あのさそりのように――Antithesis


 蠍は悪い虫だ。
 尾には醜い毒の鉤があり、それを獲物に突き刺して殺し、食ってしまう。
 蠍は自分の毒の尾しか信じていない。振り翳して見せびらかし、自分が生きる事しか考えない。
 蠍に追われる獲物は懸命に逃げる。逃げて逃げて逃げて、そうしてとうとう追い詰められての尾に刺されて殺される。
 けれども本当に滑稽な事に、蠍は自分自身が獲物にされた時は、やはり一生懸命逃げるのだ。
 幾つもの命を奪ってきた癖に、自分が食われるのは怖くて堪らない。
 逃げて逃げて逃げて、そうして誰に食われてやる事もなく、井戸にぽちゃりと落ちて呆気なく溺れる。
 井戸は深く、とても這い上がれない。
 冷たい冷たい水の中。
 溺れながら見上げれば、腹を減らした一匹の鼬が、未練がましくぐるぐると、井戸を見下ろし歩き続けている。
 蠍を食えたら一日生き延びる事が叶ったであろう哀れな鼬。
 蠍は酷く勝手に死んでいく。
 勝手に生きて勝手に殺して勝手に食って勝手に逃げて勝手に死んでいく。
 自分の尾しか信じずに。
 蠍はとても悪い虫。
 ――『蝎がやけて死んだのよ。』
 俺はそんな美しく赤く輝き夜を照らす炎にはなれない、本当の、ただの悪い虫だ。



 父のように在れ。母のように在れ。
 そう言われ続けて俺は何の疑問も覚えた事はなかった。
 決まった法則で決まった答えが導き出せる物、それを苦にしている奴等は馬鹿に見えて仕方がなかったし、「俺はお前等とは違う、特別な存在だ」とさえ思っていた。
 両親の命令は「万能の機械で在れ」と同義で、それならとても簡単に出来る事だった。
 一足す一が必ず解けて、何故因数分解を間違えるのか俺には理解出来なかった。
 だから、きっと俺は本当の本当に特別な存在で、ヒトとは違うのだと思っていた。
 そんな俺を苛立たせていたのが中学時代の国語という教科で、「この人物の気持ちを一から四で選べ」と出題されても俺はヒトとは違うから全く判らない。
 法則で選んでも必ず選択肢は二つ残る。難関校の受験問題であればある程、そういう問題の仕様になっていて、この物語文というヒトの心を考えろという理不尽な出題さえなければ、俺は完璧な万能機械で在れるのに、ヒトになって心を考えろというのは屈辱以外の何物でもなかった。
 ――『川の向う岸が俄かに赤くなりました。』
 俺をヒトに近付けたのは、その一文から始まる模試の問題文だった。
 否、正確には違う。
 俺が万能機械ではなく、ただの悪い毒虫だと指摘したのが、その問題文だったのだ。
 それは絶望感さえ伴った。
 俺は本当は悪い毒虫だったのだと泣き喚いても、親は機械が故障したと呆れるだけで、言葉がまるで通じない。
 だから逃げた。追い掛けられたけれど、逃げて逃げて逃げて、今もまだ、逃げ続けている。
 無理を押して親元を離れ、全寮制男子高に入り、実家には年二度、成績表を渡す為に立ち寄るだけだ。
 長く留まると、また考えない機械にされてしまうから、急いで逃げる。
 けれど、俺は機械から解放されたところで結局は悪い毒虫、ヒトにもなれない。
 ヒトを眺めて、ヒトのように振る舞ってみても、やはり本当のところは虫けら。
 懐広く誰でも受け止めようとするのに内側はとても繊細なヒト、ヒトとヒトとの距離感が曖昧で優しいヒト、大胆で奔放で気紛れに見せ掛けて内実はとても臆病なヒト――他にも色んなヒトを観察してきてヒトは皆違うヒトなのだと知った。
 俺は彼等に酷く嫉妬した。俺にはないヒトとして大切な何かを持っているのだと、悔しくて堪らなくて、同時にとても羨ましくて憧れて、それで、やはりどうしたって悔しくて、今となっては唯一の拠り所になっている毒の尾を向けてしまう。
 ――『ああなんにもあてにならない。』
 俺は見えない自分の毒の尻尾に触れながら、夜空に赤く輝く星に語り掛ける。
 俺はヒトの言葉を多くは持っていなかったから、必死になって本をたくさん読んだけれど、行き着くのは、あの虫の言葉でしかなかった。
 一年をそうやって過してきて、二年目で『変なヒト』と同じクラスになった。
 ヒトを知りたいなら知る為に観察に行く。これがとても有効な方法だというのもこの一年で学んだ事だったから、惹かれるままに『変なヒト』の観察を始めた。
彼は鶴見理人という名前の、とても軽薄そうな雰囲気の人物だった。
 けれど、彼の関心の殆ど全ては同級以外の何か別の世界へ向かっているようだった。
 同性愛者だと聞いたが、それ自体は動物の世界でもまま見られる現象だ。発情期、雄しか居ないゲージのネズミは雄同士で性交をしようとする個体も出る。
 だから、全寮制男子高というゲージの中に居て、常時発情出来るヒトが、同性にその捌け口を求めるのは充分理論的に説明が付くし、そもそも日本という国はとかく男色の文化が発展し流行してきた国でもある。
 宗教の概念自体が我流に変化してきたの島国のせいで、信仰心としての罪悪感や抑圧感も、所謂先進国の中では際立って希薄なのだと思う。
 日本の伝統芸能である歌舞伎や能に海外の同性愛者が惹かれるのも当然なのかも判らなかった。
 かと言って、確たる市民権を得ているかと問われれば答えはノーだ。
 同性愛を扱うサブカルチャーはあれど、それと現実の同性愛者は全くの別物。
 性同一性障害のような障害でなく、ただの嗜好としての同性愛は未だ殆ど論議もされていない程に後進的で、元より他国に比べ様々な議題において市民運動も活発とは言い難い。
 どう足掻いても中々公言は出来ない物だと思う。
 けれど鶴見は堂々と公言する。
 その潔さから却って同性に好感を持たれ、格別嫌悪感を持たれる事もなかった。
 そんな贅沢な環境にありながら、彼はヒトを見ようとしない。
 否、見てはいるのかもしれないが、酷く高い位置から気儘に俯瞰しているように思えた。
 異種の癖にヒトとして認められて、何て無駄な事を――当初はそう呆れて、観察対象から外すつもりだった。
 そもそもヒトより高い位置に拘る奴はヒトを『機械』のように思っていて当然で、俺はそういうヒトには嫌悪感しかなかったから無視を決め込もうと思った。
 けれど――『機械』――悪い虫は毒の尾をゆらりと立ち上げてしまう。
 これだから俺はずっと悪い虫のままなのだと判っているのだけれど、俺はまだ神様に祈り縋って焼け死ねる良い虫にはなれなくて、或いはもしかしたら、ずっと冷たい冷たい水の中で溺れて勝手に死んでいくだけなのかもしれないとも思う。
 それならばこの尾だけを信じたままでも構わないだろう。そんな傲慢も確かにあって、だから。
「あいつホモなんだってよ。男使い捨てるんだと。何でそんな屑が好かれるのかマジ意味判らない」
 盛大に嘲笑ってやった。貶めて追い詰めて、自分の愚かさ加減に気付くまで、弄んでやろうと思った。
 しかし、予想以上に鶴見という奴はしぶとくて、真しやかに下品な噂が広がっても全くめげる様子もない。
 だったらもう少し近寄って、もっと毒を突き刺してやる。
「ビョーキ移った?」
 擦れ違い様にそんな事も言ってやった。
 立ち位置、俯瞰、そういう打算的数字と法則で生きてきた奴は大概自尊心という物が異常に肥えている。
 これも人間観察で判っていた事だったから、ひたすら煽ってやった。厭味で煽って煽って煽り続けたけれど、彼は本当にびくともしない。歯牙にも掛けないといった態度を貫いて、余計に苛立ちが募るばかりで、それなのにいざという時、俺はヒトの言葉が少な過ぎて結局いつも落ち着く所。
「馬鹿は死ねよ」
 我ながら低レベルだとは思う。低レベルなりに続けていればダメージは蓄積されていくのも一応データとしては手許にある。
「君は本当に懲りないのだな」
 俺の低レベル連続攻撃に折れずに生き残っているどころか、避けもせずにこうして時たま話し掛けて来さえする一年時のクラスメイトが言った。
「俺、ああいう奴、大っ嫌いだから」
「君に好きだと言われた方が余程痛手やも判らないぞ」
 全体どういう意味だと問うてみてもその元クラスメイトは意味もなく唇を緩めているだけだった。
俺の知る「好き」は好意を示す言葉だ。「好き」と言われて痛手に思う事案が考え難い。
 有るには有るが、それは主に恋愛で起こる物で、俺を歯牙にも掛けないどころか視野にも入れず、そういう方面で名を馳せている彼が、俺から好かれて困ったり嫌悪したりする事態はないように思う。
 少なくとも俺ならば困りはしない。無関心な者からの好意等無価値だから、どんなに踏み躙った所で罪悪意識もないだろう。
 ――けれども。
 ヒトの感情は図り知れない。ある程度の法則はあるが、個体により随分差もある。
 試すだけ、試してみようと決めた。



「ともだち、に、なりたい」
 古今集、素性法師の『今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな』――恐らくは即興の英訳に少しだけ胸がざわめいた。
 それは悪くない小波だった。
 下手な英訳だとは思ったけれど、率直な想いが乗せられているような気がして、存外鶴見という男は素直なのかもしれないと感じた。
 揶揄のつもりで言った台詞がぎこちなく、変化球気味になったのは俺自身、本当にそう願ってしまったからなのかは判らない。
 ヒトでもないのに友人を欲しがる資格なんて元よりなくて、実際俺はあれだけ鶴見に攻撃をしていたのに、鶴見にとっては何となく苗字を覚えいた程度でしかなかった。
 けれど、翌日から鶴見は本当に友人であるかのように俺に声を掛けて来るようになった。
「西条から聞いたんだが俺が遊んでてゲイだって触れ回ってくれてたの那須だったんだな。広報活動助かるわ。その調子でこれからも宜しく頼む」
「……は?」
 本当の本当に昼飯時まで勝手に着いてきて、俺が縄張りにしている特別な空間――生徒は極限られた数人しか鍵を持ち得ない一号館の屋上――にまで踏み込んで来た。
 追い返そうにも少し押したくらいではびくともしない長身だ。触ってみると見掛けよりしっかりしていて思わずこちらの身が退けてしまった。
「合コンの頭数に呼ばれるの面倒でさ」
 贅沢な面倒事だと苛立ったが、突き放す事が出来ないなら飽きるまで放っておいた方が楽で良い。
 どうせ俺なんぞと友人ごっこをするのなんて一週間も続きはしない。
 その正に一週間後、廃部規定を切っていて来年の同好会落ちを覚悟していた、俺が部長を務める天体部に鶴見が入部届けを出して来て、漸くその有言実行する本気度を垣間見た気がした。
「部長しか鍵持てねぇのかよ」
 相変わらず昼飯時は俺の縄張りに上がり込んできて当然のように隣に陣取る。
「天体観測名義で借りてる鍵だし当然だろ」
「でも那須しか部活まともにしてないみたいじゃねぇか」
「お前部誌も見たのか」
「見て良いだろ、俺部員」
 そう言われると返す言葉もない。
 鶴見のお陰で退部者さえ出なければ来年も部費が下りる。
 部員五人で山分けすれば雀の涙の部費予算ではあるけれど、実家からの仕送りだけで生活する身ではどうしたって趣味は切り詰める羽目になっていて、雀の涙であっても充分に有難いものだった。
「鶴見、天体観測、とか、興味あるのか」
「ねぇな」
 僅かな期待は即刻裏切られた。
「だったら」
「まあ俺は話の種が増えれば御の字で。お前だって部の頭数居た方が良いだろ。理科系の部合併拒んだの天体部だけらしいし?」
 思いの外情報網を持っているようで新たな驚きを禁じ得なかった。
「……夜遊び部だから。夜学校に泊まり出来れば良いって連中だし」
「俺もそっち組になるわ、面白そうだ。夜の学校」
 鶴見は上機嫌に笑ってコンビニの袋から調理パンを取り出し、いつものように豪快に齧り付いた。
 厭味の欠片もないのが却って厭味にも思えるし、居心地は悪くないしで、自分が良く判らなくて言葉を止めて俺も鶴見に倣いパンに齧り付いた。
 中学の頃からずっと一人で昼飯を採っていたから、隣に誰かが居るのはどうにも慣れない。慣れる必要もないとは思うが。
「で、今の季節、部長のお勧めは何座よ」
 言った傍から鶴見は勝手に俺のスマホを手に取り画面に光を灯す。吹きそうになって寸での所で堪えた。
「蠍座は判る。夏の星座だろ」
 俺の待ち受けを見て頷くのだからもう我慢ならなくてスマホを奪い返して制服のポケットに突っ込んだ。
「……蠍座は、今の季節でも少しは見られる」
 間違いを訂正しているだけだと自分に言い聞かせた。
「陽が落ちて直ぐの南西、確かに沈み掛けてるから街じゃ気軽に観測は難しいけど」
「この辺りだと白塚展望台とか?」
「そうだな、彼処なら観測出来る」
 鶴見は少し首を傾げて何かを考えている風だった。
 気にはなったけれど敢えて追求する必要も感じなくて、というと嘘になるかもしれない。
 単純に関心をぶつけるのが怖かったのだろう。
 普段あれこれ下世話に詮索したり、悪意ある言葉を放ったりするには困らない口なのに肝心の時に役に立たないだなんて本当にどうかしている。
 味も素っ気もない調理パンを咀嚼して飲み込む作業に集中するよう意識していると、動きを止めていた鶴見もまた、パンを囓り始めて、それで少し安堵する自分が滑稽だった。
 鶴見は俺より早く食べ終えて断りも無しに食後の一服を始める。
 風上だから煙は来ないけれど、嗅覚は過敏にその香を察知し、食べ掛けの飯もそこそこに切り上げ、俺も一服に移る事にした。
 煙草は麻薬よりも依存性が高いという。
 吸ってみたら何か変わるだろうかと考えて吸い出したが、変わったのは財布の減りくらいだ。
 この二十三円の積み重ねでもっと良い天体望遠鏡が買えるのに、等と出来もしなくなった禁煙を考えながらなけなしの金を燃やしていく。
 吸い込むとちかちかと点滅する穂先が、まるで蠍座のアンタレス――蠍の火――のようで、俺はそれも好きだった。夜ならばもっと美しい。
「……蠍座の神話って確か」
 鶴見がぼんやりと煙を吐き出しながら告げる。

「蠍が焼けて死んだ」

 ――『どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。』

 冷たい水に沈んでいくように、全身から血の気が引いていく。
 自分がそんな風に願えたらどんなに良いだろう。
 実際の俺は逃げて逃げて逃げて逃げ続けて勝手に井戸に沈んで、未だに毒の尾だけを信じている悪い虫のままで。
 どうせ悪い虫ならば蠍の火になりたいのに、どうしたらこんな境地に行けるのだろう。
 ヒトの苦しみや悲しみを暗闇を、僅かでも強く、一瞬でも長く照らせる光になれるのだろう。
俺にはほんの僅かの炎も点っていない。
 ――焼け死ぬのではなく、溺れ死ぬ。
 こんな虫ならと深く深く紫煙を吸い込んだ。
 早く溺れ死ねば良い。誰にも期待されず、誰の役にも立たず、独りでさっさと溺れてしまえば良い。
 何でこんなに未練がましくヒトを観たいのだろう。
 ――ヒト、と、居たい。
 不意打ちに目の奥が熱くなって、擬似的に点していた煙草の火をコンクリートに擦り消した。
 何も変わらない。変われない。溺れていくだけ。
 ――『ああなんにもあてにならない。』
「……それは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の話。ギリシャ神話とは違う」
 思考を断絶したくて、彼の言を否定しながら立ち上がった。
 ヒトの隣に居るなんて分不相応で、やはり俺は独りで溺れていた方が良い。
 さっさと退散しようと決めて屋上の扉の鍵を鶴見に放った。
「那須、行くのか」
 鶴見の鍵を受け取る音は聴いたが、立ち上がる気配はない。それに酷く安堵して頷いた。
「じゃ、今日の放課後、白塚展望台行こうぜ。俺、見たいわ」
 胸がまた、どうしようもなくざわめいた。
 辛い、苦しい、冷たい、小波。
 小波なのに足下を掬われそうで。
「蠍の火」



END











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