ヒトリノ夜(2)
彼の居なくなるのがお互いにとり良いのは間違いない。考える時間が長ければ長い程一時的な決意は揺らぐ物だ。
彼が本当に俺に抱かれたいとは思えなかった。彼には彼なりの理由があるのだろう。それは複雑で捻くれた思考回路で導き出された回答で、きっと俺の単純な想像等では及ばない。考える速度も追い付かない。
取り敢えず不本意な結末にならないようにと無駄に長く頭からシャワーを引っ被った。
緩くパーマを当てている髪は水分の重さでだらしなく伸び、忙しなく前髪を掻き上げていたら、身体が意思を裏切る。
昨日の味を思い出して勃ち始めた性器を虚しく右手で慰めて、彼の艶姿を思いながらタイルに欲望を吐き付けた。
本当に馬鹿げている。自嘲を禁じ得ず、荒れた息を整えてからゆっくり頭と身体を洗った。
シャワーの音に壁を挟んだ自室の音は掻き消される。彼が居るのか居ないのかも判らなくて時折耳を澄ましてみたけれど結局察知は叶わなかった。
体液の匂いの篭もるのに苛立ち、彼の存在がどうしても気になり、身体を拭くのも気が散漫になる。散らかした制服のシャツは洗い籠に投げやってスラックスからスマホを取り出すと腰にバスタオルを巻き付けて浴室を出た。
出来る限り平静を取り繕い、深呼吸を一つしてから自室へと踏み込む。
彼は居た。
ベッドではなく床で、身を丸めるようにして座っていた。
素足、両膝に大きな赤い痣があるのに初めて気付く。昨日床に膝を付かせたせいだと直ぐに思い当たって思わず苦い顔をしてしまった。
制服のシャツはそのままに着ていたのが唯一の救いか。
部屋は特に荒らされた様子もなく、そうなると彼が何故未だ此処に残っているかが問題なのだが。
「何してた」
笑いたくなる程に冷たい声が喉から零れる。
昨日の様子では性感は感知出来てもアナルセックスには全く不慣れだった。感度は良いがサニーの注記にあったようなアナルオナニーをしている身体とは思えない。
いきなり玩具だけを放られてやれと言うのは無体だった筈だ。出来る筈がない。ならば追い返せる。まだ余地はある。
歩み寄っていくと彼はゆっくりと顔を上げた。作り笑い、陰険で陰気で挑発的な瞳。
頬は紅潮しているが青褪めた肌に乗る朱で余りにもアンバランスだった。
「……出来、た。出来る」
望んでいなかった言葉と同時に寄せられていた膝が少しずつ開かれる。
見え難いが身体の内側、中程まで趣味の悪い紫色のバイブが埋まっているのは判った。
床にはバスタオルが敷かれていて、ローションなのであろう染みが付いている。
俺が浴室を使っていたのは恐らく長くても三十分程度。その間に不慣れな人間が一人でバイブを埋めるまでにするのは相当無理をしたのだと思う。
どうしてと問いたいけれど訊いたところで彼の真意は返らないのだろう。
抱きたくない訳ではない。寧ろ穴としてなら気に入った存在だ。けれど――俺は何に引っ掛かっているのだろうか。
常ならば早々に割り切って据え膳に喜んでいて可笑しくない状況にも関わらず躊躇している。
友人と思っているから、だけでは違う気がする。
アナルセックスの経験がある人間から誘われれば断らないと自分の行動パターンくらいは判っていた。
やはり罪悪感なのだろうかとも思うけれどしっくり来ない。
強いて言えば後悔、やはりそれに近いのかもしれない。
彼を抱いた事への後悔はない筈なのに、彼に対する後悔に近い物を感じている。
抱きたいという欲求が確かに存在する反面、そんなに軽い気持ちで抱いたらより深く後悔しそうな予感。
――彼を性的対象に思ってはならない。
頭に過ったのは唐突な抑制で、同時に酷い欲情を伴った。
その思いの出処を考える前に彼が身じろぎをして、俺の足首へと腕を伸ばそうとする。
「……鶴見、約束……」
彼らしくないような切羽詰まった訴えは苦痛故か、それとも何か別の感情なのか。
俺にそれを察するだけの能力がないのが悔しくて、八つ当たりのままに彼の腕を蹴り払っていた。
「散々人の事ヤリチンだ抜かしてた癖にお前の方が余程節操ないな」
彼は上体を乗り出し俯いたまま暫し沈黙した。何かを考えるように。
痛々しい膝の痣、何か彼の深く傷付いているようにも思えてきて混迷は深まる。
「俺が抱かなかったら他の男の所に行くのか。お前みたいに性格悪い奴抱く悪趣味がいるなら面拝んでみたいが」
「居ない」
殆ど言葉を被せるようにして彼は言い切った。
「お前が抱いてくれなかったから行く宛なんて何処にもない。無節操だよ、抱かれたい。誰でも良いのに誰も居ない。だからお前に頼んでる」
嘘、それは間違いなかった。彼程に自尊心の肥大した自分だけの縄張りを大切にする奴が『誰でも良い』だとか『誰も居ない』だとか口にするのは不自然極まりない。
ましてや俺に頼む等有り得ない。
――一体何なんだ、那須も、俺も。
考えたいのに彼の腕が邪魔をする。
「俺がお前の好みじゃない事くらい判ってる。だけどお前しか居ない。頼むから」
縋るように足の甲を押さえられて、感情は不鮮明極まりないのに身体は勝手に盛り上がろうとする。
生意気で厄介で底意地の悪く狡賢い彼が土下座をするような姿勢で懇願している。
――彼が、俺しか居ないと。
■■■■■
なけなしの理性で彼を抱く事は堪えた。ただバイブで体内を引っ掻き回し後孔だけで無理矢理射精させた。
「挿れて欲しい」と泣きながら言われても出来なかった。出来る筈がなかった。
彼は昨日とは打って変わって顔を両腕で隠し、まるで俺の視界から己を消すようにしていた。
顔はやはり見えなくて良かった。見ていたら最後の理性も吹き飛んでいたかもしれない。
想像して、どろどろとした得体の知れない、けれど鮮明な欲情を滾らせるくらいが丁度良い。彼を見てしまったら、この続きを考えてしまう気がした。
薬物もアルコールも使わずに後孔だけで射精させるのに不安はあったが、彼の身体は酷く敏感で前立腺にバイブを当てると、声を殺した、吐息だけの喘ぎを漏らして泣いていた。
数回それを繰り返すと出る物もなくなって「もう良いだろう」と言って汚れた身体を拭く事もなく制服を着せ直し、強引に部屋から追い出した。
お互い視線の絡まる事もなく、彼は振り返らず、壁伝いに部屋へと帰って行った。
扉が閉まって彼の背中の完全に見えなくなったのを視認して俺も静かに息を詰めて扉を閉めた。
今度こそ嫌気が差したかもしれないが、心の何処かにまた今朝の繰り返しが起こる予感がある。
苛々する。面倒臭いと思う。それなのに俺は扉に寄り掛かって耳を澄ましていた。
隣は空室、その隣が彼の部屋だ。癇癪を起こして暴れていれば聞こえるし、こうしていればシャワーの音も聞き取れる。
けれど西隣の生活音が聞こえるのみ、彼らしい音は少しも聞こえて来なかった。
暫くそうしていたけれど、彼の気配はなく、諦めるような心持ちでシンクに立つ。
冷めた茶と、開封された桃缶が残されていて、妙に寂しくなりながら桃を一つ一つ摘んで食べた。 甘ったるい筈のそれが酷く味気なく感じて、自然肩が落ちる。
もうとうに寮食の夕飯の刻限は過ぎていて、彼は一体何を食べるのだろうと考えた。
■■■■■
こういう時の予感は得てして中途半端に当たる物で、彼は翌日遅刻しながらも登校し、昼の休み時間は開始と当時に文庫本を捲っていた。
那須の読む文庫本は決まって宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だ。
彼は何度も読み返している。そんなに面白いのかと訊いた事があるが彼は「夏の夜空が出てくるから」と答えただけだった。
彼が一等好きな星座は恐らく蠍座なのは判る。
スマホの待ち受けも蠍座、バッグチャームも蠍モチーフ。
非常にメジャーな星座で神話も有名だ。俺は記憶違いをして『銀河鉄道の夜』の蠍の話をギリシャ神話と思っていたが、彼にその誤りを指摘された。
あれは友人になって直ぐの事だったか。
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