何処までも――The Lost Man


 所謂何等かの問題のある生徒というのは存外少なくない。十人に一人は居る、そのくらい考えておいた方が実際教鞭を執るに当たってたじろぐ事はない、と、恩師から教わった。
 「子供に輝かしい未来を」等と大義の御旗を掲げる程の意志もなく、「食えれば良い」で教職に就いた時は同級からも音楽仲間からも驚かれた。
 実際なろうと思えば別の道は幾らでもあった。就職困難、ブラック企業等と紙面を騒がせる話題は俺にとり他人事だ。
 詰まる所世の中は金とコネ。金があればコネは作れるし、コネがあれば金は湧き出る。
 この二つを駆使すれば大抵の事が望み通りになっていくから、狡猾な人間は金とコネをどう作るかに頭と労力を使い、狡猾でない人間よりも遥かに要領良く世の中を渡っていく。
 俺は正にそのタイプの人間だった。
 俺自身の金とコネではないけれど、ちらつかせて威嚇、牽制するには十分なバックがある。
 例え使いたくなくても、金とコネに躍起になる人間にとり、俺はその切っ掛けとして如何にも手懐け易そうに見えているのだと思う。
 それならば俺も他人の権威を借りる事に何の躊躇いもなかった。
 こうやって楽にやり過ごせるならばその方が余程賢い。
「……と、いう事情がありますので無事に卒業させる事を改めて確認したく」
 私立校の教師には所謂出戻り組が居る。それも要はコネの成す業という物で、俺も出戻り組、高校時代を此処、私立帆藻学園高等学校で過ごした。
 高等部は全寮制、大学は総合という、知る人のみ知る典型的財閥校だ。
 今時財閥等と時代錯誤も良い所ではあるが、こういう物は連綿と続く、閉ざされた歴史の中で形成されている保守的な存在だ。
 説明をすれば権威を感じる者も居るだろうが、端的に言えばコネがある者ならば九割以上が入学と卒業の権利を金で買える。
 コネが無ければそれなりのランク、伝統的進学校に見える奇術だ。
 そのまやかしを保つ為に大概の問題児が『問題がない生徒』として扱われる。
 先の教頭の話も『卒業させれば良いだけの問題がない生徒』に対する物だった。
 面倒な事に俺はその『問題がない生徒』の内の数人の英語の単位出しを担当している。
 単位を出さなければ卒業が出来ないから何としても単位は出さなければならない。
 結論ありき、どう単位を出すかが教師の腕の見せ所でもあった。
「さて、どうされますか、道成寺先生」
 同じ部署の夏目先生がいつもの不気味な無表情で、試すように訊いて来た。
 俺より九年経験がある国語科の主任教諭ならば俺なんぞより余程心得ているだろうに全く質の悪い先生だ。
「去年同様で良いのではないでしょうか。形だけ補習で」
「やはりそれしかないですかねえ」
「私達より進路指導の先生方が大変でしょうね」
 職員室を出て隣に並ぶ夏目先生と廊下を進みながらジャージのポケットを叩き煙草のあるのを確認する。
「ああ、進路指導、大変でしょうなあ」
 夏目先生は抑揚のない暗い声でもそもそと復唱したが、やはり俺と同様他人事のような響きがあった。
 「失礼」と言い置いて俺は学科準備室ではなく、勝手にそれと決めている喫煙所に向かう事にした。
 夏目先生は距離感もあり、付き合い易い同僚ではあるが、敢えて親密である必要もない。
 他の教職員と鉢合わなければ良い等と胸に思いながら、比較的立ち入る者の少ない一号館屋上を目指す。
 満開の桜を、散り急がせる春雨だった。風の強くないのがせめてもの温情か。
 そんな雨の中、わざわざ外を選ぶ者もなく、狙い通り一号館の屋上は無人だった。
 此処からは、北に校庭を囲む桜、西に正面門構内メインストリートになる銀杏並木が良く見える。
 正に今日、今年度の仕事始めを迎えたばかり、流石にこの雨の中では校庭を使う運動部も花見の生徒も居ないらしかった。
 ほんの僅か、貯水タンクより出た庇部分に縋って一服するつもりだったが、何となく桜を見ておきたくなって、上着のジャージを脱いで頭に被り雨避けにしてフェンスまで歩く。
 霧雨とまではいかなかったが優しい雨だった。
 桜は白く色素を失い、煙るように咲いている。
 優しいが確実に染み込んで来る冷たい雨はいっそ残酷で、湿気るのも気にせずそこで一服する事にした。
 始業式は五日後、入学式はその二日後。この桜は果たしてそれまで保つのだろうかと思いながら白い穂先に点火する。
 雨が直撃しないよう手を翳して煙草を守りながらぼんやりと見下ろしていると、件の話題に上がった『問題がない生徒』の一人が校庭を歩いて来るのを見付けてしまった。
 何やら嫌な物を見た気分になる。
 その生徒は素行不良でこそないのだが、成績は壊滅的。加えて制服の着崩しが着崩しと呼べる物でもなく、改造とも言えない怪体な姿が特徴だった。
 何処で仕入れたのか時代錯誤の学帽を深く被り、冬服はブレザーの代わりに学ランを着込んでいる。
 スラックスこそ学校指定の制服だが、裾を捲り上げ、靴ではなく素足に下駄を履く。
 入学した次の日からその格好を貫き生徒指導部の頭を抱えさせてきた。
 加えて、父子家庭。しかも養子縁組。
 これで本当に素行不良、非行にでも走られたら全く手に負えない。
 何故そんなややこしい生徒を入学させてしまったのか、受験担当を恨むしかなかった。
 その目立つ学帽の生徒は、珍しく学ランは着ていない。白いシャツにこれもまた時代錯誤の黒いサスペンダー、左手に下駄を持ち、いつもと同じようにスラックスの裾を捲り裸足で歩いているようだった。
 何とか早々に卒業して貰いたいと俺も心から思っていた。
 ――彼の何処に行こうが俺の知った事ではない。
 それでも彼の動向を気にしてしまうのは、俺のせめてもの良心なのかも判らなかったが、ただ彼を眺めていた。
 彼は俺の見ている事等知る由もなく、一本、孤立したようにら立っている桜の木の下へと入る。
 今更雨宿りなのだろうか。頭の可笑しい子供の取る行動は理解出来ない。
 反抗的な態度もない癖に服装だけは断固として譲らず、勉強も碌にしないあれには未来がある筈もなかった。
 彼は学帽を取り、水気を払っているようだった。
 ならば何故傘を差さないのかと改めて気が滅入る。
 やはり見なかった事にする方が賢いと思ったが、目を離す事も出来ない。面倒で堪らなかった。
 彼は下駄を桜の小枝に掛け、学帽までそこに添えた。
 そして長い前髪を二、三掻き下ろすような所作をした。
 それきり桜を眺めている風で動かない。
 雨と桜の白い靄の中、そんな姿は自力で餌を取れずに佇んでいるだけの間抜けな鷺のようにも見えた。
 モノトーンで彩色された世界に見事に溶け込んだかのように舞い降り、馬鹿丸出しに突っ立っている。
 こんな雨の日に花見等本当の本当に気でも狂ったのかと心中呆れるが、そんな俺もわざわざこの雨の中桜を見にフェンスまで吸い寄せられた人間で。
 ――胸糞悪い。
 毒吐く思いは彼に対してなのか、自分に対してなのか、漠として曖昧だった。
 否、彼に対してに違いなかろうと自分に言い聞かせたくなるくらいには罪悪感のような物も覚えてしまい、益々もって気が滅入っていく。
 この一本を吸い終えたら見なかった事にして立ち去ろう、そう心に決めた瞬間だった。
 最初は雨に濡れたのを拭っているだけなのだろうと思った。
 しかし、それは何度も何度も繰り返される。
 彼は掌で目許を拭ってはまた拭っていた。
 雨音以外、街の喧騒も遠い。
 表情までは見え難い。あの黒く長い前髪が邪魔だ。
 彼はとうとう完全に俯いてしゃがみ込んだ。まるで地面と融解でも望んでいるかのように。
 時折、肩が、震えている。
 ――何処に行く気なのか。
 考えている内に身体は勝手に走り出し、階段を駆け下りていた。



「おい、お前」
 大地に融けてしまわない内にと柄にも無く大きな声で呼び掛けながら近寄って行くと、その『問題のない生徒』は慌てたように起立したが、振り向かない。
 目許を擦る所作を後ろ向きにしながら桜の小枝に掛けた学帽を取ろうとして、それでは何も変わらないと直感して、伸ばされた左腕を掴んだ。
 酷く冷たい。一体どれだけの間、この春雨の中を渡っていたのか。
 彼の硬直した身体を半ば強引に振り向かせると、抵抗も無しに振り返り、けれど右の掌で顔を完全に隠している。
 垣間見える顎から水雫がぽとりと落ちた。
「まだ春休みだろ。部活か」
 部活でないのは判っていた。彼の浮草の如く、一つ所に留まらず、部活動も所属せずに呼ばれれば混ざるというのも職員室の失笑を買っていたから。
「……ああ、はい、そんな所です」
 相も変わらず受け答えは比較的従順、歳相応だが、嘘だと正す切っ掛けを容易に掴めないのは質が悪い。
「……校庭誰もいねぇだろ。何処に行く気だ」
 幾分かの間を使い、精一杯頭を回転させて問い掛けた。
 また荷物運びだとか、そんな言い訳をしてくるのだろうと思う。実際彼はそうやって他の部活動の雑用を頼まれては好んでやっていると聞く。
 金にもコネにもならない面倒事に自分から頭を突っ込むのは余りに要領が悪い。
 今の自分も本当に自分らしくない。
 走り出した直後から思っていたが、ジャージは濡れているし、愛用のビニール草履も、気に入っているデニムも濡れてしまった。
 もう何もかもが今更だった。
「……何処……」
 彼は口の中で復唱しながらそっと右手を下ろした。
 結局前髪に隠れていて鼻先から下くらいしか顔は見えない。
 その簾のような濡れ切った黒髪の隙間から真黒の瞳が僅かに覗いてはいるが、視線は地に落ち、唇は意味の判らない笑みの形をしていた。
 頬からは水滴が流れ落ちているというのに。
「ああ、何処へ行くんだ」
 半ば焼け糞に再度問い質す自分が本当に滑稽で、俺まで自嘲をしてしまう。
「……『何処までも行くんです』」
 意味不明の答えが返り。
「そう、答えた少年が居たのですが、その少年が本当に何処までも行けたのか、俺には判りません」
 即座に彼は続けて吐息を抜くかのようにしてまた少し笑った。
 冗談なのか何かの哲学なのかさっぱり判らない。やはり関わるべきではなかった。
 けれど俺の線は彼と交差をして、今、右手と左腕が繋がっている。
「先生は『何処まで行くんです』」
 抑揚こそ少ないが良く通る耳心地の良い低音に問われた。
 どうしたって意図は汲み取れないが、もう一々気にするのも億劫になってくる。
「……煩ぇな。濡れて突っ立って風邪でも引かれたら面倒だろ。茶くらい出してやるから準備室来い」
 彼は何故かまた笑った。
「先生は『鳥を捕まえる商売』だったのですね。ならば俺はお茶をご馳走になるついでに『チョコレートよりも、もっとおいしい』菓子も食べてみたい」
 そこまで言われて漸く今までの言葉が、ある幻想的児童小説の引用だったのだと気付いた。
 成績の悪い癖に碌でもない物を暗記していると思う。その記憶力を何故英語に活かしてくれないのかと悩ましいが、何となく悪い気はしないのが不思議だった。
「生憎芋羊羹しかねぇよ。今年は渡り鳥の景気が悪いんでな。お前を取っ捕まえて天の川の水明かり、だっけか。何日か吊るしておけば食えるのかね」
「何と。俺は鷺でしたか」
「どちらかと言えば詐欺だな」
 桜の小枝に引っ掛かる学帽を小指に、下駄の鼻緒を人指し指に引っ掛けて人質にすると、彼はゆっくりと小首を傾げて「鳥捕りの気がするからやはり俺は鷺のような」等と呟いていた。
 実際彼はこの校庭の白く煙る桜の木の下、土の上に融けていってしまいそうだったから、そうなる前に捕まえられのは景気の悪い中の収穫なのかもしれなかった。
「行くぞ」
 そろそろ他の英語科の教員も帰路に着いただろう。
「成績は怒らないで下さい」
「怒った事ねぇだろ。面倒臭ぇ」
「ああ、そうでした。先生はとても優しい」
 少しも優しい等とは思っていないのは痛い程に判ったが、生意気だと笑う仲でもない。
 彼の頬に降る雨が恐らくは冷たい雨だけになったように思えたのに何となく安堵した。
 けれど、桜を散らす惨い雨は止まない。
 ――彼はその意志さえあれば、実際何処までも行ってしまうに違いない。
 そんな事を考えた。
 雨粒に濡れた白い花弁が、ぽとりと落ちる。



END



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