梟の声――Time flies like an arrow


 梟の目の玉が、一秒毎に、こと、こと、と、動くのが面白いらしく彼は少しばかり小首を傾げる風をして長い前髪の隙間から黒瞳を輝かせていた。
 彼は本当に着のみ着のままといった具合に私の元へやって来た。
 彼女からの手紙は「ご迷惑をお掛けします」とかその程度の至極簡単な物で、散髪はおろか、随分風呂にも入れていなかったような風体だった。
 彼は本当の本当に、着ていた薄汚れた、しわくちゃの、見すぼらしい服と、踵の壊れ掛けた靴、それとほんの数百円しか持っていなくて、それでも深々と礼儀正しく頭を下げた。
 無言の一礼は恐らくは彼女の命令だったのに違いなかった。
 私はとうとう耐え切れなくて幼い彼の身体を掻き抱いて涙を流した。
 こんなにも情けない私だったから、彼の第一声はか細く小さな「ごめんなさい」という謝罪になってしまった。
 彼には何等罪悪等存在しないのに、彼の産まれてきた事が彼女にとって屈辱であり苦痛なのは最早どうにもならない宿命のような物で、彼女に詰られ謗られ打たれ続けていた彼の、幼心に抱く罪責意識もまた、当然の物だったのかもしれなかった。
 「もうきっと大丈夫だから」と啜り泣きながら私は彼に自己弁護しているかのように繰り返した。
 それを暫く、やはり無言で聴き続けた彼の肩は酷く強張っていて、しかし最後にか細く「はい」と返った声は未だに私の耳の奥に響いている。
 私と彼に血縁がある訳ではなかった。
 ただ、私は彼女に惹かれ、彼女は別の男に惹かれ、彼を授かり出産の直前に男が失踪した。
 以来、彼女は気が狂ったかのように私を含めた友人に当たり散らし、当然彼には一番辛く当たった。
 「あの子が悪い、あの子が居るから私は不幸になる」と言い回り、いよいよ本当に捨てようとして、私が預かりたいと申し出た。
 私は未だ未婚で、結婚するつもりもなく今でも彼女を愛しているし、彼女の子供ならば寧ろ望んで引き受けたかった。
 彼女は養育費等の請求だけに怯える程に彼の不幸せだけを願っていて、私達は弁護士の元、そういった金銭の要求をしないという一筆を相互に交わし合った。
 親から引き離されたら泣くかもしれないと思ったのに、彼は泣くどころか髪に見え難いものの表情さえも全く変わらず、しん、としていた。
 彼には名前が無かった。
 有るには有ったのだが、それは名前ではなかった。だから私は彼の事をずっと「君」と呼び続けていた。
 共に暮らして漸くなのか、もうなのか、三ヶ月が過ぎている。
 小学校に通わせたくても、彼の骨と皮の身体ではどうしようもなく、彼はバスの乗り方も判っていなかったら「自由に居なさい」と言い置いた。
 食事も作らず、風呂も洗わず、掃除洗濯もしない生活は、もしかしたら彼にとり却って窮屈だったかもしれないが、本当に自由で良いのかを確かめるかのように、五分、十分と裏山に行っては帰って来て、私の桐下駄作りを眺めたり、食事の支度を始めればその周囲を落ち着きなく歩き回ったりしていた。
 そして時折壊れたラジオのように「僕は、やしなって貰っているのに、全く仕事をしていない役立たずの屑です」等と繰り返した。
 七歳にも満たない、学校にも通えずに居た子供が『養う』の意味が判るとは思えなかったから、それも恐らく彼女から丸々教え込まれた一文なのに違いなかった。
 毎日風呂を使い、毎日三食を採り出した彼の黒い髪艶は日毎に滑らかになっていく。
 私は彼のそれを言う度に黙って頭を撫でるのを繰り返した。
 「言うな」と言えば彼はきっと命令と取るように思ったから、彼の喉から吐き出される硝子の破片のような言葉を耳に受け止めるしか私に出来る事はなかった。
 もっと器用な人間だったならば上手い何かを言えたのかもしれないが、私はどうしたって言葉が不自由で、彼の髪に触れてその痛みを受け止める外方法が判らなかったのだ。
 彼は未だに時折そういう壊れたラジオになるが、同居を始めた当初よりは他の言葉も発するようになった。
 殆ど放し飼いにしている雌鳥の卵を目玉焼きにして朝食にし、私が「美味しいね」と言えば幾分かの間を置いてからではあるものの「美味しいですね」と返してくれる。
 復唱でも構わなかった。
 これから彼は新しい物事を、歳相応に覚える作業が必要になる。
 何事も反復練習は必要で、だから、彼の語彙が増えるように、私は夜になると彼の眠りに落ちるまで沢山の本を読み聞かせた。
 宮澤賢治、稲垣足穂、夏目漱石、芥川龍之介――幼い彼には難しかったと思うが綺麗な日本語を、日本の伝統を伝えたくてひたすらに文豪の良作を読んだ。
 彼は勿論詰まらない等と不満を言える子供ではなかったが、最近「このお話が聴きたいです」という言葉を覚えた。
 彼の興味は目まぐるしく遷り変わる。
 知識欲求が刺激されているのかもしれなくて、彼の要求通りに私は彼の寝床に持ち込む本を読み上げた。
「……この梟は『銀河鉄道の夜』に出てきた時計屋の梟と同じです」
 彼は前髪に隠れてしまう黒目がちの双眸をうっとりと細めてか細く呟いた。
 全く子供の記憶力とは無限の可能性を秘めている物で、そんな数行の描写を彼は目で見て来たかのように覚えているらしかった。
「瞳が、もう少し赤かったら」
 硝子越しに飾られている梟を模した時計は、確かに『銀河鉄道の夜』に出て来た梟時計に似ていた。
 何かの石を彫って作った一品物なのだろう。
 梟独特の釣り上がった大きな目、その瞳は透明感のある朱色の鉱石で出来ていて、それが一秒毎に、こと、こと、と回転をし、翼に抱かれた丸時計の秒針となっている。
 私も硝子に近寄ってみたが残念ながら非売品と書かれてあった。
「残念だけれど売り物ではないようだね」
 私のうっかりと口を滑らせたが為に、欲しがっていると誤解されたと彼は思い込んだようで「いいえ、いいえ、欲しくはありません、ごめんなさい」と慌てた風に早口に小さく訴えたが、相変わらず視線の絡む事はなかった。
 人を見て話す習慣を教えられていない、或いは禁じられていたのだと思う。
 彼のそういう態度を見る度にきりきりと胸が痛んだが、一遍に何かを覚えようとすれば苦しむだけだ。
 少しずつで良い。
 彼を本当に否定する人間は居ない――彼女とて時間さえ経てば彼を私に託してしまった事を後悔し涙に暮れるに違いない――それを心で知って貰いたかった。
 命令ではなく、心で学んで欲しかった。
 硝子越しからも梟の瞳が秒を刻む音は微かに聴こえていた。
 彼は先とは打って変わり、しょんぼりと肩を落として硝子に指先だけを触れさせて俯いている。
「……四月から……小学校に行けるようにしようね」
 四月からならばクラス替えもあるから、転入生として級友も迎えてくれるに違いない。
 集落から離れて家を建ててしまったせいで、小さな山を一つ超えてしまうものの、バスで通える小学校だ。
 私の旧知が教員で働いているし、校長にも事情は話してある。
 彼の抑圧された物が少しずつ解放されていくのが理想だ。
 彼はもう十分に圧し殺された。後は自由であるべきだった。
 初春の季語とは程遠く、バスと電車を乗り継いで来たこの街でさえ寒風が容赦無く吹き付けていた。
 その風音に混じり、こと、こと、と微かに梟の瞳が呟いている。
 彼の出生は三月だが、折角生まれ変わるのなら新年が良いと思った。
 元旦にそれを話して、彼はぎこち無く、けれど正座の膝の上に作った拳を強く握り締めて、はっきりと頷いた。
 また、梟の瞳に、こと、と時が打たれる。
 こうして時間は本当に光のような速さで過ぎていってしまう。
 不変の愛――それが彼に注がれるように祈り続け、私は生まれ変わった彼に手を差し伸ばした。
「……風邪を引いてしまうといけないね」
 彼は少し名残惜しそうに無機質な梟とだけ視線を交わしながら硝子窓を離れ、すっかり冷え切って仄赤く染まった指を恐る恐る差し出してくる。
 その小さな手をやんわりと握り、折角だから手袋を買ってから帰途に着こうと決めた。
「行こうか、蕨君」
 恐らくは初めて、本当に彼の物になった名を呼ぶ。
「はい、春、さん」
 俯き加減に答える彼の声は出逢ったその日より、僅かに暖かい。



END




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