱い気がした。昨日は此処まで熱はなかった筈だ。
 残りのパンを大口で食らい、今度は少し意識をして彼の身体を引き摺り寄せ、膝上へと導く。
「……気持ち悪い」
 つれない返答はいつもの物で、それに深く安堵しながら抵抗をしない身体を背中から抱き締めた。
 俺が無駄に大きいせいで平均身長の彼の身体は二回りは小さい。
 すっぽりと腕に包み込み、体温差を再度確かめた。
「微熱?」
「……かもな。寝れば治る」
 彼は少し間を置いたものの素直に認めて俺の腕の中で大人しく俯いていた。
 眼前に白い項があり、跳ねる黒髪に紛れて僅かに赤みを帯びる外耳が見える。
 風邪なのか、或いは無理をしたせいのストレスで発熱したのか判り兼ね、抱き締める腕に力を込めると「鶴見」とぶっきらぼうに窘められた。
「……お前、さ」
 彼は今度は密かに声の調子を落としたから、俺は彼の後頭部に額を押し付けて聞き入る。
「俺の事、嫌いになってねぇの?」
 酷く彼らしくない問いだった。何か裏のあるのかもしれなくて考えてみたが何も思い浮かばない。
「嫌いになってねぇな。何で?」
 問い返したところで無駄だろう事は判っていたし、嫌われていないか訊きたいのは寧ろ俺の方だった。
「気持ち悪いと思わないのか。俺は」
 彼はそこで一つ区切り、俺の腕に手を掛ける。
「俺は、誰でも良いのに、誰も居ないから、お前に抱かれたいって言ったんだぞ」
 折角普段に戻れそうだと思っていたのに容赦なく、まるで用意されていたかのように繰り返された台詞。
 ――本心ではない。
 改めて確信を深める材料にしかならなかった。
「……別に。そもそも俺、他人の事言えた義理じゃねぇし」
 極力平静の呼吸で応答した。俺のスタンスを自分に再確認しながら。
「俺もセックス出来れば誰でも良い」
「でも」
 即座に反論を打たれるが声の暗さは変わる事はなかった。少しでも変わっていたら何かを察する事が出来たのかもしれないのに。
「昨日は相手してくれなかった。俺は対象外という事か」
「そうじゃない」
「だったら何で。面倒臭いから? お前、面倒臭い奴嫌いだものな」
「面倒なのはお断り、それは合ってる」
「俺も面倒だろ。ずっと言うぞ、傍に居る限り」
 彼はどうしたいのだろう。望んでいない事を求めて、俺に嫌われようとしているのだろうか。
 彼ならば嫌われようとするより、自分から逃げ出す方が要領良く成功してみせるだろうに、こうやって腕の中に収まっている。
 矛盾しているように思う。彼が俺を嫌っているのなら判るのに、そして真実嫌っていたのならこんな風に大人しくはしていないと思うのに。
 彼の深層を知りたくても、まるで交差を繰り返す螺旋階段状の迷路、読み取る事が出来ない。
 ならば俺は真っ向勝負に出るしかない。
「ずっと言うなら今度は断らないさ。お前が良いって言うならセフレになるのも歓迎。俺は本当に誰でも良い。都合の良い穴なら」
 彼は俯いたまま押し黙る。
「お前が他に抱いてくれる奴が居ねぇって思うなら俺と利害一致じゃないのか。俺はお前の穴、悪くなかった。めでたくセフレになれるだろ。まあ、お前の抱かれたいが本気ならって話だけどな」
 実際は彼を悪戯半分に狙っている輩は居る。もし本気なら黒島公園でナンパ待ちをしろと言えば良かったのだが、そんな風に安売りされるなら俺が独占したかった。
 あんなに怯えて泣いていた幼けな彼を薄汚い悪戯で汚されたくはない。
 薄汚いのは俺も同じだというのに。
 嫉妬――思い掛けた感情を否定する。
 彼の為だからだ。
 彼が本気なら俺は喜んで受け皿になる。なりたい。けれど本気ではないのが判るから困っている。
 今度彼が本気だと言ったら俺達はきっと取り返しの付かない過ちを繰り返して、彼は深く傷付き、俺は良く判らない汚泥に塗れていくのだと思う。
 判っている。引かなければならないと。
 けれど万が一、本当に抱かれたいだけならば――。
「……俺は、本気だ」
 彼は出してはならない結論に至り掛けていた。
「冗談言えよ」
「鶴見が冗談なんだろ。抱く気なんかない癖に適当な事ばかり言うなよ。哀れんでんのか」
 面倒な人間をコピーして演じている。そう容易く直感出来るくらいには、彼にしてはお粗末過ぎる演技だった。



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